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2008年1月

2008.01.31

「さよならコンサート」

ご存知の方も多いと思いますが、私の個人医院の建物はもうすぐ完成します。そこで本格的に開業の準備(直前の準備、用意など)をするため、現職はすべて辞する事にしています。Uクリニックの方が昨日で、M病院の方は来週の月曜2/4で辞職します。
そこで本日お昼休みにM病院の病棟(精神科病棟)食堂でフルートの演奏を行いました。

H17年にN病院を離れる時にも、病院の食堂で1回、「ル・ポットフー」での送別会で1回、演奏しました。20分程度と考えていたので、カラオケCD伴奏のある小品ばかりやりました。
Photo1曲目は、ビゼー作曲『アルルの女』から「メヌエット」。フルート吹きでなくともみんなが知っている有名な曲です。病棟にあるCDラジカセが最大ボリュームでもあまり大きな音が出ないので苦労しましたが、師長さんや看護師さん達が臨時のコンサート会場の様にイスを並べて下さって、認知症病棟からも来れる人は連れて来て下さったのでけっこう大勢の方に聴いて頂きました。
2曲目は、映画『ティファニーで朝食を』でも歌われた「ムーンリバー」。
3曲目は、宮崎アニメの中から『ハウルの動く城』のテーマ「世界の約束」。
4曲目は、英国の民謡(?)「グリーンスリーブス」。
そして5曲目は、ジャズ風にアレンジされた伴奏CDの「Over The Rainbow」(映画「オズの魔法使い」から)でした。皆さん、熱心に聴いてくださいましたし、精神病棟の患者さんの中には涙を浮かべて聴いて下さった方もいらっしゃいました。
Photo_2「もうちょっと普通のクラシックが良かった」と言って下さった方もいたので、アンコールに「G線上のアリア」を演奏しました。みんなが聴きやすい曲、初見でも(またはあまり練習していなくても)吹きやすい曲、あまり長くない曲、ということで上記のような選曲になってしまいました。

131a131b(本日は、また荒れ模様の天気。M病院の外はこんな感じでした。)
私の開院するクリニックでは、少なくとも月に1度程度は無料のサロンコンサートをやりたいと考えています。音楽には人の心を動かしたり癒したりする力があります。

「MVSICA LETITAE COMES MEDICINA DOLORVM」(ラテン語の場合、Vは英語のUと同じ)
これは、家内のチェンバロにも書いてある有名な言葉です。
『音楽は 喜びの友 悲しみの薬』(または 苦しみの薬 とも訳す場合あり)

私は、医師としても、アマチュア音楽家としても、こういうものになりたい。

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2008.01.30

カウンターの情報

このブログを始めて3年とちょっと。Cocologにカウンター機能が付いてアクセス解析が出来る様になったのはブログ開設の5ヶ月後なので、現在表示されているアクセス総数も本当は正確な数ではありません(これより多い事は間違いない)。まあ、アクセス解析が始まってからのアクセス数と言うことになります。
元々、独り言とか愚痴のようなものも含まれており、必ずしも毎日記事をエントリーして来ませんでした。今現在で、ブログを始めてから1118日の間に596個の記事を載せています。2日に1つ以上は書いて来た計算になります。

130今年に入ってから、くだらない事でもいいから「一日一ブログ」と思って毎日書いてみました。すると常連の方以外にも「毎日記事が更新されているから覗いてみようかな?」と思われるのか、アクセス数が増えて来ています。解析が始まった平成17年6月からの一日平均アクセス数は297とおよそ毎日300平均のアクセスを頂いて来ました。最近の1週間は合計3000を越えていて、一日平均で432アクセスとなっています。
この数の中には、自分自身が開いてみたものもカウントされるのですが、まあ自分一人で100も200もアクセスしない訳で、400以上はこんなブログでも見てみようかという奇特な方々によるものです。m(_)m

という訳で、開設以来の正確なアクセス総数ではありませんが、カウンターの数が20万になるまで、あと16400と少しです。現在の一日あたりのアクセス数で計算すると、16400/432=37.9となります。
およそ、あと38日で20万アクセスとなる訳です。予想される20万のヒットは、このペースのままなら3月8日です。コメントを下さった「けんちゃん」さんの言われる「開院日に20万ヒット」というのもあながち夢ではなくなって来ました。v(^^
3月3日に20万ヒットをするためには、一日平均497アクセスあれば行けるようです。現在のペースよりも一日あたり60件程アクセスが増えれば可能な数です。でも、まあ、成り行きに任せます。予定通り行けば、本日1/30に建築確認と消防署の立入検査、2/8には引き渡しで保健所への申請となります。すぐ新規採用のスタッフのオリエンテーション、電子カルテの勉強会、接遇マナーの勉強会、PACSの設置調整、外来運営シミュレーションなどなどが始まります。毎日ブログを書くことは出来なくなる恐れもあります。

どうなるでしょうね〜。

今日のおまけ。
Photo先日、ランチを食べたレストラン「欅」のハンバーグ。本当はお魚のランチが食べたかったのですが、売り切れだったためハンバーグにしました。ランチはこれにライスかパンがつき、小さなサラダとスープに食後の珈琲か紅茶、小さなシャーベットがついて、1050円です。
昨日の記事に書いた佐藤久一さんが始めた頃の「欅」は、彼の意図とは別に本格的フランス料理のちょっと格式の高いお店になってしまいました。だから「フランス家庭料理」の雰囲気が味わえるような「ル・ポットフー」(家庭的な肉と野菜の煮込みの事)を開いたのだと思います。時は流れ、「欅」もこのランチメニューのように、シンプルでお手頃価格のお料理が頂けるお店になりました。しかし、決してファミレスになった訳ではなく、給仕の人やわざと見える様に作ってある厨房で働くシェフ達の立ち居振る舞いはとても洗練されていて感じの良いお店です。余程の事がない限り、1、2名ならば予約なしでぶらっと入れるようなフランス料理のお店ですね。

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2008.01.29

『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』を読む

1997年1月23日、今から11年と6日前、その人は市立酒田病院で亡くなりました。
その人の名前は佐藤久一といいます。
生前、私は、おそらく、一度は直接話をした、というか、正確には料理について説明を受けたと思います。酒田駅前の東急インにあるレストラン『ル・ポットフー』にはこれまで何回か行きました。上の階の宴会部門では、酒フィルの演奏会の打ち上げパーティや病院勤務時代の新年会とか送別会でも使いました。H17年9月に私がN病院を去る時は、病棟の看護師さん主催で送別会をやって頂き、お礼にCDのピアノ伴奏でフルートを2、3曲吹いたりしました。
はじめて3階のレストランを訪れたのはある方からの招待で、鶴岡の市立荘内病院に勤務していた昭和61年の事だったと思います。1986年です。この本によれば佐藤久一さんが清水屋から東急インに『ル・ポットフー』を移して活躍されたのが、1984~1993年と書いてありますので、おそらくお会いしているでしょう。個室で4名程で食事をした様に記憶していますが、その時、給仕をしたり料理の説明をして下さったのが、佐藤久一さんだったかどうかの記憶は曖昧です。ただ、コースの中の一品に対して「これはカスベのポシェ 焦がしバターかけです。カスベとは庄内浜で獲れる「エイ」の一種です。」というような説明を受けた記憶があります。「つまりエイのムニエルだよな?」と思いながら食べた記憶があります。
1986年に、個室で夜のコース料理を食べて、料理について一品一品説明を受けたとすれば、やはりあれが佐藤久一さんだったのでしょう。料理ばかり見ていて、お顔はほとんど見なかったのでよく覚えていません。

