日本の医療の安全について少し考えてみました
このブログを長続きさせるためにも避けようと思っている「医学ネタ」です。
自分自身が医師なので、下手な事を書くと墓穴を掘ることになりかねませんし、同業者や仲間を批判するような事は仁義にもとりますし、患者さんや一般の方の考えを否定するような事でも書けば大きな問題になりかねません。これまでにも、医師が患者の批判記事を書いて病院を辞めさせられたとか、問題発言をしてブログが「炎上」したとか、他山の石とすべき事例があります。
医療の安全性とはなんでしょうか?
安全な医療とはなんでしょうか?
正確な診断と確実な治療法、これさえあれば「安全」でしょうか?
医療は常に変化し進歩しています。研究し追求し科学して進化しています。「自然科学」の事であり、生物の一種である「ヒト」という動物が対象ですから、「個体差」があり「不確実性」が存在するのは当然の事です。工場で生産される自動車にだって出来不出来があるのですから、一人一人が個である人間にいろいろな「不確実性」が存在するのは小学生でも分かる話だと思います。しかし、現在の日本では医療は安全なのが当たり前で不確実なんておかしい、という論調で統一されかかっています。しかも、世界でも類を見ない程「安い」金額で受けられる医療行為が、世界的に高いレベルにあるにも関わらず、いやだからこそ、何かが起こると「おかしい、変だ、ミスだ」と叩きにかかる傾向にあります。
どこぞのどなたかが書かれていましたが、日本人は医療を安く済むものと信じ込んでしまっています。病気の治療、命のやりとりに多額のお金がかかるのは医療が進歩すればする程、当然の事であるのに、大戦後に出来た保険制度と診療報酬制度のまま、「医療は安価でなければいけない」そして「安全であるのが当たり前だ」という、通常の市場経済や自由経済の世界であるならば相反する考え(いい素材を使ってテーラーメイドで作るものをより安く販売する)の元に多くの議論が行われている様にすら見えます。
私が今日書こうと思っているのは、医療の安全性に関わるたくさんの課題の中から、特に「医師不足」と「診療行為に関連した死亡に関わる死因究明等のあり方に関する第二次試案」についてです。
新聞やテレビなど多くのマスコミで「医師不足」「医師偏在」「病院の診療科閉鎖」「救急患者のたらい回し」などを報道します。中にはかなり核心を突く報道もありますが、問題が奥の深いものだけに単発短時間ではカバーし切れていない、場合によっては偏った、または大事な点の欠落した報道としか言いようがないものもあるようです。
日本の医師「数」が不足している事は今に始まった事ではありません。
特に、一県一医大構想の前は、田舎、僻地、離島には医師がいないのが当たり前、いても「何でも屋」を要求される代わりに、設備的にも高度な事は出来ない、それは勤務する医師も医療行為を受ける住民も暗黙の了解の上での診療体制でした。
昭和54年、「新設医大」の卒業生が出始めてから医師の数は増えてきました。しかし、それでもGDP世界第2位の国としては非常に少ない数の医師によって国民の保健医療を供給しています。よく用いられるOECDのデータで、「人口1000人あたりの医師数」は2004年のデータで「2.0人」であり、OECD加盟30カ国中22位です。
フランス、ドイツなどでは人口1000人あたり3.4人の医師がいますが、日本ではこれが2.0人しかいません。フランス、ドイツの6割の医師数で国民の医療を支えている訳です。
ところがWHOによるといろいろな意味で日本の医療は「世界一」とされています。それは国民皆加入の健康保険制度と保険診療点数制度によって、国の隅々どこでも同じ病名、同じ検査名、同じ手術名であれば「同じ料金」という非常に公平でオープンなシステムをとっていることも評価されていますが、医師、医療のレベルが国際水準に照らし合わせて全体に高いということを示しています。
