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2012.01.25

庄内の歴史のことを少し

大寒を過ぎ、立春までの今の時期が一年で一番寒い時期らしい。
今朝は出勤前の気温が「−4℃」で、道路がガリガリ、部分的にツルツルだった。

さて、久しぶりに庄内の歴史に関する話。
Photoこれは酒田市資料館に展示されている「庄内」の地形図。右側が北で、上方日本海が西になる。
画面左下の方になる村山地方(寒河江、山辺、そして山形市方面)との間には出羽三山が通行を阻む。
真ん中下の最上地方とは、最上川以外はやはり山に隔てられている。
左端の新潟方面には朝日山系が聳え、日本海に面した温海の狭いところを越えて行くしかない。
そして画面右側秋田との県境には独立峰としては東北一2236mの高さを誇る鳥海山が聳え立っている。
それらの山々と日本海に囲まれた地域の真ん中を、山形の母なる大河最上川が流れ貫き、そのやや南には月山から朝日山系から流れ下って集まった赤川が鶴岡から三川町を貫いて、最後は酒田市で日本海に注いでいる。

地形図を見るだけで、庄内地方がいかに肥沃な土地であるか想像に難くない。山、川、田畑、そして海とあらゆる幸に恵まれた、幸せな地域である。
今や毎年1000人以上人口が減り続けている、湊町酒田は地理的に見て庄内平野の海側の真ん中に位置する。鶴岡は湯野浜〜大山から一歩奥に位置して比較的山に近い。

酒井家が庄内を治める様になった時、酒田(亀が崎城)と鶴岡(鶴が岡城)の2台拠点があったのだが、鶴岡が武士中心の街となった理由としては、当時の酒田があまりにも栄えていたことが挙げられる。海運、舟運で物や人が大いに行き交い、活気のある街だったということは、遊興の面でも栄えていた訳で、花街も発達していたらしい。庄内藩としては、そんな酒田よりも山よりに少し引っ込んで静かな鶴岡を城下町とする方が家来達の日常生活の安全安定の面から好ましかったようである。徒歩であれば、鶴岡から酒田までは健脚でも6時間はかかる道のり。往復するだけで1日を費やすのであるから、そうそう容易に「酒田に遊びに」行くわけにはいかなかっただろう。

36ninsyu_genrokua_01a江戸時代、西廻り航路が開拓されて北前船が寄港する街となった当時、「西の堺 東の酒田」と呼ばれる程、千利久で有名な大阪の堺と並び称される程の繁栄を誇ったのである。
その大本は、この写真にある「酒田三十六人衆」と言われている。
「三十六人衆」は酒田土着の民ではなく、いろいろな地域から集まって来たようであるが(加賀屋の名前の様に加賀の国から来た者、有名な本間家は元を正せば佐渡からと言われる)、中心となったのは奥州藤原氏滅亡の際に三代藤原秀衡の後妻(または妹)と言われる徳の前を守りながら、平泉から都落ちしてきた三十六人の家臣が中心と言われている。

36ninsyu_genrokuazu_01a「徳尼公」と家来達は、まず平泉から秋田に逃げ、南下して今の羽黒山辺りに隠れ、それから今の酒田市飯盛山近く(最上川南岸)に移り住んだようだが、16世紀初め頃から最上川北岸の現在の酒田市中心部に移動して、そこで自治組織を作り街を運営して行ったようである。
 栄えた当時は、酒田湊に停泊する船のマストがまるで林の様に立ち並んでいたと記録される程の栄華を誇り、酒田湊の商人は巨利の富を蓄積して、その繁栄振りは近隣の秋田湊、新潟湊などをおさえて日本海側随一と云われた。井原西鶴の「日本永代蔵」に日本海側の代表として36人衆の一人「鐙屋」の繁盛振りを「北の国一の米の商い」と書かれてあるのは有名な話である。

上の写真2つとも、酒田市資料館にあるのだが、当時の酒田中心街の絵のメインストリートは、そのまま今の酒田市役所前に東西に走る道路である。

Photo現在の地図(上が北、左が西)で、酒田市役所、旧鐙屋、本間家旧本邸の並ぶ通りがそれにあたる。当時の本間家の場所がそのまま今の本間家旧本邸の場所のようである。「内川」と描かれているのが今の「新井田川」であり、その河口近くに(現在では最上川と合流していないが)当時の絵にはない山居倉庫が明治以降作られている。
毎年5月20日に行われる「酒田まつり」(旧山王祭)のパレードが、清水屋前と市役所駐車場から出てまずこの道を東へ進むのも、この歴史あるメインストリートあっての酒田だからであろう。