この本の内容については、興味のある方は是非買って読んで頂きたいと思います。
映画評論家の淀川長治や荻昌弘をして「世界一の映画館」と言わしめた、『グリーンハウス』を弱冠20才で作り、開高健や山口瞳、丸谷才一他、食通の文人達を唸らせて「日本一のフランス料理店」と評された『ル・ポットフー』を43才で(その前のレストラン「欅」は37才で)作ったという、いわば余人の真似する事のできない一種の天才だったのです。しかも、人口10万人足らず、当時の交通手段では東京から8時間近く、大阪からは寝台急行で10時間かかる、東北の田舎の小都市に、東京にもないようなデラックスで、設備よりも接遇の行き届いた施設を、しかもそのサービス内容から考えれば破格の値段で提供したのです。
私が、庄内に暮らして、九州生まれの人間には理解の困難な言動や、溶け込めない違和感を感じながらも、この東北のかつて「裏日本」と呼ばれた片田舎に何となく憧れるような気持ちを抱いたり、「いいな、ここ、、、」と感じたりするのは何故なのだろうと考えていました。引っ込み思案で思った事を口にせずニコニコと笑っているような東北人気質とともに、湊町の雰囲気と伝統を受け継いだ「進取の気性」や「ちょっと荒っぽい感性」を持ちながらもどこかに「京都と結びついた伝統」や「西の堺、東の酒田」と言われた繁栄の継承があり、とても不思議な雰囲気のする地域だとは感じていました。
庄内浜で獲れる旬の魚介の御陰で、「鈴政」や「こい勢」を始め、いくつもの美味しい寿司屋があり、地物の食材を活かしたフランス料理風の鉄板焼をやっている「おく山」など、「ル・ポットフー」や「欅」以外にも銘店がたくさんあります。鶴岡まで足を伸ばせば、全国的に超有名で庄内で最も予約のとりにくい店No.1の「アル・ケッチャーノ」や、昔お気に入りながら最近ご無沙汰している「紅屋」があります。庄内町余目には女性が大喜びするドルチェをとてもリーズナブルに提供し、料理もとても美味しい「ブリラーノ」があり、酒田にまた戻って来ると最近何度かブログで紹介した「シェディ・オーク」などの素敵なレストランがあります。その他にも、美味しいカレーの専門店「ナーランダー」や酒田の数あるラーメン屋さん、お蕎麦(酒田の「田毎」、余目の「せき」「しま田」など)その他、仲の良い友人や親が遊びに来たら連れて行きたいと思うような店が、私が行った事のある店だけでもこれだけ、いえ、挙げきれない程たくさんあります。
そして、酒田市名誉市民酒田市文化功労者(JS先生から間違いを指摘いただきました)であるシャンソン歌手の故岸洋子さん、オペラ歌手として活躍中の市原多朗などの芸術家も輩出していますし、もちろん「せめて成りたや殿様に」と歌われた本間家も酒田の地で存続しています。土門拳(こちらが酒田市名誉市民)のような希代の大写真家も輩出し素晴らしい写真専門の美術館もあります。
私の所属するアマオケは「酒田」と冠していますが、酒田市の団員は半分くらいで、隣の鶴岡市や庄内町、遊佐町などはもちろん、離れた新庄市、山形市や秋田のにかほ、由利本庄から通う団員もいます。それにしても、人口10万人の街に、10年に一度とはいえフルオペラに挑むようなアマオケがある街なのです。

酒田駅前の通りは昼間でもシャッター街の寂しい街になり、かつて「グリーンハウス」があった中町地区は日曜日でも人通りがまばらな寂しい街になってしまっています(もちろん、「寒鱈祭り」など地域として人寄せ、盛り上げに取り組んではいます)。郊外型大店舗のIグループや大型量販電気店に客を奪われ、街中の商店はひっそりしています。
しかし、この不景気な街に、かつての遺産であるかもしれないけれどどこか素敵な文化の香りを嗅ぎ付け、足を引かれて近寄って来たような気がしています。

故佐藤久一一人の手柄ではないでしょうが、酒田や周辺の街には、「グリーンハウス」で青春を過ごし、または家族で楽しんだり、週に一度、月に一度のお洒落をして出かけ、テレビ時代直前の映画全盛期に「東京と同時封切りのロードショウ」に田舎の人間の自尊心をくすぐられた人達が暮らし、何かの席(誕生日、お祝い、招待など)でコース料理を味わう事を楽しみしてそこに行く事を誇りにすら感じたレストランがあったのです。決して総数としては多くはないけれど、人口に占める率としてそういう経験をした人達が多く住んでいる地域なのだと思います。今は不景気で、寂れて、シャッター街になってはいるけれど、「東の酒田」と称され、「及びもせねど」と歌われた街、人の伝統があります。だからこそ、吉永小百合さんをキャスティングして、「黒澤組」が担当して、JR東日本の宣伝に、酒田の街中や山居倉庫が使われたのでしょう。
今も、レストラン「欅」やフランス料理(フランス風郷土料理と言っている)「ル・ポットフー」はもちろん、庄内に限らず全国の料理の世界で活躍している人達の中に、故佐藤久一に薫陶を受けたり関わった人達がたくさんいます。そして、やはりなによりもこの土地が素晴らしいのは、海、山、川、田、畑、空、水といった自然の生み出す食材や水や酒の、豊穣で他所では得難い素晴らしさだと思います。
「料理は素材」、「料理、それは思い出、、、」

おまけ?(本題?)
Photoこの本には、私の存じ上げている人の名前や、名前は書かれていないけれど「あそこだろうなぁ」という人や場所が出て来ます。酒田に住んでいるのですから当然です。
なかでも驚いたのは、「女性クラシック歌手」として文中に登場するJS先生の事。
オケでもお世話になっていますし、3/16のオペラ「ラ・ボエーム」に出演する地元の混声合唱(コーロ・プリモ)、少年少女合唱団(酒田マリーンジュニア)の両方の指導者で、家内もお世話になっていますし、クリニックのリハ室に設置するグランドピアノ選定購入に関してもお世話になりました。
故佐藤久一が「グリーンハウス」で実現した夢のような劇場の世界をレストラン「ル・ポットフー」にもと考えて、昭和52年(1977年)からJS先生に歌ってもらうことになったのだそうです。今でこそ、高級レストランにピアノの生演奏やクラシック歌手の生の歌声が響く事はそんなに珍しくはなくなりましたが、30年以上前の人口10万人の東北の田舎都市(いなか、いなか、と書くと酒田の人に怒られそう、、、って私も「酒田の人」ですが)でレギュラーでやっていたなんて驚きです。
しかも、3階のレストランだけではなく、4,5階の宴会場でも生の演奏ができるようにと全ての階にグランドピアノを設置したなどと知ると、今回、リハビリ室にグランドピアノ(ゆくゆくはチェンバロも)を設置して、無料のサロンコンサートを計画している自分の考えと合致する「心」を感じて感動してしまいました。

「料理、それは思い出、、、」

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2008.01.28

寒鱈祭りと出初め式

先日の記事に書いた「寒鱈祭り」は、土日の2日間やっていました。
昨日1/27は朝から午後までオペラ(3/16)の練習で、私は行けませんでしたが、家内が中町に行って来たので携帯のカメラで撮った写真を載せます。
Photo中町の中合清水屋の前の通りで行われた「消防出初め式」。酒田地区消防隊、消防組合の方々が整列しています。
今週、私のクリニックはほぼ建物は完成し、消防の立入検査を受けることになっています。「酒田の消防の検査を通るならどこでも大丈夫」と言われる位厳しいそうです。それというのもやはり昭和51年の酒田大火のせいでしょうか。この中にはうちのオケのフルート奏者もどこかにいるはずですが、、、、

