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2008.11.28

白石と奥羽越列藩同盟(長文)

Photo11/24(月・祝)、写真の様な朝の蔵王を臨みながら起床。
前日の飲み疲れ(JOFC)の何のその、朝からバイキング形式の朝食をしっかり食べて、10時前に白石に向けて出発。

山形自動車道から東北縦貫道に別れて白石インターで降り、国道4号を白石駅方面へ向かいます。山形からはちょうど1時間くらいで到着。最初の目的地は、「壽丸(すまる)屋敷」。
「白石まちづくり株式会社」のブログは「こちら」です。

Photo_2国道4号から白石駅方面に向かって、駅までもう少しという「中町」に第一の目的地「壽丸屋敷」はあります。以前は味噌や醤油を扱う大店だったらしい。古い住所表示や昭和な感じの看板に蔵が昔を少しだけ物語っているようです。

Photo_311/23にホワイトキューブで開催された『戊辰の役と奥羽越列藩同盟の歴史的意義のシンポジウム』に合わせて、「〜奥羽越列藩同盟〜戊辰の役パネル展」が開催されていました。写真は、ちょうど幕末から大政奉還、そして戊辰戦争の際の東北雄藩の藩主の写真と当時の東北諸藩の地図です。
 我が庄内藩は酒井忠篤(ただずみ)公。7名の藩主の中では一番ハンサムかも(すでにザンギリ頭なので、戊辰戦争より後の写真でしょう)。考えてみれば、農作物を育てる(当時は自給自足が当然な訳で、農業こそが全ての営みの中心だった)天候としては蝦夷地を除けばもっとも過酷な条件にある東北は、明治維新と言う名の革命(人によってはこれを「テロ」とも呼びます)を中心になって興した西国諸公(薩長土肥)と違って、その領土が比較的江戸に近く、徳川家に忠誠を誓う家が多かった訳です。
 会津藩松平家は徳川秀忠の子供の直系ですし、庄内藩酒井家は徳川四天王の一人酒井忠次の末裔です。そういうこともあって、徳川幕府から京都の朝廷警備を命ぜられた会津藩主松平容保は、皆の反対を押し切って会津松平家草創以来の「徳川家のために身を惜しまず働く」という教えを守り「京都守護職」に着きます。新撰組を統括し、京都市中で攘夷派として活動した不穏分子を厳しく取り締まります。その結果、後に薩摩と仲直りして手を組んで倒幕の主勢力になった、蛤御紋の変や第1次長州征伐前後の「朝敵」長州藩からは激しい憎悪と怨念の恨みを買います。
 一方、庄内藩は同じ様に「江戸市中見回り組」という仕事を命じられます。倒幕を目指していた薩摩藩は、江戸市内で狼藉を働く不穏分子を庇ったり支援すらしていました。江戸幕府に対する薩摩のゆさぶりに堪り兼ねて、幕閣の命令で江戸市中見回り組は薩摩藩邸を焼き討ちします。結果、庄内藩は薩摩藩から大きな恨みを買うことになるのです。

 「戊辰の役」は、本来、長州藩と薩摩藩による会津と庄内に対する私怨のようなものが火種だったと思います。東北の他の雄藩である仙台藩などは「会津を征伐せよ」「庄内を攻めよ」と新政府軍から命じられたため、嫌々ながらも「錦の御旗」を盾に迫る薩長の命令に反する訳にも行かず、形だけの出兵をしたと言われています。つまり攻める気も征伐する気もないけれど国境近くまで兵を進めたという事です。そして、ついに白石が歴史の表舞台に躍り出ます(NHKの『その時、歴史は動いた!』観たいですね、笑)。
 徳川幕府のために粉骨砕身働いた歴史と伝統のある会津家、そして言いがかりをつけられた酒井家を見殺しにするわけにはいかない、皆で結束して横暴な新政府軍と戦おうというのが「奥羽14藩の重臣による会議同盟」そこに越後長岡藩が加わり、「奥羽越列藩同盟」が白石城の列公会議で決まりました。
 しかし、秋田の佐竹家などすぐに弱腰になって脱退する藩が現れます。もともと天皇に逆らう気など毛頭なく、徳川幕府体制が終わったとしても新しい日本の政府を作りこれまで通りの領主として生きて行きたいという気持ちであった訳です。徳川家を守りながら天皇陛下の元に集まり新しい体制の日本を作りたいという保守的な考えの東北諸藩に対して、革命テロ軍団とすら言える西国集団の革新的な考えが衝突し、「錦の御旗」を手にしていた者が勝ったというだけのことだったのです。
 結局、薩長軍を中心とする新政府軍は東北、越後に攻め入り、軍門に下った仙台藩などは今度は「昨日の友は今日の敵」とばかりに庄内藩攻めに転じる訳です。

