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2013.03.13

松本良順について〜吉村昭「暁の旅人」から

松本良順。
その名はかねてより知っていましたが、その生涯について今非常な興味を持っていくつかの本を読んでいます。

Photo写真の左は「松本順自伝」(本人著)、右が今回取り上げる「暁の旅人」(吉村昭著)です。
松本良順を取り上げた歴史時代小説としては司馬遼太郎の「胡蝶の夢」も有名ですが、これは別の項で取り上げます。

あらすじをざっと書きますと
「松本順(良順)という幕末から明治初期にかけての医師の話。実父佐藤泰然(佐藤藤佐の長男)は和田塾(のちの順天堂)の創始者。ポンペと共に長崎大学医学部の元を作ったとされ、大阪城で逝去した徳川将軍家茂を看取り、新撰組の近藤、土方と懇意にし、戊辰戦争では会津戦争で会津城内に野戦病院を設けて奮闘し、賊軍に組したものとして投獄されたものの、明治新政府の初代陸軍軍医総監になった人です。最後は男爵位まで授かっています。健康のため、牛乳の飲用と海水浴を推奨し、大磯を海水浴に適する別荘地として開発したため、大磯に松本良順の銅像があるそうです。」
Photo_3松本良順。
軍医としての正装でしょうか。

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2007.11.01

『義民が駆ける』

藤沢周平の小説です。
しかし、実際にあったノンフィクションですし、様々な史実、資料を元にしていますので「小説」という範疇に入るのかどうか、人によって考えが違うかもしれません。
以前にも、荘内藩の関係した『三方領地替え』のことを書きました。ブログ記事「歴史と人(まとめ?)」

はじめてこの話を聞いたのは、高校の日本史だったかな?「理系進学コース」でしたが、日本史と英語が得意で、数学と物理が苦手な「文系」な私でした。その後、何回かこの『三方領地替え』の史実を読み聞きしましたが、「他人事(ひとごと)」でした。
庄内に住むようになって、またこの話をどこぞで読み聞きし、荘内酒井藩と庄内の領民との素晴らしい関係を思っていました。今でも、酒井家当主は鶴岡に住んでいて、町の人から「殿様」と呼ばれています(少なくとも先代の17代忠明さんは呼ばれていた)。
鶴岡と酒田が牽制しあったり陰でいがみ合う事があると言っても、酒田には亀ケ崎城という枝城があって、荘内藩の一部であり、本間家を始めとする富豪商人が酒井家を助けていたことは事実です。武家と商人の街の違いはあっても、「庄内」という一つの地域として江戸時代から300年以上続く関係です。

藤沢周平が、自分の出身である鶴岡や庄内を舞台にした小説をたくさん書いている事はつとに知られており、最近は「蝉しぐれ」「隠し剣鬼の爪」などなど映画化、テレビドラマ化が盛んです。その中で『三方領地替え』を題材にした、「義民が駆ける」は、最初に書いたようにほとんどがノンフィクションであり、地元の美談を必ずしも美談として捉えずに、少し醒めた目で観察し、しかしやはり地元への深い愛に基づいて書かれた話です。
ずっと前から読みたいと思っていました。
なかなかチャンスがなかっただけですが、実際に本を手に取ったことはなく、話だけはおよそ聞いていました。
そして最近、ついに本を手にとり、一気に2日程で読み終えてしまいました。
内容をご存知の方にだけ通じる話ですが、最後から少し前の「沙汰やみ」になった事を江戸から伝える早駕篭に乗った使者が、清川口(清河八郎の出身地であり、最上川沿いに新庄最上地区からいよいよ「庄内」にはいった、と実感する場所、友人の「タビの親父」さんもこの近くの狩川に住む)から庄内領に入って、その駕篭の意味を知った百姓が駕篭を伴走し、次第にその数が膨れ上がり、雄叫びを上げながら駕篭とともに鶴が岡城を目指すというシーンでは、熱いものが込み上げて来る事を禁じ得ませんでした。
庄内の領民が殿様を慕い思い、領地替えに反対するため自分の命をかけて江戸に昇り、江戸城登城中の老中たちに直訴する「駕篭訴」や、秋田、仙台、米沢、会津などの周辺外様大名(酒井は徳川四天王なので高位の譜代大名)に願訴に出かけて行く話などは、やはり美談と考えたくなります。江戸時代のことです、庄内から江戸に出るだけで10日から2週間もかかるのです。最初の「駕篭訴」は成功しても、「領地替え」が覆る気配や知らせはなく、その後も庄内百姓は訴えに出かけるのですが、幕府の目を気にする荘内藩自身が「国を出る」彼らを捕えて連れ戻そうとします。そのため、道のない沢伝いに鳥海山麓から秋田領や新庄領に抜けたり、船で新潟領に出るため酒田から出航しようとして役人に見とがめられて、秋田領に抜けて結局徒歩で江戸に向かったり、山形領を抜けられず、鳴子から仙台領に入って結局「大量の国外農民の通行まかりならん」と返されたり、と簡単ではなかったようです。その辺を藤沢周平は、史実を冷静に伝承する様に、比較的淡々と書いているように思えます。しかし、江戸時代、冬の山越え、装備も貧弱で、家に家族を残し、農作業を中断して、「殿様に残ってもらいてちゃ」という思いで江戸や周辺の大名領地に徒歩で行くというのは相当辛いものだと思います。
単に「殿様」を思い慕う美談ではなく、別の所から新しい殿様が来たら、今までの安定した生活が立ち行かなくなる、年貢米の取り立てが厳しくなり、不作の時には餓死者も出るだろう、という自己防衛のための行動であったという説明は、理解は出来ます。でも、こんなに大変な事をするだろうか、と我が身に置き換えて考えてみます。
当時の百姓の気持ちを、最後の方で藤沢周平は次のように記述しています。
「昨日のように今日があり、今日が何ごともなく明日につながることに、彼らは暮らしの平安をみる」
「帰ってきたのは、手垢に汚れた変わりばえもしない日々であるはずだった。」

変わらない事、平々凡々な事、貧しくても安定している事。時代の流れの中で、自ら望まないのにいくらでも、変化は起こりうる。江戸時代天保年間のこの庄内の話だけではなく、いろいろな時代に戦があり、天変地異があり、一般市民は翻弄されて生きるしかないことは少なくない。変化が起こってもそれを受け入れてじっと耐え、何とか乗り越えて行くのが、一般的なA型人間の日本人だと思っていたが、「変化を望まないため」に闘って、その結果、自分たちの思い通りに幕府や領主をさせてしまったとすら言える庄内の百姓たちのパワーは恐るべきものがある。それを陰で支え、ある意味で操った酒田の本間家の力というのも恐ろしいものである。
『三方領地替え』が沙汰やみにならず、実際に行われていたら、きっと今の庄内は違う雰囲気だったであろうし、私は今ここに暮らしていないかもしれないとまで思う。

まだお読みでない方で興味を持たれた方は、是非ご一読をお勧めする。(手紙や条文や訴状などが書かれているため)ちょっと「候文」が多くて読みにくい所も多いのですが。
最後に、私のお気に入りの部分を引用します。
初めて、江戸へ駕篭訴に上がる、第1陣の百姓たちの会話。老中の駕篭に近づくのだから格好もちゃんとしなければ行けないと考えて羽織を持参した者に、「百姓の格好のままがいいのだ」と指導的立場の者が説明した事に対する返答です。
「ンだども、そえでは少ししょすようだ気もすんどものう」
(ですけれど、それでは少し恥ずかしいような気がするんですけどね)

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