Photo_2古式ゆかしい昔の放水車。地下水を汲み上げて、人力のポンプで高圧の水を放出します。
今のポンプ車のような勢いでは出ませんし、高い所には届かなかったはずです。

Photo_3女性の消防隊員も、雪の降りしきる寒い寒い中、制服を着て整列です。
あまりに寒かったので、ちょっと「ピシッ」としてない感じが、、、
だって零下の気温に風が吹くと、体感気温は−5℃以下だと思います。

Photo_5Photo_6さあ、「出初め式」の華、「梯子乗り」です。
いくら男女同権とか性差別反対などと言っても、こういう荒くれの業や危険な事は、やはり「男の世界」だと思います。女性消防隊員は、梯子に上ったり、危険な消火活動に直接当たらなくても、女性ならではの細やかな気遣いとか対応という大事な役目があると思いますね。


Photo_8Photo_9左は昨日のブログ記事に追加して載せた写真と同じです。
右は、一昨日、米沢で行われたフルート二人、ピアノ二人の県出身の若い(女性)音楽家のコンサート。右のY嬢は、山響フルート首席の足達先生のお弟子さんで、H17年に参加した夏合宿では、一緒にフルート四重奏をやっていただきました。カステレード作曲の『フルート吹きの休日』四重奏版を4人で、1、2、3、4番をクルクル交替しながら楽しく吹きました。写真左のM嬢(結婚されてM姓ではなくなりましたか)は、2005.11.26の記事「フルートリサイタル」で演奏会の事を書いたその方です。
残念ながら、酒田から米沢では遠くて聴きに行く事ができませんでしたが、きっと素敵な演奏会だった事でしょう。

今日のおまけ。
Photo_10今手に取っている本2冊。右は買ってから1ヶ月近く経つがまだ読了していない稲盛さんの本。一度読んだ所をまた読み直したり、何度も同じページを読んだりと、反芻しながら記憶にとどめながらの遅読になっている。
対称的に、左の岡田芳郎の本『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(なんと長いタイトルでしょう!)は、面白いし、じっくり読む必要がないので、3日前に買ったのだがもう読み終わりそうである。

何日か前にHN「潤」さんという方から書き込みを頂いて知ったのですが、1/18に発売になったばかりです。故佐藤久一という、映画館「グリーンハウス」とフランス風郷土料理の店「ル・ポトフー」を作った人の話。これは本当に面白いのであらためてブログ記事にしたいと思っています。

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2008.01.27

月山道と山響定期

(写真を追加しました)
昨日は、午前中に写真館、お昼は海鮮市場での「どんがら汁」、午後少し休んで4時前に出かけました。
山形テルサで午後7時開演の山形交響楽団第186回定期演奏会を聴くためです。
酒田ー山形は通常なら車で1時間半で着きますので、少し余裕を見ても5時少し前に出れば間に合うのですが、昨日は1/24の暴風雪よりはましとは言え時折雪が強く降っていましたので早めに出かけました。
山形自動車道は鶴岡ICを過ぎた辺りから、除雪されているとは言え圧雪で路面は全く見えません。車線や路肩を示す線も見えず前を走る車が頼りです。高速道路なのに、場所によっては50~60km/h出すのが精一杯という所もあります。湯殿山ICを過ぎて月山道に入ると雪が一層激しくなり、ライト、ファグランプを点灯しても道は前も右も左も真っ白で目の前も真っ白でどこが道路でどこが路肩なのかもわかりません。わずかに見える前の車のテールライトや雪道の轍を頼りに走って行きます。
以前、本当にホワイトアウトになるような天候の時に月山道を越えて山形市に到達するのに4時間近くかかったこともありました。その時は月山道では時速20~30kmくらいしか出せませんでした。道路が見えないので恐くて走れないのです。

昨日はまだましで、しかもしばらくの間、前を道路公団のトラックが黄色いパトライトをくるくる回しながら走っていたので、その灯りを頼りに着いて行く事ができました。山形テルサに着いたのは18時15分頃。およそ2時間20程かかりました。
ずっと雪の中で恐い思いをしながら運転したので、もう手も肩もパンパンです。目も疲れています。受付では、電話をしておいたので準備をして頂いていた「山響CD第3弾 ブルックナー交響曲第4番」+飯森さんサイン色紙付きを受け取りました。12月の酒田定期の時に先行予約をしていたのですが、この先行予約の人には山響音楽監督の飯森範親氏のサイン色紙がつくのでした。今回は電話予約で2階のバルコニー席を予約していたので、座席に向かいます。山形市内も結構な雪で、積雪も多く、客足は出足が悪いようです。まだ6、7割しか埋まっていません。プログラムを眺めながら運転の疲れよりもこれから始まるコンサートの期待感が高まります。
コンサートの内容は、narkejpさんのブログ記事にいつものように詳しく解説されているのでそちらもご覧下さい。「山響ニューイヤーコンサート〜山形交響楽団第186回定期演奏会を聴く」をどうぞ!

飯森さんのプレトークが始まりました。ようやく会場に着いたお客さんが三々五々と座席に向かう中、本日のプログラムの説明です。定期演奏会ではありますが、「ニューイヤー」的なプログラミングで、前半はヨハン、ヨハン二世、ヨゼフ・シュトラウスのワルツ、ポルカです。
クラシックの曲の中で、何が好きかと聴かれれば、私はシュトラウスのワルツとポルカと答えると思います。でも自ら演奏した記憶はおそらくありません。聴くのはとても気持ちのよい楽しい曲ですが、演奏するのはとても難しいのです。特に「ウィンナ・ワルツ」といわれる、ズンチャッチャの2拍目の「チャ」が早くはいる、「ズチヤァッッチャ」(文字で現すのは困難)のリズムはワルツを踊る経験などまずない日本人にはとても難しいものです。その対策のためなのか、ヴィオラのトップにウィーンはフォルクスオーパ(Volks=国民、Oper=劇場)の団員である川中子紀子さんを客演で迎えていました。隣には山形弦楽四重奏団のヴィオラ奏者でもある「らびおさん」が座ります。左から第1、第2ヴァイオリンが並ぶ場合、次にチェロが来て、上手側にヴィオラが並ぶ配置が多いと思うのですが、今回は左から第1、第2ヴァイオリン、続いてヴィオラ、そしてチェロでした。前半のコンマスは犬伏さん、フォアシュピーラというのでしょうかトップのインに特別客演コンマスの高木さんが座っています。おそらく後半の「新世界から」で交替するのでしょう。第2ヴァイオリンの首席はピアニスト館野泉さんのご子息のヤンネさん、トップサイドはこれまた山Qメンバーの「中爺さん」です。
チェロの首席は、いつもの通り宮城さんですが、トップサイドは邢(シン)広京(グヮンジン)さんです。昔からちょっと知り合いの人で、中国から来日して山響の団員になられています。チェロのソロでCDも一枚出していますが、なんとなくやはり日本人のメンタリティーとは違う香りのする美しいチェロの音色を響かせる方です。山形にお住まいの方はご存知と思いますが、某地元企業のコマーシャルで、フルート首席の足達先生と一緒にテレマンのフルートソナタを「山形美術館」の前でチェロで弾いている「あの人」です。ちなみにテレマンのフルートソナタはこんな曲です。(^^;;;