 ところが、先日も書いた様に奥羽越列藩の中で最新最強の軍備を誇った庄内藩は非常に強く、清川口での初戦こそ「引き分け」だったようですが、その後は新庄藩や秋田藩領まで逆に攻め入って、連戦連勝、無敗を誇ったのです。そのまま戦い続ければ最終的には負けたのかもしれませんが、酒田の本間家を始めとする豪商達の資金援助を得て戦に於いては優勢を誇っていました。
 結局、仙台藩などの降伏の勧告に応じて鶴が岡城の無血開城となり、西郷隆盛の指揮下に後に総理大臣にまでなった黒田清隆率いる薩摩軍が鶴岡の街に入って来ました。西郷さんの指導がしっかりしていたのか、薩摩軍は統制が取れ市中で盗みなど狼藉を働く者もなかったそうです。庄内藩は感激し、殿様さえ助けてもらえれば老中以下皆腹を切って果てるとの覚悟を示したところ、「全員許す」との非常に寛大な処置となりました。負けた者は城を明け渡し先祖伝来の土地を離れるのが普通です。
 長州に酷い恨みを買った会津は「白虎隊」で有名な戦いの末、敗れて厳しい処置を受けました。会津藩主容保は鳥取藩預かりとなり嫡男は何とか家名存続を許されて現在の青森のむつ市に斗南藩を作りましたが、多くの藩中心関係者は斬首となったり一族郎党は蝦夷地に追いやられました。そして、新政府の意地悪な考えで、庄内藩は盟友であった会津に転地との命令がくだされました。
 なんとか酒井家を庄内に残してほしいとの嘆願の末、一度、長岡へ転地に変更になった後、「戦争賠償金70万両」を納めれば庄内に残っても良いということになりました。ここでまた酒田三十六人衆を中心とする豪商達が活躍します。領民も金を出し合い、何とか30万両を集め新政府に納めます。「残りは分割で、、、」とお願いしたところ、「もう、これでよか!」と西郷ドンが言ったとか伝わっています。
 こういう事の積み重ねで、庄内藩の西郷南洲翁と薩摩に対する敬愛の念は非常に強いものがある訳です。ちなみに、この時に庄内藩の家老職にあった管実秀(すげ さねひで)は西郷さんから多くを学び親交を深めます。この菅の指示によって、鶴岡の松ヶ丘開墾が整備され(ここは、今は映画のロケ地などになっています)、酒田の山居倉庫が作られ(ドラマ『おしん』で有名になり、今でも酒田一の観光スポットです)ました。

 この白石で会議が行われ結成された「奥羽越列藩同盟」が、その後新政府軍に楯突いたものとして、(要するに2つの革命派閥の一方が負けたというだけの事なのですが)「白河以北一山百文」という差別的な政治経済的処遇を甘んじなければならなくなった一因といえるでしょう。後に東北出身の初めての総理大臣になった原敬をして「戊辰戦争は即ち政見の異同のみ。当時は勝てば官軍、負くれば賊軍との俗論あり」と言わしめたのも白石で結成された「奥羽越列藩同盟」がその発端であろう。
 その後、長い間、東北の地、東北人は薩長土肥を中心とする西国革命テロ集団のクーデター的国家体制転覆の犠牲となり、蔑まれ虐げられ我慢を余儀なくされて来たとすら言えると思います。