最上川に橋がなく、渡し船で渡るしかなかった時代(おそらく明治初期まで)は、「今さかた」(現在の中心部)と「向こうさかた」(最上川南岸の今の土門拳記念館や東北公益大学、飯盛山などの地域)を行き来することも容易ではなかったはず。日本海に注ぐ河口に近い川の流れは結構急で、上流で雨でも降れば増水して舟で渡るにも危険が伴ったはず。
最上川を境界に「羽前」「羽後」が別れていたのも頷ける。なので、現在は同じ酒田市であるものの、当時の最上川南側と北側では生活面でいろいろ違いがあったはず。

以前撮っていたこれらの写真をいつかブログに載せようと思ってしばらく時間が経ったのだが、とりあえず、奥州藤原氏の家来達と言われる三十六人衆が「向こうさかた」への落ち延びた話から「今さかた」の形成までを簡単にまとめることが出来てホッとしている。
庄内は、酒井家入部前の戦国時代には大宝寺氏、その後上杉氏(直江兼続が庄内を支配)、最上氏と大名が代わっており、その時代の話は割愛したが、とにかく現在の酒田市中心部は16世紀中頃から自治組織を形成した三十六人衆を中心に形作られ、街中の主な通りも当時とそれほど変わらずに残っていることを一度ブログに書いておきたかったのである。

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コメント

「少し」ではなく,十分長かったですが(^_^),昨年,酒田を訪れたとき学んだ内容が復習できました.「西の堺,東の酒田」の繁栄ぶりが偲ばれます.逆に,かつて繁栄した地方都市の衰退が近年著しいのが気になってしかたありません.新潟も例外ではありません.人口が80万人と多いので,まだ財政的な余裕があるだけで,本質的な問題はまったく同じです.

ひとつの原因は,江戸時代の地方分権から,明治時代にあらゆる分野のセンターを東京に一極集中させ,中央主権国家にしたこと.もうひとつは太平洋戦争後,戦後復興の名の下にさらにそれを強化してしまい,GDPの東京集中がさらに著しくなったこと.それによって,地方公共団体は交付金がないと維持できない「国依存体質」となってしまったことでしょうか.それはある意味で地方にとって楽だったので,すっかり地方は自立精神をなくしてしまったように見えます.国会もひどいですが,地方公共団体の議会はもっと形骸化しています.

最近,東京,神奈川,埼玉,千葉の人口を足してみたら,3500万人近くになりました.つまり日本人の4人に1人以上(28%)が東京周辺に住んでいることになります.4年以内にマグニチュード7クラスの地震が起こる確率が70%だそうですが,もし本当に起こったら,全分野の中心が機能しなくなり,かつ日本人の約3割が被災しますから,1000兆円近くの借金を抱える日本は破滅してしまうかもしれません.それにしては,政党も経済界も,のんびりしているように思えるのは,私だけでしょうか。

解決策ですが,時間がかかってもかまわないですが,「地方を自立させる」ことしかないと思っています.長くなりそうなので,これくらいで.

投稿: MrBach1954 | 2012.01.26 15:26

お久しぶりです。

彼の意識は戻り、話すこともできるように
なりました。

でも、彼はかなり落ち込んでいて
なかなかうまく関われない
今日この頃です。。。

そして、実はアタシも酒田出身なんです。
夏に帰ったのが最後ですが、、、

「小脳出血」で検索して
出会ったブログで地元の話題が
わんさかとは、
なんだか不思議な気分です。

投稿: 四つ葉のクローバー | 2012.01.28 20:52

MrBach1954さん、地方自治自立とともに、やはり中央に集中している機能を分散すべきでしょうね。三権分立と言ってますが、全部東京にあるんですから、東京が機能しなくなったらまずいですよね。仙台、新潟、名古屋など東京からそう離れていない、でも近くない大都市に機能を分散させ、経済にしても日銀は大阪に置くとか国を代表する機能を福岡、大阪、京都、札幌などにも置かないと、もし都心直下型地震が起きたら指揮を執る機能もなくなる可能性がありますよね。これも長くなりそうなのでこの辺で。

投稿: balaine | 2012.01.29 16:30

四つ葉のクローバーさん、彼の大脳機能、脳幹機能は保たれていたんですね。でも小脳機能、それに関連する機能が一部廃絶、または低下しているでしょうから出来ないことに対する苛立で怒りっぽくなったりうつ的になったりする危険性があります。周りの人の支えが必要ですから頑張ってくださいね。
酒田の方でしたか、、、ご自身もお大事に。

投稿: balaine | 2012.01.29 16:33

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