Photo_7前半のプログラムにはいろいろな趣向が凝らされていて(ポルカ「狩」ではパーカッションはもちろん指揮者の飯森さんまで小型ピストルを隠し持っていて、「パ〜〜ン!」と鳴らしたり)楽しいものでした。(1/27山形新聞朝刊の記事より。飯森さんの振り向き方、完璧ですね!笑)
「ピチカート・ポルカ」は、昨年夏の山響定期で客演指揮者の阪(ばん)さん(京都生まれながらご両親が山形県出身者)が振った時、アンコールで演奏したのを聴きましたし、先日鶴岡でS銀行130周年記念コンサートでは、山響名誉指揮者の黒岩さんも降りました。先日のオペラ「ラ・ボエーム」宣伝を兼ねた「街かどコンサート」(新春街かどコンサートの記事参照)でも、酒田C高校の音楽部が演奏しました。4者4様というか、高校生の演奏を比較に入れては行けないかも知れませんが、間の取り方、テンポ、リズム、、、全部が違うのです。楽譜に書いてある事は同じはずなのに面白いものですね。
前半最も期待していたのはAn der schoenen, blauen Donau、そう「美しき青きドナウ」です。8ヶ月程前、ブダペスト、そしてウィーンを流れるドナウ河を見て来ましたが、けっして「青く」はありません。でも、オーストリア人にとっては「第二の国歌」とも言われるこの曲は、やはり名曲です。チェロ首席の宮城さんとホルン首席の八木さんのソロが響きます。「ズチヤァッッチャ」の2拍目と3拍目である「チヤァッッチャ」は、第2ヴァイオリンとヴィオラが担当しています。この「内声」のパートが弦5部のちょうど真ん中に位置するような配置だったのだなと一人勝手に納得しながらその「チャッチャ」を音と奏者の動きで楽しんでいました。いや〜、やはり名曲です。

後半のドボルザーク交響曲第9番「新世界から」もいろいろと書きたい事はありますが、心の中にとどめておきましょう。一つだけ、第2楽章のあの有名な「と〜おき〜 や〜まに〜 ひ〜はお〜ちて〜」という、よく小学校で「下校の時間になりました」の校内放送のバックに使われる哀愁漂うメロディ、日本人の大好きなメロディはエキストラのオーボエ&コールアングレ担当の竹谷智さんです。全観衆の目と耳がすべて竹谷さんのコールアングレに集まっている様に感じました。そんな時、いくらプロとは言え、そんなに難しいフレーズではないとは言っても、誰もが知っている有名な旋律の完全なソロを吹くというのはどんなプレッシャーがかかるのだろうという邪念が入ってしまい、祈るような気持ちで聴いていました。しかし、いざその音楽が始まると、ただその美しさ、哀愁漂う雰囲気に心が穏やかになって行きました。山響のオーボエ首席であった竹谷さんが昨年退団して、現在オーボエ首席は正式にはまだ空席なのだと思います。ようやく決まったとの話も聞きましたが、今回も首席は佐藤麻咲さんという若い女性の客演奏者でした。竹谷智さんは、山響退団後、元々やっておられた「山形チェンバーミュージシャンズ」や「ベルク木管五重奏団」などの活動の他、アマオケの指揮(米沢フィルの指揮を何回かされています)やオーボエの客演奏者として活躍されていますが、やはり山響にいて欲しい音楽家だなぁとこの第2楽章を聴いていて思いました。3/16のオペラ「ラ・ボエーム」では、酒フィルのエキストラ奏者として竹谷さんにコールアングレを担当して頂くことになっています。すでに2回程、指揮者練習に参加するため酒田まで来て頂いています。
「新世界から」の4楽章が静かに終わって、少し間を置いてから凄い拍手、そしてブラボー、ブラボー。飯森さんが一度袖に引っ込んで2回目の登場の時、当然の様にまず竹谷智さんを一人立たせてその演奏を讃えます。観客も竹谷さんに大きな拍手。ブラボーの声もまた2つ3つ飛びました。なんだか私まで胸が熱くなるのを覚えました。
4楽章の最後はホルンも凄かったし、トロンボーンも燃えていたし、トランペットの井上さんは「ワァオ!」というような強く美しい音で咆哮していました(まるでチェコフィルのケイマルさんのようでした、、、笑)。弦も弓から火を噴くのではないかという「熱い」演奏で、犬伏さんのヴァイオリンの弦が「バチン!」という結構大きな音と共に切れてしまいました。なかなか見る事のない、第1プルトから最後尾の第5まで一人ずつヴァイオリンを前列の奏者と交換しながら、弦の切れた楽器を後ろに回して行く様子が見れてそれも楽しからずや、と言う感じでした。山響ではコンサート用のスペア楽器を用意していないという事で(犬伏さん談)、第5プルトインの人が袖に引っ込んですばやく弦を張り替えて戻って来るという技を見せていました。これもブラボー!です。

「一つだけ」などと断りながら、長々書いてしまいました。興奮しました。
コンサート直後の交流会では飯森さんがお話をされていました。山響FC企画の「山響グルメツアー」に誘われていたのですが、すぐに帰らないと1/27(日)は朝からまたオケの練習があります。
往路は月山道でくたくたになったので、帰路は「新庄回り」に変更。国道13号もツルツルで、尾花沢あたりに来ると積雪量も降雪量もやはり「豪雪地帯」という感じでした。ここでもやはり前を走る車のテールランプを頼りに必死でハンドルを握りしめて車を走らせます。新庄を過ぎて国道47号にはいって一路西へ、酒田を目指す道に来ると、夜中の22時過ぎということもあって交通量も減ります。部分的にツルツルで雪の積もった道路の対向車線に大型トラックがグヮ〜ンと来ると恐怖を感じます。結局、2時間30分程かかって我が家に到着したときは、もうすぐ日付が変わろうかという真夜中。
いくら愛する山響の演奏会を聴くためとは言え無謀だったかな、とちょっと反省しましたが、その演奏は、前半の楽しさ、後半の充実感、など往復5時間かけて雪道で恐い思いをしながら、食事もコンビニの肉まんやサンドイッチとおにぎりを車内で済ませて我慢しても「行って良かった!」と本当に思うコンサートでした。

ただ、真冬の山形通いはちょっと考えようかなとは思いますね。(^^;;;

本日のおまけ写真。
Photo完成間近のクリニック、玄関の脇に当たる場所から背の高い窓が据え付けられた待合室の東面とサロンコンサートも行いたいリハビリ室の南面です。ここに前室的に小さな庭を作ります。天気の良い日はここでお茶でも飲みながら待って頂いたり、診療時間外にはリハビリ室の窓を開いて、中で演奏する音楽が庭で聴ける様にしたいと考えています。

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2008.01.26

寒鱈汁

「魚」辺に「雪」と書いてタラ(鱈)と読みます。
冬の庄内の風物詩、「寒鱈汁(かんだらじる)」の季節になりました。
先週末辺りから荒れ模様の天気は、激しい暴風雪となり街中が凍った様になりましたが、今日は少し気温も緩んでいるようです。今日と明日、酒田市中心街では寒鱈汁のお祭り、「酒田日本海寒鱈祭り」をやっています。
明日の日中は、オペラの練習で行けないので本日ちょっと行ってみました。

写真館に写真を撮りに行き、その足で寒鱈祭りへ。ただ、街中ではいろいろイベントをやっていてとても混んでいる様子だったので(昨年のこのお祭りへの人出は8万人だったそうです)、海鮮丼で有名な「海鮮市場」に行ってみました。こちらは、魚市場と有名な「海鮮どん屋 とびしま」の表に急ごしらえの小屋を作ってそこで販売しています。