医師の技量や経験を点数化、数値化することは容易ではありませんから科学的な検証は困難ですが、日本の医師は「平均点」として優秀だという事は言えると思います。もの凄く素晴らしい技術を持った国際的な医師もいますが、アメリカの医療制度のような「優秀な医師は高額な収入を得うる」という制度と違って、「腕」の善し悪しに関わらず「診療報酬」は一緒という社会主義的制度の中で仕事をしていることを考えれば、「これは酷い!」という医師が少ない(いないとは言いません)のだと思います。
頑張っても頑張らなくても、手を抜いても抜かなくても、報酬が同じであるならば、通常の「労働者」であれば「頑張らずに手を抜く」方向に流れてしまうのが人間の性だと思いますが、そういう人が少ないというのが「日本人の医師」の特徴であると私は思っています。なぜ、「流されない」または「流される人が少ない」のかというと、それは医師である誇りと病者を救いたいという博愛の心に支えられているからだと思います。
ドイツ、フランスの6割の人数で(平均値として)同等かそれ以上のレベルの医療を提供しているという事は、ナースや技師の働きを同等と見なした場合(これも日本の方が優秀な率が高いと思います)、日本人の医師はドイツ、フランスの医師の「1.7倍」の努力、働きをしていると言い換える事が出来ます。
医師の頭数をOECD平均並みにするには「12万人」の医師が不足していると言われています。現有の医師が不足する12万人分の働きをしているから、WHOの評価で「世界一の医療」を保っているという風に言い換える事ができるのではないでしょうか。だから、特に救急医療を支えるような地域の中核病院では、産科、小児科、麻酔科、脳外科といった救急の現場に借り出されたり、命のやり取りに関わる局面の多い診療科の医師に負担が多くなり、「誇り」や「博愛の心」だけでは支えきれなくなって、辞める、移る、閉鎖するという「負の方向」へ進んでしまっているのだと思います。
それなのに、医師側にも問題がある事を否定はしませんが、医療過誤や医療事故が起こるとマスコミは医師や病院を叩く傾向にあります。官憲も善良(であるべき)な医師を「刑事事件」の対象にしようと動く傾向にあります。
それに加えて、現在大きな問題が生じつつあります。
『診療行為に関連した死亡に関わる死因究明等の在り方に関する第二次試案』を厚生労働省が法案化しようとしているのです。理念は正しい、美しいと思われる内容なのですが、そのやり方、特に「医療事故調査委員会」の構成や運用に大きな問題があるのです。問題が複雑なので、誤解を生むといけませんが、簡単に言うと、何か医療事故を考えさせるような「診療関連死」があった場合、その臨床経過の評価や分析を担当するために設置する組織として「中立」「公正」であるべきこの「委員会」に「遺族の立場を代表する者」が入ることになっています。当事者であるかもしれない治療を担当した医師や病院は入らないのですが、患者遺族側が組織に入る事が中立、公正ということになるのかよく理解できません。そして、最大の問題点は「必要な場合には警察に通報する」と試案には書かれている事です。「診療関連死の中にも刑事責任を追求すべき事例もあり得る事から、警察に対して速やかに連絡される仕組みとする。」と明記されています。また「刑事手続」についても、「事例によっては、委員会の調査報告書は、刑事手続で使用される事もあり得る」と明記されています。調査報告書があれば警察が医師を捕まえるよ、という事です。
これをもうちょっと平易に解説するとこういうことになります。
善意と博愛の精神で患者さんの治療に当たっていた医師が、何らかの理由でその患者さんが死亡した場合、もし「不審の原因」が疑われて何らかの落ち度が医師にありそうであると思われた場合(実際はそうではなくても、誰か、患者やその家族などがそう「思った」場合)、その医師は警察に逮捕されてしまうという可能性があることになるのです。
もちろん、診療行為に意図的なミスや悪意がある場合は言語道断、いうまでもなくそう言う事をする医師や医療側が悪いと言うのはいいのですが、「そういう意図がなく」「なんとかしてあげよう」という善意の心で診療に当たっていたら運悪く患者さんが具合悪くなり死亡したりして、家族が「おかしい!医者がミスしたんじゃないか?!」と考え、「委員会」の通達で警察が動く、と言う事を意味します。
