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2010.08.12

昭和60年8月12日、ほか

医学部を卒業して2年目。その時balaineは、山形県立中央病院脳神経外科と救命救急センターで働いていました。当時は「研修医制度」などなく、2年目のペイペイの医者ではあっても「県立病院側から依頼され大学医局の命令で派遣された」医師でした。
もちろん最初は、点滴や採血すら自信を持っては出来ない程度のものだったのですが、現在の研修医制度のような先輩医師が専属教育係になって「手取り足取り(?)」教えると言う制度ではなく、やってみせるから黙って見ていろ、人の技術を盗め、という感じの昔ながら「外科の徒弟制度」的な雰囲気でした。

それでも大学から派遣された若手医師なので、県立中央病院の脳外科の先輩医師には大事にしてもらい、「3回までは傍について教えるから4回目からは一人でやりなさい」と言われて、脳血管撮影や脳外科手術の全身麻酔に取り組みました。
当時の脳外科は大変忙しく、2年目のbalaineをいれて全部で6人の脳外科医がいましたが、救急患者が1日に何人も来て、毎日のように緊急手術をしていたので「全館当直」からは外されていました。その代わり、軽症でも脳の病気を疑ったり頭を打撲した患者が来れば、夜中の2時でも明け方でも容赦なく呼ばれていました。

当直でもないのに3日間家に帰れず病院内でずっと働き詰めのこともありました。上記の様な、一見乱暴な教育でしたが、負けず嫌いのbalaineとしてはいろんな教科書や文献にあたり、先輩医師の麻酔や血管撮影を真剣に見つめて覚え、麻酔科医の先輩医師に面倒を見てもらいながら、1ヶ月程でほとんどの脳外科の麻酔と血管撮影はbalaineが一人でやるようになっていました(もちろん陰で先輩脳外科医がフォローやバックアップをしてくださっていたことでしょうが)。

2年目の医師として暑い夏を過ごしていた昭和60年8月、その悲劇は起きました。


脳外科医の一日が終わるのは、早くて夜8時頃、おそければ22時、23時は当たり前の世界です。その日も夕飯もまだ取らずに働いてた夜、医局がざわついていました。
なんだろう、、、と思ったらJALの飛行機が消息を絶ったというニュースでした。病棟や救急外来などで仕事をして医局に戻ると、どこかに墜落したらしい、しかもジャンボ機だというニュースが耳に飛び込んできました。

子供の頃、親が白黒テレビで観ていた「夢で逢いましょう」に出ていた坂本九、通称「九ちゃん」。大ヒットした「上を向いて歩こう」は歌詞をみなくても歌える位聞いた覚えがあります。その坂本九氏が不幸にも巻き込まれ520名もの尊い命を奪った航空機事故、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故。

あれから25年目の今日を迎えた事になります。
悲劇に巻き込まれ命を落とされた御霊にはあらためて哀悼の意を表し同じ様な事故が繰り返されない事を祈ります。

8月12日を迎えると、この日航ジャンボ機墜落事故と甲子園で東海大山形が桑田、清原を擁するPL学園にラグビーの試合の様な点差で負けた、あの昭和60年の夏を思い出します。そして未熟ながら一日も早く一人前の医師になろうと一心不乱に働いていた若き日の自分と当時の病院の環境を思い出します。

2年目研修医扱いのbalaineは、時間外手当がなく、確か月給16万円くらいで毎日12時間以上、土日もなく、月に300時間以上働いていたと思います。これを時給にすると500〜600円になります。今ならコンビニのバイト君の時給並みです。
でも不満はなく、毎日新しい事を学び覚え自分に知識と実力が付き、新しい技術を体得する事に燃えていた頃でした。。。(遠い目、、、苦笑)

〜〜〜〜〜
さて、今年も拙クリニックは明日からお盆休みです。いつも言っている通り、私の両親は健在ですし、親類の墓は皆宮崎にあります。ワイフkanonの親類の墓が酒田にあるのでお墓参りくらいはするつもりですが、お盆らしい行事はありません。
スタッフのためにお盆休みをとるようなものです。

Photoそのスタッフからいただいたお野菜。昨日はさらに職員通用口の廊下にまるで「朝市」のように、野菜が並びました。
ご飯と納豆とビール以外は頂き物ばかりで出来た当家の夕餉です。アリガタイことです。

Photo_2いただいたお野菜が悪くならないうちに、いろんなお料理になります。夏の野菜のカレーです。
今日の昼は夏の野菜の横手風焼きそばでした。
毎日、夏野菜で栄養をいただいています。

0812さて、自宅外構工事は昨日で一旦部分的完成を見ました(まだ表札が付いていませんが)。鋳物で作った表札代わりの文字が門の上のレンガの上につく予定です。
門の左側に真新しいポスト、右側にセキュリティのインターホンシステム、アンティーク調のランプが付き、庭にもランプが付きました(夜の写真はあらためて)。

生け垣を撤去した後の垣根様に配した木材はブラジル産「アマゾンジャラ」と言われる木材です。硬質で耐久性に優れ虫害にも強いらしいです。
今日の雨(台風の影響は大した事なく、少し強い風を伴った雨が降った程度で、夕方の今は雨も上がり、風がいつもよりは強いくらいのものです)で赤褐色のジャラの木が濃い目に見えますが、経年変化で風合いが変わって来るのも楽しみです。

このジャラの木はわざわざ隙間を作っていて、9月に行う予定の植栽がこの隙間を少し埋める予定。さらにツタのような蔓のある植物も配して行こうかなと考えています。

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コメント

台風大したことなくてよかったですね。

駐車場がちょっと濡れているのでかえってつやがでている感じです。

波形にたてた背の高いウッドのフェンスが開放感と遮蔽をいい感じで演出していますね。

あとは右奥に見えるデッキ周辺の仕上げ待ちですね。

投稿: Teddy | 2010.08.13 12:39

Teddyさん、有り難うございます。
このウッドのフェンスは施工業者と何回か打ち合わせをして、それでも現場にはうまく伝わらず、最初は直線的な「山型」になってしまいそうだったので、工事を中止させました。
そして再度、自分のイメージを「サインカーブのような波型」と伝えて漸く出来ました。既製品ではないので結構手間もかかっていましたし(サインカーブ状になるように長さを微妙に切りそろえる)、それを固定して安定させるなど、あの暑い中を1週間以上かかりました。

あとは、植栽でうまく遮蔽性を増したいと思っています。デッキ周辺も、小物が必要ですし、あとは折りたたみ式の屋根を付けたいのですが、予算が。。。(苦笑)

そういえばクライスは今日から合宿ですね。。。

投稿: balaine | 2010.08.13 13:11

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受信: 2010.08.13 05:37

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