PhotoPhoto_2こちらで販売しているのは、「どんがら汁」一杯500円とおにぎり2個250円。
どんがら汁というのは、寒鱈のあら汁ですが、「だだみ」と呼ばれる鱈の白子や肝臓、胃袋に、中骨、顎、頭などが「ごろごろ」入っています。真冬の日本海で丸まると脂を蓄えた寒鱈はほとんど捨てるところがありません。
大きな鍋からお玉ですくって盛りつけると一杯のどんぶりにはいる中身にばらつきが出るので、最初からうどん玉を茹でて湯きりする時に使うような「ふりざる」の中に一杯分の具を入れて味噌仕立ての鍋の中で煮ています。これは「かしこい」!
ドンブリに盛りつけたら、ネギと「岩のり」をいれます。この岩のりも厳冬の庄内浜の岩に張り付く様に生えているのを波の打ち寄せる滑りやすい岩場で命がけでとって来るのです。コラーゲンたっぷり!という感じのねっとり柔らかい身がほろほろとはずれる顎や、コリコリと歯ごたえ十分の胃(?と思う)、何とも言えない食感の「だだみ」、もちろん切り身も美味いのですが、いわゆる「アラ」の部分の美味しい事。そして、アラから出た出汁の味わい深い事。
おにぎりも昆布の佃煮のはいったものと、紅ジャケの焼いてほぐした身が入った物1個ずつでとても美味しかった。
Photo_5んめもの、ごっつぉなったの。
(写真は市場で売っている鱈。特に白子を持つオスの方がメスの何倍も高いのが特徴です)
「どんがら汁」の凄い所は、食べている際中よりも食べ終わって車に乗って帰る時になって、身体がポカポカしてくるのです。
Photo_3Photo_4海鮮市場からの帰り道、山居倉庫の前を通りかかりました。
「雪の山居倉庫」、絵になります。
目の前の新井田川は、先日のブログ記事で「笛吹き童子」の銅像のある橋が架かっている川で、これはずっと内陸部に入ってくる途中、私の借家の裏を流れています。「屋形船」があって、庄内の地の物や地酒を頂きながら船遊びが出来るそうです。マッチ主演の刑事物ドラマ(ブログ記事「1年の2/3が過ぎた」を参照)にも出てきましたね。そのうち、乗ってみたいと思います。

本日のおまけ写真。
MriPhoto_6昨日追加しますと言って出来なかった、医院へのMRI搬入工事の写真が左。重さ14トンのガントリ−をクレーンでつり上げ始めた所。右の写真は、まだ床が貼られていない完成間近のリハビリ室です。
詳しくは、私の別ブログでどうぞ。

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2008.01.25

庄内に暴風雪「警報」!そしてMRI

また悪天候になっています。
1/24(木)は朝から荒天。強い西風が吹いていました。車で通勤する際、普通の道路を走行中に横風を受けると、あまりに強い風のためにまるで大きな橋に停まっていて大型トレーラーか何かが通った時の様に車が揺れるのです。
夕方帰宅する時には、赤川沿いの道は一日中吹き荒れた強い西風のせいでツルツルになっていました。風が強いので雪は吹き飛ばされ積もりません。そして凍ってツルツルに磨かれていきます。

羽田−庄内空港の空の便は、4便中3便が欠航したそうです。可哀想なのは、羽田発の2便。羽田を飛び立って庄内空港を目指しもうすぐ着陸態勢にと言う所まで来て、強風のため着陸できないので羽田に引き返しそのまま欠航になったそうです。それなら、最初から飛ばなきゃいいのに。JRに変更するとか乗客に選択できたでしょう。行って帰ってきたら2時間損しています。その間に、山形新幹線なら米沢近くまで、上越新幹線なら新潟まで行っている時間です。
ただし、昨日の風は本当に半端ではない「暴風」で、新潟−酒田−秋田−青森を結ぶ羽越線は、のきなみ特急や寝台特急の運休が決まっていました。飛行機が欠航した人はどうなさったでしょう。新潟まで着たけどその先運休で新潟に泊まるのか?それなら、山形新幹線で新庄まで来て、陸羽西線に乗り換えて新庄から酒田や鶴岡に向かった方が(合計4時間半から5時間かかるけど)確実ですね。

今日も天気が悪く、庄内地方には暴風雪警報が出ています。
そして今日、1/25(金)はMRIが搬入されます。朝から現場は賑わっていました。ガントリーだけで14トン、総重量15トンもの器械を搬入するため25トンの荷重に耐える大型クレーンが現場に入っていました。MRIをトラックから降ろして、臨時の足場に載せ、それをゆっくり横移動してMRI室の真裏に持って来て、そこからMRI室内に搬入します。
この模様は写真入りでまた後ほど書きます。今日は、これから鶴岡で庄内地区の脳外科医の集談会に出席するため、会から戻ってから記事の追加をする予定です。庄内地方の脳神経外科医療の現状を話し合い、症例の勉強を通して懇親を深め、情報を交換します。既に鶴岡で開業している脳外科医と、私ともう一人酒田で開業する脳外科医、それに3つの総合病院の脳外科医が集まっていろいろ話をするのです。開業の先輩である仲間にいろいろ教えてもらうのも楽しみです。
それでは戻ってから追加ということで。
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2008.01.24

日本の医療の安全について少し考えてみました

このブログを長続きさせるためにも避けようと思っている「医学ネタ」です。
自分自身が医師なので、下手な事を書くと墓穴を掘ることになりかねませんし、同業者や仲間を批判するような事は仁義にもとりますし、患者さんや一般の方の考えを否定するような事でも書けば大きな問題になりかねません。これまでにも、医師が患者の批判記事を書いて病院を辞めさせられたとか、問題発言をしてブログが「炎上」したとか、他山の石とすべき事例があります。

医療の安全性とはなんでしょうか?
安全な医療とはなんでしょうか?
正確な診断と確実な治療法、これさえあれば「安全」でしょうか?
医療は常に変化し進歩しています。研究し追求し科学して進化しています。「自然科学」の事であり、生物の一種である「ヒト」という動物が対象ですから、「個体差」があり「不確実性」が存在するのは当然の事です。工場で生産される自動車にだって出来不出来があるのですから、一人一人が個である人間にいろいろな「不確実性」が存在するのは小学生でも分かる話だと思います。しかし、現在の日本では医療は安全なのが当たり前で不確実なんておかしい、という論調で統一されかかっています。しかも、世界でも類を見ない程「安い」金額で受けられる医療行為が、世界的に高いレベルにあるにも関わらず、いやだからこそ、何かが起こると「おかしい、変だ、ミスだ」と叩きにかかる傾向にあります。
どこぞのどなたかが書かれていましたが、日本人は医療を安く済むものと信じ込んでしまっています。病気の治療、命のやりとりに多額のお金がかかるのは医療が進歩すればする程、当然の事であるのに、大戦後に出来た保険制度と診療報酬制度のまま、「医療は安価でなければいけない」そして「安全であるのが当たり前だ」という、通常の市場経済や自由経済の世界であるならば相反する考え(いい素材を使ってテーラーメイドで作るものをより安く販売する)の元に多くの議論が行われている様にすら見えます。

私が今日書こうと思っているのは、医療の安全性に関わるたくさんの課題の中から、特に「医師不足」と「診療行為に関連した死亡に関わる死因究明等のあり方に関する第二次試案」についてです。
新聞やテレビなど多くのマスコミで「医師不足」「医師偏在」「病院の診療科閉鎖」「救急患者のたらい回し」などを報道します。中にはかなり核心を突く報道もありますが、問題が奥の深いものだけに単発短時間ではカバーし切れていない、場合によっては偏った、または大事な点の欠落した報道としか言いようがないものもあるようです。

