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2013.03.13

松本良順について〜吉村昭「暁の旅人」から

松本良順。
その名はかねてより知っていましたが、その生涯について今非常な興味を持っていくつかの本を読んでいます。

Photo写真の左は「松本順自伝」(本人著)、右が今回取り上げる「暁の旅人」(吉村昭著)です。
松本良順を取り上げた歴史時代小説としては司馬遼太郎の「胡蝶の夢」も有名ですが、これは別の項で取り上げます。

あらすじをざっと書きますと
「松本順(良順)という幕末から明治初期にかけての医師の話。実父佐藤泰然(佐藤藤佐の長男)は和田塾(のちの順天堂)の創始者。ポンペと共に長崎大学医学部の元を作ったとされ、大阪城で逝去した徳川将軍家茂を看取り、新撰組の近藤、土方と懇意にし、戊辰戦争では会津戦争で会津城内に野戦病院を設けて奮闘し、賊軍に組したものとして投獄されたものの、明治新政府の初代陸軍軍医総監になった人です。最後は男爵位まで授かっています。健康のため、牛乳の飲用と海水浴を推奨し、大磯を海水浴に適する別荘地として開発したため、大磯に松本良順の銅像があるそうです。」
Photo_3松本良順。
軍医としての正装でしょうか。

「暁の旅人」は、安政4年(西暦1857年)8月19日(太陰暦)から始まります。
Photo_2(佐藤泰然)
良順の父、蘭方医の佐藤泰然は、長崎でオランダ語、オランダ医学を学び、江戸の薬研掘に和田塾を開き、陪臣堀田家の家来となって千葉の佐倉に佐倉順天堂を作りました。その泰然と同年代で若い頃から既知の仲であった奥医師(江戸城奥詰で将軍の専属医師)松本良甫(りょうぼ)に跡継ぎがなく(良甫自身も松本家の婿養子だが)、泰然の次男であった順ノ助が養子に入ったのです。祝言を上げて良順と改名します。

奥医師は旗本と同格で、禄は少なくとも身分は小さな大名と同格かそれ以上の扱いを受けていました(なにせ、江戸城奥で将軍の身体に直接触れる立場です)。ですから、陪臣の家来である父泰然とはこの時点で家格に全くの差が出来ます。身分制度の厳しい江戸時代。この身分の差はその後、良順が実の父である泰然と一定の距離を置く上で理解しておかなければなりません。

父泰然に付いて蘭方医を学んでいた良順は、漢方医(養父良甫も漢方医)が主流(本道)である徳川幕府の医療制度の中で最初は嫌がらせを受けますが、開明派の老中などの援助を得て長崎に留学し、ポンペに最新のオランダ医学、西洋医学、実地医学(解剖、外科学や消毒など)を学び、実地の医療技術として身につけます。それまでの洋学は本を読んで覚えることが主体であり、知識はあっても実際に患者を診れるかというと「?」な部分があった訳です。

長い長崎留学から江戸に戻り、西洋医学の病院と学問所を作りたいと考えていましたが、時代は幕末、明治維新の動乱。良順もその大きな波に飲み込まれて行きます。最先端の医療技術を持つ医学所頭取(徳川幕府の医療機関の実質の最高位)の立場で、将軍家定を看取り、将軍家茂について上洛。新撰組の近藤や土方と懇意になります。
家茂が大阪城で死去する際に最後まで傍にいたのも良順。

その後、鳥羽伏見の戦い、上野彰義隊と戊辰戦争が進みます。
永年徳川に恩顧を受けながら、西軍側に寝返って行く多くの譜代大名に失望する一方、最後まで徳川幕府と命運を共にする決意で闘い続ける会津藩。良順は密かに医学所の弟子を連れて会津に入り、野戦病院で戦傷者の手当をします。松平容保直々に拝謁し感謝の言葉をかけられます。

『容保は、眼をうるませて何度もうなずき、
「よく、来てくれた」
と、感謝の念をこめて労をねぎらい、良順たちのために藩はあらゆる便宜をはかる、と言った。』

しかし、医師という大切な身体、会津を立ち去る様に容保から言われ、庄内藩士で藩医士の本間友ノ助に乞われて鶴岡に向かいます。

『「よろしい。庄内に参ろう」
良順は力強い口調で言った。
本間たちは眼を輝かせ、何度も頭をさげた。
良順は、かれらの眼に涙が光っているのを見た。』

会津ー米沢間の峠を越え、出羽三山を踏破して庄内に入るという南東北を縦断する旅で良順の身体はボロボロとなり「リウマチ」と考えられる症状が出て、歩くことは愚か立つことも出来なくなります。