病院の救急外来には予約ではない、想定していない患者が飛び込んできます。もともと疾病を抱えていて急に具合が悪くなったり、転落や交通事故で重症を負って運び込まれてきます。その治療に当たっていたら患者さんが亡くなってしまった。家族が騒ぎ出す。委員会が結成され警察に通報される。何も落ち度がないと思っている医師が逮捕されて拘留される。こうなってしまう危険性を孕んでいます。
すると、「救急外来」では飛び込みの患者は診たくない、重症の患者は診たくない、知らない患者は診たくないという反応が起こるのではないでしょうか。
手術をする外科医は、危険性の高い疾患には手を出さない、重症の患者は自分の所では診たくない、手術はしたくない、こういう反応が起こるのではないでしょうか。
これを「医療の後退」と言うのだと思います。蛮勇で知識も経験もないのに難手術に取りかかったり、緊急患者の診療に当たるような愚かな医師は問題外ですが、通常の努力によって知識、技術を身につけた有能な医師が「なるべくなら関わりたくない」「なるべくなら触りたくない」という気持ちになる事を心配するものです。
すると、日本の医療はどうなるのでしょう。
難しい病気、治療、手術に挑戦しようとかより高度な医療を展開しようという医師や組織は非常に少なくなり、国全体の医療レベルが下がり、緊急患者はたらい回しばかりになってしまう恐れがあります。WHOが世界一のレベルと評した医療は容易に低落して行きます。
結果、迷惑を被るのは国民です。
世界一のレベルを誇っていた医療を、医師が放棄し始め、高い金でももらわなきゃやってられない(米国式)とか、救急患者なんか診てられない(英国式)になってしまうと、金と権力を持つ特権階級だけが高度な医療を独り占めして、一般大衆はやる気のない、レベルの下がった医療を甘んじて受けざるを得ないという事態に陥る可能性があるのです。こうして、高度な医療が比較的公平に受けられる稀な国であった日本の医療の「安全性」も低下していくのです。
私が、大学病院を、准教授職を辞したのは、個人的な問題が大きな要因を占めています。特に、音楽活動ということです。しかし、これにしたって、大学病院や地域の中核病院の勤務医師が、24時間体制で働き、連続36時間勤務したり、風呂に入っている最中も心が休まる余裕のないような現状のシステムが改善され、勤務医師にも「人並みの」精神的、肉体的余裕が生まれる余地があれば、辞めなかったかも、しれません。。。わかりません。。。
今の私に出来る事は、個人医院を開設する一医師として地域住民の健康問題と不安を解消しお助けする仕事を通して世の中に貢献するよう努力を続ける事です。そして、『診療行為に関連した死亡に関わる死因究明等の在り方に関する第二次試案』の法案成立を阻止する様に仲間や国会議員や厚労省に訴えかけることでしょうか。
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コメント
>『診療行為に関連した死亡に関わる
>死因究明等の在り方に関する第二次試案
>を厚生労働省が法案化しようとしているの
>です
(略)
>「医療事故調査委員会」の構成や運用に
>大きな問題があるのです。
balaineさま
おっしゃること、とても同感できます。
日本人はどうも原理原則を確立しないまま、
プロセスの不明確な「合意の形成」をしてしまう悪い(政治)文化があるような気がしてなりません。
このブログに 政治関係やイデオロギー
書き込むのは適当か否か躊躇いますが、
このところ各所で議論の出ている、
「裁判員制度」、「人権擁護法案」、「外国人
参政権」 も 管理主体の構成や
制度の運用によって、かなり悪法(悪制度)
になりそうな方向にいきつつあります。
面倒な議論は後回し、臭いものにはフタ、
耳障りの良い言葉だけ先行させ、
問題があれば運用開始後、修正では遅すぎる
気がします。
結局
>迷惑を被るのは国民です。
ね。
投稿: 潤 | 2008.01.26 14:12
潤さん、ありがとうございます。
総論としては、日本人の「政治(まつりごと)」は古来「祀り」または「祭り」事なのでしょう。「議論」とか「論理的、合理的合意」などはなく、「なんとなく」「雰囲気」で「神様の思し召し」のように行われて来たのではないでしょうか。