日本の医師「数」が不足している事は今に始まった事ではありません。
特に、一県一医大構想の前は、田舎、僻地、離島には医師がいないのが当たり前、いても「何でも屋」を要求される代わりに、設備的にも高度な事は出来ない、それは勤務する医師も医療行為を受ける住民も暗黙の了解の上での診療体制でした。
昭和54年、「新設医大」の卒業生が出始めてから医師の数は増えてきました。しかし、それでもGDP世界第2位の国としては非常に少ない数の医師によって国民の保健医療を供給しています。よく用いられるOECDのデータで、「人口1000人あたりの医師数」は2004年のデータで「2.0人」であり、OECD加盟30カ国中22位です。
フランス、ドイツなどでは人口1000人あたり3.4人の医師がいますが、日本ではこれが2.0人しかいません。フランス、ドイツの6割の医師数で国民の医療を支えている訳です。
ところがWHOによるといろいろな意味で日本の医療は「世界一」とされています。それは国民皆加入の健康保険制度と保険診療点数制度によって、国の隅々どこでも同じ病名、同じ検査名、同じ手術名であれば「同じ料金」という非常に公平でオープンなシステムをとっていることも評価されていますが、医師、医療のレベルが国際水準に照らし合わせて全体に高いということを示しています。

医師の技量や経験を点数化、数値化することは容易ではありませんから科学的な検証は困難ですが、日本の医師は「平均点」として優秀だという事は言えると思います。もの凄く素晴らしい技術を持った国際的な医師もいますが、アメリカの医療制度のような「優秀な医師は高額な収入を得うる」という制度と違って、「腕」の善し悪しに関わらず「診療報酬」は一緒という社会主義的制度の中で仕事をしていることを考えれば、「これは酷い!」という医師が少ない(いないとは言いません)のだと思います。
頑張っても頑張らなくても、手を抜いても抜かなくても、報酬が同じであるならば、通常の「労働者」であれば「頑張らずに手を抜く」方向に流れてしまうのが人間の性だと思いますが、そういう人が少ないというのが「日本人の医師」の特徴であると私は思っています。なぜ、「流されない」または「流される人が少ない」のかというと、それは医師である誇りと病者を救いたいという博愛の心に支えられているからだと思います。

ドイツ、フランスの6割の人数で(平均値として)同等かそれ以上のレベルの医療を提供しているという事は、ナースや技師の働きを同等と見なした場合(これも日本の方が優秀な率が高いと思います)、日本人の医師はドイツ、フランスの医師の「1.7倍」の努力、働きをしていると言い換える事が出来ます。
医師の頭数をOECD平均並みにするには「12万人」の医師が不足していると言われています。現有の医師が不足する12万人分の働きをしているから、WHOの評価で「世界一の医療」を保っているという風に言い換える事ができるのではないでしょうか。だから、特に救急医療を支えるような地域の中核病院では、産科、小児科、麻酔科、脳外科といった救急の現場に借り出されたり、命のやり取りに関わる局面の多い診療科の医師に負担が多くなり、「誇り」や「博愛の心」だけでは支えきれなくなって、辞める、移る、閉鎖するという「負の方向」へ進んでしまっているのだと思います。

それなのに、医師側にも問題がある事を否定はしませんが、医療過誤や医療事故が起こるとマスコミは医師や病院を叩く傾向にあります。官憲も善良(であるべき)な医師を「刑事事件」の対象にしようと動く傾向にあります。
それに加えて、現在大きな問題が生じつつあります。

『診療行為に関連した死亡に関わる死因究明等の在り方に関する第二次試案』を厚生労働省が法案化しようとしているのです。理念は正しい、美しいと思われる内容なのですが、そのやり方、特に「医療事故調査委員会」の構成や運用に大きな問題があるのです。問題が複雑なので、誤解を生むといけませんが、簡単に言うと、何か医療事故を考えさせるような「診療関連死」があった場合、その臨床経過の評価や分析を担当するために設置する組織として「中立」「公正」であるべきこの「委員会」に「遺族の立場を代表する者」が入ることになっています。当事者であるかもしれない治療を担当した医師や病院は入らないのですが、患者遺族側が組織に入る事が中立、公正ということになるのかよく理解できません。そして、最大の問題点は「必要な場合には警察に通報する」と試案には書かれている事です。「診療関連死の中にも刑事責任を追求すべき事例もあり得る事から、警察に対して速やかに連絡される仕組みとする。」と明記されています。また「刑事手続」についても、「事例によっては、委員会の調査報告書は、刑事手続で使用される事もあり得る」と明記されています。調査報告書があれば警察が医師を捕まえるよ、という事です。

これをもうちょっと平易に解説するとこういうことになります。
善意と博愛の精神で患者さんの治療に当たっていた医師が、何らかの理由でその患者さんが死亡した場合、もし「不審の原因」が疑われて何らかの落ち度が医師にありそうであると思われた場合(実際はそうではなくても、誰か、患者やその家族などがそう「思った」場合)、その医師は警察に逮捕されてしまうという可能性があることになるのです。
もちろん、診療行為に意図的なミスや悪意がある場合は言語道断、いうまでもなくそう言う事をする医師や医療側が悪いと言うのはいいのですが、「そういう意図がなく」「なんとかしてあげよう」という善意の心で診療に当たっていたら運悪く患者さんが具合悪くなり死亡したりして、家族が「おかしい!医者がミスしたんじゃないか?!」と考え、「委員会」の通達で警察が動く、と言う事を意味します。
病院の救急外来には予約ではない、想定していない患者が飛び込んできます。もともと疾病を抱えていて急に具合が悪くなったり、転落や交通事故で重症を負って運び込まれてきます。その治療に当たっていたら患者さんが亡くなってしまった。家族が騒ぎ出す。委員会が結成され警察に通報される。何も落ち度がないと思っている医師が逮捕されて拘留される。こうなってしまう危険性を孕んでいます。
すると、「救急外来」では飛び込みの患者は診たくない、重症の患者は診たくない、知らない患者は診たくないという反応が起こるのではないでしょうか。
手術をする外科医は、危険性の高い疾患には手を出さない、重症の患者は自分の所では診たくない、手術はしたくない、こういう反応が起こるのではないでしょうか。

これを「医療の後退」と言うのだと思います。蛮勇で知識も経験もないのに難手術に取りかかったり、緊急患者の診療に当たるような愚かな医師は問題外ですが、通常の努力によって知識、技術を身につけた有能な医師が「なるべくなら関わりたくない」「なるべくなら触りたくない」という気持ちになる事を心配するものです。
すると、日本の医療はどうなるのでしょう。
難しい病気、治療、手術に挑戦しようとかより高度な医療を展開しようという医師や組織は非常に少なくなり、国全体の医療レベルが下がり、緊急患者はたらい回しばかりになってしまう恐れがあります。WHOが世界一のレベルと評した医療は容易に低落して行きます。
結果、迷惑を被るのは国民です。
世界一のレベルを誇っていた医療を、医師が放棄し始め、高い金でももらわなきゃやってられない(米国式)とか、救急患者なんか診てられない(英国式)になってしまうと、金と権力を持つ特権階級だけが高度な医療を独り占めして、一般大衆はやる気のない、レベルの下がった医療を甘んじて受けざるを得ないという事態に陥る可能性があるのです。こうして、高度な医療が比較的公平に受けられる稀な国であった日本の医療の「安全性」も低下していくのです。

私が、大学病院を、准教授職を辞したのは、個人的な問題が大きな要因を占めています。特に、音楽活動ということです。しかし、これにしたって、大学病院や地域の中核病院の勤務医師が、24時間体制で働き、連続36時間勤務したり、風呂に入っている最中も心が休まる余裕のないような現状のシステムが改善され、勤務医師にも「人並みの」精神的、肉体的余裕が生まれる余地があれば、辞めなかったかも、しれません。。。わかりません。。。
今の私に出来る事は、個人医院を開設する一医師として地域住民の健康問題と不安を解消しお助けする仕事を通して世の中に貢献するよう努力を続ける事です。そして、『診療行為に関連した死亡に関わる死因究明等の在り方に関する第二次試案』の法案成立を阻止する様に仲間や国会議員や厚労省に訴えかけることでしょうか。