そこで、鶴岡の近くに良い温泉があるということで湯治に行くのですが、「暁の旅人」には「近くに湯田川という万病に効能のある温泉があり、、、」と書かれています。吉村昭が膨大な資料を調べて書いたのでしょうから、これを簡単に否定はしたくないのですが、松本良順本人の自伝「松本順自伝」によれば、「、、、海岸に至り、温泉に浴すること二週日余。」と書かれています。

鶴岡近郊の海岸にある温泉。
これは「湯野浜温泉」に違いありません。
事実はどうなのか、調べてみたい気持ちになっています。

その後は、仙台で榎本武揚、土方歳三に会い、土方の勧めで(榎本に誘われた)函館には行かず、戊辰戦争で連戦連勝だった庄内藩でも活躍したスネル式銃で知られる商人スネルの船で横浜に戻り、そこで新政府に捉えられ、牢に入れられます。牢と言っても大名の牢屋敷に軟禁される程度で、やがて放免され、養父や妻など家族に会い、横浜に移り住んでいた実父泰然や母にも会い、早稲田に全く新しく西洋式の病院を建てて注目を浴び、山県有朋に請われて明治新政府の初代陸軍軍医総監になります。
軍の兵隊の体力増進、病気回復、一般市民の健康増進のために、牛乳の飲用、海水浴の推奨をします。
愛する家族の死などが最後の方に綴られ、末子本松が順天堂大学の耳鼻咽喉科学教授となって昭和36年に死んだという記載でこの本は終わっています。


来週、遊佐町の順仁堂遊佐病院で講演をします。
Photo_4この順仁堂は順天堂に倣って命名されていると思われます。
初代の佐藤意泉は、佐倉順天堂で佐藤泰然やその養世嗣(長女の婿)佐藤尚中に西洋医学を学び、遊佐に戻って遊佐病院の基礎を作っています。
Photo_6遊佐病院の二代目佐藤国蔵も東京の順天堂で佐藤瞬海(尚中)に学んでいるのです。
(遊佐病院内にある国像先生の胸像。今度実際に写真に収めて来ようと思います)

そして以前も書いた様に、同じ遊佐出身の佐藤政養。
Photo_5(遊佐町吹浦駅まえにある、佐藤政養立像。毎年鉄道の日にはここでJR関係者、遊佐町関係者参列のもと顕彰の式典が行われる)
勝塾の塾頭で、勝海舟が渡米中の塾をまかされる程であった佐藤与ノ助(政養)が日米修好通商条約締結時に江戸湾ではなく横浜村が港として最適な地と海舟に進言したのが今の横浜の隆盛になっています。徳川将軍家茂が大阪湾を幕府の艦船で視察した際、奥医師である松本良順もその船に乗っていたはずですが、佐藤政養は軍艦方として同船していたのです。
もしかすると、遊佐という共通点を持つ二人はそこで会っていたのでしょうか。


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コメント

ひじょうに興味深いお話です。リューマチでようやくたどり着いたなら、すぐ近くの湯田川温泉かと思いますが、湯野浜温泉なら、いざという時にも舟で逃亡できるので安心でしょう。温泉の歴史から言っても、どちらもありえます。これはやはり、地元の地方史家の登場を待ちたいところですね。

投稿: narkejp | 2013.03.14 20:11

narkejpさん、ありがとうございます。
鶴岡市郷土資料館に行ってみたらどうか、というアドバイスをいただいております。機会をうかがっています。
何かわかりましたらご報告したいと思います。

投稿: balaine | 2013.03.15 01:21

あ、それからTBありがとうございました!
この松本良順、narkejpさんもお好きなあの「仁」にも、ちゃんと奥医師として登場していましたよ。

投稿: balaine | 2013.03.15 09:14

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» 吉村昭『暁の旅人』を読む [電網郊外散歩道]
講談社文庫で、吉村昭著『暁の旅人』を読みました。順天堂病院の創始者・佐藤泰然の次男で、幕府奥医師の松本良甫の養嗣子となった松本良順の生涯を描いた、評伝風の作品です。作者の医家ものは定評がありますが、本書もまた、幕末の動乱を背景にした、重厚な物語です。 ...... [続きを読む]

受信: 2013.03.14 20:12

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