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2009.05.30

残念なこと

大学の同級生が亡くなりました。
AS君は、字は違うけれど私と同じファーストネームで、昭和53年の大学入学時からその優秀さは同級生の中でも群を抜き注目されるような人でした。当時は「教駒」と呼ばれた、現筑波大学教育学部附属高校の出身。東大などにたくさんの合格者を出す、超一流の進学校卒。

我々の学年は、共通一次(今のセンター試験の様なもの)の前の最後の世代で、山形大学医学部は当時「二期校」と呼ばれていました。彼は確か東大理3に残念ながら落ちて、いわゆる「都落ち」で山形に来たのです。我々の学年は、皆、どこかの「一期校」受験に失敗して山形大学医学部に「流れて来た」感じの人ばかりでした。
まだ教養部(当時は6年間の一貫教育ではなく、2年間は教養部、4年間は医学部とはっきり分かれていました)の1年の夏に、山形市の当時のあまりの田舎ぶりに愛想を尽かして、折角医学部に入ったのに辞めて行った同級生もいました。翌年、東京周辺の私立大学医学部に合格しそちらに移ってしまったようです。
私も仙台の予備校ではそれなりに優秀な成績で(高校時代はテニスと遊びばかりで勉強していなかったつけですが)、仙台の大学の医学部には当然合格すると周囲からは思われていたのですが、本番に弱いのか、実力がなかったのか、多分その両方でしょうが、浪人して必死に勉強したのに結局受験に「失敗」して、当時の気持ちとしては「仕方なく」山形大学医学部に入学しました。

当時の山形市は、笹谷トンネルもなく、もちろん山形自動車道もなく、仙台からは車では関山峠を超えて天童から入って来るしかなく、電車は仙山線でした。仙台ー山形市間は片道2時間以上かかったと思います。大学でもテニス部に入って、練習が終わって友達と山形市一の繁華街であるはずの七日街に繰り出すと、ほとんどの店がシャッターを下ろして閉まっていたのに愕然とした事を思い出します。
東京から「都落ち」して来た都会のお坊ちゃん達には、仙台から来た私よりも、更に強烈に「田舎」を感じた事でしょう。

しかし、逆に変な誘惑や危険な世界に近づく事もなく、当時、遊びと言えば、仲間の家に集まって麻雀をするか、ちょうど流行り始めた「インベーダーゲーム」などをしに「喫茶店」に行くくらいでした。
AS君は、私とは違う「軟式庭球部」でしたが、いつも隣りのコートで頑張って練習していました。
真面目な性格ながらひょうきんなところもあって、皆に愛され信頼されていました。
その優秀さと人柄から学年でもリーダー格の一人で、国家試験対策委員をやったり、勉強でもテニスでも同級生や後輩を引っ張って行く頑張り屋さんでした。

昭和59年に目出度く医学部を卒業し、国家試験に合格。
私は地元山形大学医学部の脳外科に入局しましたが、結構多くの同級生が自分の地元に戻りました。
我々、最後の「二期校」世代は山形県外出身者がほとんどで、鮮烈に覚えているのは教養部の何かの授業で先生が「この中で、関東出身の者、手を上げろ」と言ったら、同級生の8割が手を上げました。その先生は驚嘆したように「へぇ〜、それじゃあ、東京出身の者は?」と言ったら、6割が手を上げました。それくらい、当時の医学部は他県の出身者ばかりであり、高校別の入学者数で言えば、私の母校の仙台一高が6人と最も多く、その次が神奈川県の湘南高校の4人という具合で、山形県一の進学校である山形東高校からは現役〜浪人合わせて確か3人しか入っていませんでした。庄内地方の進学校である、酒田東高校や鶴岡南高校からは一人もいなかった状態でした。

そのように他県出身ばかりの医学部でしたが、5〜6割くらいが山形に残りました。
AS君は、より高い理想を追求すべく、慶応大学の内科の中で血液・感染症・リウマチ関係の研究室に入り、内科医として、そして研究者としての輝かしい道を歩き始めました。たしか、故夏目雅子さんの主治医グループの一人でもあったはずです。

慶応大学の内科医と山形大学の脳外科医ではそれほどの接点はなく、年賀状くらいが交流という状態になってはいましたが、今どこで何をしているかぐらいはお互いに知っている状態でした。
平成4年〜6年、私が米国ペンシルバニア州ピッツバーグ市のピッツバーグ大学に留学していた丁度同じ時期、彼はジョージア州オーガスタにある研究所に留学して頑張っていました。平成5年のマスターズの前に彼の所在を知った私は連絡を取り、マスターズの水曜日(練習日&パ−3コンテスト)に合わせて彼を尋ね、アパートに泊めてもらいました。彼は当時はまだ独身で、研究に燃えていました。久しぶりの再会を祝し、卒業以来のお互いの近況や積もる話をしました。

その後、帰国したAS君は慶応大学で更に内科医と膠原病関連の研究に邁進し着実に研究者としての階段を上って行きました。平成18年からは、同門の慶応大学出身者が教授を務める東海大学医学部の内科学血液・リウマチ学教室の准教授として活躍していました。

優秀で人柄も良く研究者として前途洋々、結婚が遅かったのでまだお子さんも小さいAS君。
残念無念だと思います。
私が管理運営している同級生のメーリングリストに昨日訃報が届き、何人もの同級生が弔意を表するメールを寄せています。その多くが、「彼みたいに優秀な人が倒れ自分はのうのうと生きている」、「研究に一生懸命打ち込んでいた彼が早死にして、ぼんやりぐうたらな自分が生きている」ことの無情さを憂い、彼の無念に想いを馳せています。

冷静に考えてみれば、自分も病死してもおかしくない年になっている訳です。彼の死はあまりにも早すぎ残念でなりませんが、これまでに多くの業績を残しご家族を愛して生きて来たAS君を大きく讃えたいと思います。残されたご家族の悲しみを思うと胸が詰まります。
ご冥福をお祈りしご家族の皆様に哀悼の意を表します。

AS君、残念だ!
いろいろとありがとう。。。



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