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2008.01.23

グランド・ピアノ

子供の頃、ピアノを習っていました。
4,5才の時にオルガンを始め、6才頃から14才まで習っていました。
ピアノは今でも好きですが、「ピアノの練習」は好きではありませんでした。自分でやりたくて始めた訳ではなく親の意向だったこともあります。毋が女学生の頃、余りの音痴故に歌の時などは同級生に失笑され大変恥ずかしい思いをしたらしく、「子供には(自分のような)恥ずかしい思いをさせたくない、音楽を習わせたい」と自分の暗い過去故に考えていたらしいのです。
要するに「親のエゴ」で始めたピアノでした。

昭和30年代、団地暮らしの普通のサラリーマンの子供でピアノを持っている人はまだ多くありませんでした。3DKの狭い団地にあったのは、オルガンです。ピアノ教室に行っているのに自宅にはオルガンしかありません。昔のピアノ教室は、ハノン、ブルグミューラー、ツェルニーといったいわゆるピアノ教則本、練習曲をひたすら正確に演奏するというものだったような気がします。「ひたすら正確に演奏する」という訓練は今だって大切な事で、決して間違っている訳ではありません。正しい指の形、正しい腕の形、「手の中に卵を持っているような形で!」とか「手首を下げないで!」とか、かなり厳しく指導された記憶があります。軽くだと思いますが、手・指の形の指導の過程で手の甲をピシっと叩かれた記憶もあります。
しかし、その練習をする自宅にはオルガンしかありません。オルガンの鍵盤は「叩く」のではなく「押す」ものです。その当時のピアノの先生が命令するような形を守らなくても音は出ます。そういうこともあり(習っている本人の理解力がなかったのでしょうが)、「正しい手の形」はなかなか身に付きませんでした。
4つ下の妹がピアノを習う様になって、確か小学3年か4年の頃に、団地の我が家に「アップライト・ピアノ」がやってきました。サラリーマンの親としては当時どのような思いで買ったのでしょう。相当な覚悟が必要な買い物だったと思います。とにかく4年間程オルガンだけで練習していた私は、ようやくピアノの曲をピアノで練習できる様になったのです。
オルガンを使った練習で身に付いた悪いクセはなかなか良くなりませんでした。腕は固くせず、手首を柔軟にして、腕の重さや時に体重もかける様にして、指をしっかり丸くさせて、「鍵盤を叩く」のがピアノの弾き方だと思うのですが、指の強さや腕の重さや体重をかけるかけないに関わらず、同じ音の強さ(足で踏むペダルで音量が変わる)のオルガンを使っていたクセはなかなか取れませんでした。
特に私の先生が怖かった訳ではないのでしょうが、覚えの悪い生徒だったのか良く怒られた記憶があります(「厳しからざるは師の怠りなり」を実践されていたのでしょう)。小学校から家に帰ると毋からは「すぐ練習しなさい」「遊びに行く前に、30分でいいからピアノの練習をしなさい」と言われました。このため、私にとってピアノは「楽しい」ものではなかったのです。嫌々練習していた様に記憶しています。
「ああ、早く野球しに行きたい」「早く行って友達と遊ばなければ、仲間はずれにされたくない」そんな事ばかり考えていたような気がします。今のピアノ教室がどうなっているか詳しくは知りませんが、私が習った頃の様に「ブルグミューラーだ」「ツェルニーだ」「ハノンだ!」などという感じではない様に聞いています。とにかく、おさらい、おさらいです。そして発表会などに出演します。小学生のbalaine少年にとって、ピアノの練習も発表会も楽しいものではありませんでした。それでも「継続は力なり」なのか、転校で変わった教室の先生が良かったのかわかりませんが、小学校6年生の頃には、K音楽教室の小学生ピアノコンクールで中国・四国地区の決戦に出場する位になりました。残念ながら優勝できず、「全国大会」出場はなりませんでした。と思っていたら、その年の「小学校高学年」クラスで全国大会に出る子供の中に「男の子」がいなかったらしく、「どこかに男の子はいないのか?」という話になったらしいのです(後から伝え聞いた話です)。
「中国・四国地区」で次点だったbalaine少年に白羽の矢が当たり、その年の全国大会(上野の東京文化会館大ホール)に出場することになってしまいました。演奏曲目は、ダカン作曲「かっこう」とバッハ作曲「6つの前奏曲」から第6番ホ短調でした。昭和44年8月の夏休みの事でした。

なぜこんなに鮮明に覚えているかというと、自宅にその時の演奏を録音したSPレコードがあるからです。銀座の「富士録音」という会社名の印刷された紙に包まれて、レコードの中央にはK音楽教室の「第2回全国音楽コンクール」と書いてあります。今から39年も前の事でした。その演奏は、自分の演奏とは言え「ぷっ!」と苦笑してしまうような稚拙で子供っぽい(子供だったんです!)ものです。その全国大会では、仙台から出場した女の子が優勝したと記憶しています。オマせな子だったのか、出演順番が彼女の後だったせいもあって、親同士が親しくしていたのを見たからか、演奏を終えた彼女は舞台袖に戻って来た時、次の順番を待っていた私に「頑張ってね!」と言いがてら、ほっぺたに「チュっ!」としていきました!私は、何が起きたのかすぐにはわからず、とにかく次が演奏の順番だったので、カチンコチンに緊張して、歩く足と同じ側の手が出るような感じでひろ〜〜〜い東京文化会館の大ホールのステージに出て行きました。(そういえば、何の因果かその3年後に私は仙台に住むことになったのでした)
よく覚えている事は、賞の発表後の講評で審査委員長を務められた女性(たぶん偉いピアノの先生だったのでしょう)が、開口一番「今年はレベルが低い」と仰られた事でした。balaine少年は、「あ〜、次点の僕なんか出たからかな〜」なんて考えていた様に思います。

まがいなりにも、限定された音楽教室とは言え全国大会に出たのですから、もっと喜んでもいいし、そこからピアノが好きになっても良かったのですが、練習はやはり嫌いでした。その頃になると、モーツァルトのピアノソナタやベートーベンの初期のソナタなどを練習する様になっていました。たまに聴くレコードやラジオのピアノの音楽として、ショパンに憧れましたが、練習はモーツァルトでした。今でこそ、モーツァルトの音楽は大好きですし、その良さも難しさも楽しさも少しは理解する様になったと思いますが、中学生になったばかりのbalaine少年にとって、モーツァルトのピアノソナタはそんなに楽しいものではありませんでした。
Mozpiano小学校高学年の部で全国大会に出た「男の子」として、小学校の音楽の先生や周りからそういう目で見られ、中学にすすんで(そこで倉敷から高松への転居がありましたが)K音楽教室側でも「全国大会に出場した子」という対応だったようです。高松市内にある女子大か女子短大で、中央で活躍されているピアニスト(誰か忘れました、、、)の「公開レッスン」が開かれることになり、生徒の一人として白羽の矢がまた当たってしまいました。
その時使っていた楽譜が自宅にあります(物持ちが良いのです)。春秋社の黄色い表紙の楽譜で、MOZART Sonaten[I] 編集・校訂 井口基成 ¥800と印刷され、「1971.4.11(日) ○○」と鉛筆で私が書いています。公開レッスンを受けた曲は、8番のK.310のソナタ第1楽章でした。
Mozpiano8aまたまたbalaine少年が鉛筆で、「5月1日休み」と「快速に 荘厳に マエストーゾ」と書いています。第1楽章冒頭に付いている音楽表記のAllegro maestosoの意味を書いたものです。途中にcalandoと書いてあるところがあって、また鉛筆で「カランド だんだん遅く そして段々弱く」と書込んであります。その他に、運指やアクセントや呼吸(ピアノにも呼吸はあります)、注意する場所などが書込んであります。懐かしい楽譜です。この公開レッスンで、大勢の大人や女子大の「おねいさん」が見つめる中、紅顔のbalaine少年は講師の先生に「男の子なんだからもっと元気に弾きなさい!」と言われてしまいました。結構傷ついた言葉だったので、37年前の事ながらよく覚えています。