 誤解しないで頂きたいのですが、私の両親は宮崎出身で、母の家系は薩摩藩とともに蛤御紋の変に出陣した日向秋月家の関係者であり、私自身も九州は福岡の生まれです。九州生まれである事に誇りを持っています。そして、中学生の時に高松から仙台に転校して以来、すでに35年を越える東北人としての生活を送っている者です。要するに、その時の歴史の流れでいろいろあったけれど、日本に生まれ日本で育った日本人である事、これを今回の白石訪問で深く認識させられました。そして、公に恥ずかしくない大義名分をもって事を成す上で何らかの犠牲を払う事は仕方のないこととしても、私怨、私憤を晴らすために公的な行動をしてはならないということを、今回の歴史探訪で再度学びました。
Photo_4壽丸屋敷の「パネル展」では20年程前に河北新報に連載された、「戊辰の役」に関係する特集記事も展示されていて、いろいろな立場でのいろいろな考えがあり、東北人には東北人の、仙台藩には仙台藩の言い分や言い訳があったのだな〜と改めて感じました。写真は、パネルと共に展示されていた白石城関係の鎧兜(張りボテ)です。

Photo_11Photo_13その後は、まず腹ごしらえ、と最近JR東日本のCFで吉永小百合さんが出演されている白石うーめんのお店へ。「うーめん番所」というそのお店、TVCFの効果でしょう、団体客を始め多くの観光客が押し掛けて並んでいます。中には「新幹線の時間に間に合わないな、仕方ない、行こう!」と言って残念そうに帰って行かれるお客さんもいました。
左の写真の店の正面。右の写真は、そのお店の裏手にある民家のような離れの座敷。ここが吉永さんが座ってうーめんを召し上がった部屋のなのでした。
Photo_12私は、うーめんを食べたのは久しぶり。白石で食べたのはおそらく初めて。麺が短い稲庭うどんみたいなものかな〜と思っていたら、「白石うーめんが伝わって稲庭うどんになったんですよ」と説明する方がいました(真偽の程は?)。

Photo_5Photo_6続いて、白石市内にある「人形の蔵」へ。
いわゆる「昭和」な展示品の美術博物館的なものですが、酒田のあいおい美術館の雑貨駄菓子屋版とでも言えばいいのでしょうか。
私の伯母が昔延岡で駄菓子屋をしていて、里帰りすると私はその駄菓子屋いろんなもらったり、遊んだりしていた事を思い出します。
Photo_7Photo_8この「人形の蔵」には別棟があり、そこは市松人形がたくさんあって少々不気味でした。左はその2階に上がる壁に貼ってある昔のポスター。ちょっと誰かさんに似ています。
右は、「人形の蔵」の2階、太平洋戦争時代の物を集めた展示品の真ん中で当時の書き物を読んでいるところです。

Photo_9その後、初めて白石城を見学。
「賊軍方」であった仙台藩の枝城が残っている訳はなく、現在の物は平成7年に復元建造されたのだそうです。急な石階段を上って入り口で入場料を払い、3階まで上って行くと天守閣です。
写真は天守閣から西北西の蔵王を眺めたところ。考えてみれば、この日の朝、反対側の山形市から東南東の蔵王を眺めたのでした。

Photo_10最後に寄ったのは、壽丸屋敷の隣にある「イル・パッソ」というイタリアンな蔵の喫茶レストラン。
ブログなどにも登場する有名な「小十郎パフェ」に二人で挑戦しました。その由来はよくわかりませんが、家臣団の大きかった伊達家においても、数々の功績から第1の家臣とも謳われ、徳川幕府も認めた仙台城以外の仙台藩領内の第2の城の当主であった片倉小十郎にちなんでいるのだそうです。

 遠く白石まで出かけて、庄内藩、酒田などの事を再度学ぶとは思ってもおらず、はからずもNHK大河ドラマ『篤姫』でちょうど徳川幕府の終焉、大政奉還、戊辰戦争の頃をやっていることもあり、没頭してパネルを読んで満足して帰ってきました。

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