徳尼公のこと
徳尼公廟は、門をくぐるとすぐ左にあります。あまりにすぐそこにあるので、最初はよくわからず境内を見回して、少し歩いて、「あ、やっぱりここだ」という感じでした。立派な廟の横に「酒田三十六人衆之碑」という石碑がありました。
『泉流寺の創建は、文治5年(1189)に平泉を本拠に置いた藤原氏が源頼朝の奥州合戦で敗れ、秀衡の夫人(妹?後室?)と称する女性が36騎の従者を連れ酒田に逃げ落ち草庵を結んだ事が始まりとされます。草庵は平泉から流れてきた事で「泉流庵」と名付けられ、女性は徳尼公と名乗り87歳まで藤原一門の菩提を弔ったと言われています。徳尼公が亡くなると遺臣となった36人は土着の道を進み、やがて廻船業などで成功する者も現われ、酒田36人衆の祖となったそうです。宝暦元年(1751)に泉流寺が火災に見舞われ、徳尼公の木像も焼失しましたが、本間家三代目当主光丘が京都の仏師に頼み新たな木像を作らせ、木像の安置する廟堂も寛政2年(1790)に寄進しました。泉流寺徳尼公廟は酒田市指定有形民俗文化財になっています。』
ということです。
奥州藤原氏の栄華を誇る煌びやかな花を開かせた平泉は京から遠く、最上川の河口に位置する酒田湊は京と平泉を結ぶ交通の要所として大切な場所でした。頼朝により義経討伐そして奥州藤原氏滅亡を迎え、秀衡の家臣団36人に守られて秀衡の妹とも後室とも言われる徳の前は、現在の秋田県を通って出羽三山の麓、そして今の酒田の飯森山の近くに逃げ落ちて「泉流庵」という庵を編み、藤原の菩提を弔ったと言われています。
そして「今酒田」と呼ばれる現在の酒田市街地に三十六人衆が移り住んで街を造り、徳尼公廟を現在地に移しこれまで800年以上に渡って酒田の民が廟と泉流寺を守って来たと言うことになります。
明日から5月。
5月は酒田まつりの月。これまで402年間、一度も休むことなく毎年5月20日に行って来たこの祭りも、徳尼公と彼女を守った奥州藤原家臣団がその基礎を造ったものと言えるでしょう。
酒田に暮らして都合7年でようやく徳尼公のご尊顔(は見えませんでしたが)を拝し嬉しい一日でした。
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コメント
酒田には何度も足を運んでいますが、そのような伝承があったことをはじめて知りました。87歳という没年齢は、当時としては驚異的な長寿ではなかったかと思います。それも、神格化の原因の一つでしょうか。
投稿: narkejp | 2012.05.01 06:47
narkejpさん、没年齢から逆算すると平泉から落ちた時すでに59才か60才くらいです。秀衡の嫡男(次男)泰衡の裏切りで義経は殺され、泰衡も家臣に裏切られて討ち果たされ、奥州藤原氏は滅亡した訳ですが、どうして徳尼だけ逃落ちたのか不思議です。
でもこの伝承は、酒田市資料館2階の常設展にも展示されており、それなりの根拠、資料があるのだと思います。
投稿: balaine | 2012.05.01 14:39