西郷吉之助どん
なぜ私のクリニックの診察室に、しかも患者さんの背中側、私からまっすぐ見える位置の壁に「敬天愛人」の額が掛けてあるかと言うと、、、
こちら→「南洲神社と人生の王道」や「篤姫と南洲翁」をご参照ください。
全国に4カ所ある南洲神社。
西郷隆盛公を祀るものですが、本家本元の鹿児島市と遠島されて居た沖の永良部島と現宮崎県(旧薩摩領)の都城の3カ所に存在するのは当然として、もう一つが山形県酒田市にあるのです。これにはいろいろな訳がありますが、庄内南洲会というものが関わっています。
西郷が薩摩軍とともに、現在の山形県の中でも米沢と庄内に進駐したのは1868年の8月と言われていますから、このような庄内平野の田んぼの中に浮かび上がる鳥海山を目にしたかもしれません。(写真は2007年7月に三川町で撮影)
昨日の放送で、龍馬がお龍の家族は「蛤御紋の変」で焼け出され住む家を失ったと西郷吉之助に訴えていました。その蛤御紋の変には、私の母方の祖先が宮崎の小藩の家老職として参戦しています。亡くなった伯父が歴史が好きで、母方の実家の安藤家の祖先のことを調べ上げていて、蛤御紋の変に参加した祖先様の写真も持っていたのを見せてもらった事があります。
京都から戻る途中広島で撮影されたとのことですから1864年という事になります。
真偽の程はわかりませんが、宮崎県内に現存する最も古い写真と伯父は言っておりました。その写真は真ん中に祖先様、後ろ脇に太刀持ちと小姓を従えた立派なものだったと記憶しております。薩摩軍と一緒に戦ったという縁で、西郷ドンには勝手に親近感を持っていたのですが、鶴岡の荘内神社の近くに大きな「敬天愛人」の石碑があり、酒田に南洲神社があり、酒田の鎮守である日枝神社の大鳥居にかかった額が西郷ドンの書であるという逸話を聞き、南洲翁のことを少しだけ学びました。
そして庄内南洲会で販売している「敬天愛人」の額を買い求め、四角い額は自宅玄関に、丸い額はクリニックの診察室に掛けている訳です。
今日も梅雨空ですが、写真は先週6/25、天気の良かった日の夕方、院長室から最大ズームで撮影した鳥海山頂上付近です。標高2236m、頂上は遊佐町にあります。
今年はついに鳥海山に登ってみようと考えています。。。
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