失敗したらすぐ反省してやり直せばいいのですが、「法」というものは「年金法」を見ても一度出来たらなかなか直せません。「患者さんが亡くなってその死因に不審な点があると患者の家族が考えたら、それだけで警察が医師を逮捕できる」という法律ができてしまったら、医師は積極的な医療を放棄してしまうことでしょう。日本全国の医者が、たとえば2週間くらいストライキでもしないと国も国民もわからないのかも知れませんが、日本の医者は患者を救う事を放棄してストライキをやるような冷酷さを持ち合わせていないようです。もう何十年とストなどやっていませんからね。
投稿: balaine | 2008.01.27 00:36
加古川心筋梗塞事件や奈良心タンポナーデ事件でのトンデモ判決、福島の産科医の逮捕が起こった時点で、もう、日本の医療は「Point Of No Return」を越えてしまいました。
いくら「仁術」や「モラル」や「使命感」や「人を救いたい気持ち」があっても、「マンパワー」「キャパシティ」「リソース」が無ければ、どうする事も出来ない。
いくら「命は大切だ」「命を大切に」と叫ぼうが、全ての人命を助けることは出来ないし、死んだ人を生き返らせることは出来ない。
こんな当たり前の事も理解しようとせず、「命は大切だ」「命を大切に」という「命は地球より重いんだ」論を振りかざして、医療従事者の限界や、医療そのものの限界を無視した要求を続ける人間がワンサカいる現状では、どうあがいても医療の完全崩壊は免れないでしょう。
投稿: 都筑てんが | 2009.07.22 06:38
最善を尽くしても命が救えないという「医療の限界」を無視して「ミスでないなら、なぜ亡くなるんだ」と医師を訴えたり、いちかばちかに賭ける以外に命を救えない人間が現実にいるのに「いちかばちかでやってもらっては困る」と医師を断罪して、命を救うためのハードルを高くしておいて、医療従事者がそのハードルの高さによって患者を受け入れられないと
「それでも医者か!」
「『医は仁術』は死語になったのか」
「命より金儲けのほうが大事なのか」
「患者を受け入れられない病院は看板を返上しろ」
などと医療従事者をボロクソに叩きまくる、インパール作戦の牟田口司令官みたいな人間がワンサカいる日本ですもの、医療が崩壊しないほうが不思議というものです。
投稿: 都筑てんが | 2009.07.22 06:38
都筑てんがさん、1年半も前の記事にコメントありがとうございます。
状況は1年半前と変わりないどころか、さらに深刻ですね。政権担当与党を変えた方がいいのか、そんなものでは解決しないのでしょうか。
厚生労働省、財務省、文科省などの官僚、その関連機関も問題です。特に最近では「財政制度等審議会」の建議、それに迎合するような無知なマスコミ(産經新聞など)も、その不勉強さ、事実調査不足、認識違いを露呈していますが、そういう人たちに医療の方向性の舵取りをされてはたまったものではありません。
すぐに被害を受けるのは医師や医療機関ですが、最終的に迷惑を被るのは「国民」だということを国民が理解していない点も忸怩たる思いです。
まとめると、
・「高度な医療を公平に」という理想を求めるならば、現代の医療(高額機器、高額薬剤、高額検査が必要)に「お金」がかかるのは当然。抑制するなら、医療機器製造販売会社、医薬品製造販売会社、医療検査関連会社などの収益を抑制する方向を目指すべきである。
・「お金」のかかる医療を抑制し、保険診療制度を堅持しながら診療報酬だけ下げて行くのなら、医療は萎縮し後退する(それでも国民総医療費は減少しない、医療はどんどん進歩しているから)
・国民の税金を国民の幸せのために使うのは当然なのだから、もっと医療福祉分野に税金を投入すべき(決して削るべきではない)
・公務員の数と給与、天下り官僚と法外な退職金、その他にも目に余る数多の無駄をこそ先に削ることで、医療福祉分野に回せる財源は生まれ、「医療費抑制」を目的にする必要はなくなる。
まだまだありますが、この辺で。
投稿: balaine | 2009.07.23 15:14