こんな事があったため、あまりピアノの練習、ピアノを弾く事が好きになれずに過ぎてしまい、中学校3年で親の転勤に伴って高松から仙台に転校する際に、「ピアノのレッスン、どうする?続けるか?」と親に聞かれた私は「ピアノ習うのもお金かかるし、、、」などと人のせいにして辞めてしまいました。妹がピアノ教室通いを続けていましたし、その頃すでに私はフルートを買ってもらっていて、独学ながらフルートの練習の方が時間も多く、中学でもブラスバンドに入っていました。ちょうど、テレビで故吉田雅夫先生を講師に「NHK教育 フルート教室」が始まった頃でした。
そうして、私はピアノから次第に離れて行きました。
男の子として最も興味があるのはサッカーで、一人でサッカーボールを蹴って遊んでいました。中3で仙台に移ってからも、ブラスバンドに所属してフルートを吹いていましたが、ピアノが弾ける「男の子」ということで、学校のクラス対抗合唱大会の時には伴奏のピアノを弾くはめになっていました。そういう「ノルマ」がなければピアノには触らなくなってしまい、次第に演奏技術は衰えて行きました。
高校時代はほとんどピアノに触らず、授業時間以外は朝から晩までテニス、テニス、テニス。同級生に凄い奴が二人いたので、高3の時にはテニスでインターハイにも行きました。同時にブラスバンドに所属していたので、フルートは吹いていましたし確か1年くらいは先生にもついてならいました。その当時、仙台○高で一緒にブラバンにいた仲間でその後芸大に進んで中退したコントラバス奏者(現在も音楽関係の仕事をしているらしい)や今、私のクリニックに導入するMRIを作っている会社で偉くなっているホルン奏者の同級生もいますし、2年後輩ですがその後指揮者になって時々山響も振っている佐藤寿一氏などがいます。
浪人して大学に入った所、山形大学の医学進学過程(昔は教養課程が2年、医学過程が4年だった)がある小白川キャンパスには伝統のある音楽科を擁する教育学部、いわゆる「特音」があり、練習用のアップライトピアノが一部屋に一台の練習室がずらっと、記憶では30部屋以上ありました。大学に入って、一人暮らしを始め、バイトでステレオ装置を買い求め、最初に買ったのはピアノのレコードでした。憧れていたショパンです。たしかルビンシュタインによるノクターンかワルツだったと思います。自分でもまたピアノが弾きたくなりました。下宿が小白川キャンパスの裏門すぐ前で、教育学部のピアノ室が近くにあったせいもあって、テニス部で忙しい合間を縫って(おそらく講義をさぼって)ピアノを弾く日々となりました。
「昔とった杵柄」よろしく、独学でショパンのノクターン、ワルツ、プレリュードなどなど楽譜を買い求め、勝手な解釈で弾きまくっていました。その頃には、子供の頃嫌で嫌で仕方なかったピアノの練習を、何とか続けさせ教室に通わせてくれた親に感謝する気持ちを持つ様になっていました。あの頃の練習があったから、大人になって、誰からも習わなくても、上手ではないけれどショパンのノクターンやワルツが弾けるのです。エチュードも部分的になら弾く事が出来ました。

それから、また長い長い年月が過ぎて、アマオケでフルートを吹いている自分がいます。
自宅にはロー○ンドの電子ピアノはありますが、本物のピアノはありません。家内のチェンバロが一台ありますが、チェンバロはまた演奏法が違うのでほとんど触りません。小学校4年の時に我が家にやって来たアップライトピアノは横浜の実家の居間に、写真や書類を積み上げられた「置物」として鎮座ましましておられます。ちょっと勿体ない。

再来月開院するクリニックに開設するリハビリ室は、60帖(=30坪)の広さがあり、最も高い所で5m半以上の高さの天井を持ちます。リハビリ以外に、サロンコンサートや講演会もやりたいと思っています。そこでピアノが欲しいな、とずっと考えていました。念じれば通ず、なのでしょうか。知っている楽器屋さんのピアノ倉庫に、ヤ○ハのグランドピアノ G7(今のC7)の中古があるのを正月明けに知りました。弦やアクションを完全にオーバーホールして、筥体、響板などはそのまま、なんと今では得られない本象牙の鍵盤が使われているものです。まったく新しいアクションと弦なのに、どことなくオールドな響きがする味わい深いピアノだと直感しました。そして、ついにこれを買い求める事にしました。今、C7の新品は300万円するそうですが、いろいろな経緯を経た40年物のG7を結構破格なお値段で手に入れられることになりました。これも「縁」だと思っています。

おそらく、下手は下手なりに、でも今度は楽しんでピアノを弾くbalaine「おじさん」が、そこにはいることでしょう。。。(笑)

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2008.01.22

村治佳織ムーンライトコンサートin名月荘

1/22(火)は私にとってある記念の日です。
たまたま記念日と重なったのですが、昨日の記事に書いた様に表記コンサートに出かけてきました。上山市の葉山温泉にある「名月荘」の事は、このブログでも何度か触れたと思いますが、月に一回満月の日に合わせて「ムーンライトコンサート」という名月荘敷地内にある蔵を改造した会場でサロンコンサートを行っています。
過去に、高木綾子さんのフルートリサイタル、山形チェンバーミュージシャンズ(Vn.犬伏亜里、オーボエ竹谷智、チェンバロ梅津樹子)コンサート、早川りさ子さんのハープリサイタル「名月荘ムーンライトコンサート」6/7/07などを楽しみました。「ムーンライトコンサート」は大変魅力的な出演者を少ない観客で楽しめる、それこそサロン的な「独り占め」感があります。

122a122b先日、全国ニュースになってしまった、S交通のバス運転手がトンネルの中を走行中に気を失って乗客が何とかけが人もなくバスを停めた「月山第2トンネル」を通り、雪の「月山道」を越えて、庄内地方から村山地方に入ります。本当に雪の多いトンネルの続く辺りでは車を停める余裕がなくて、月山道最高点からかなり山形市側(西川町方面)に降りて来た所で写真を撮りました。きちんと除雪はされていて道の両脇の雪もそれほど凄くはありませんがこんな感じ。右の写真では小さくて見えるかどうか、外気温は「-2℃」と表示されています。

122山形市内のディーラーに車を持って行って、検査をしてもらう事も今回の一つの目的だったのですが、ちょうど新病棟建築中の大学病院の近くを久しぶりに通りました。大分完成に近づいているようで、外壁を覆っていたブルーシートや足場などは無くなっている様に見えました。大学に居た時には設置準備委員会に関与していた「術中MRI室」を含めて新しい高度先進的な手術室が完成し、病棟などのアメニティも改善する予定。大変なのは、病棟の引っ越し。確か1年以上掛けて、半分引っ越して空いた部分を改築して病院全体の増改築が終わる様になっていたと思います。

PhotoPhoto_2名月荘では、2階の大広間で昼食。今回は出演が村治佳織さんということもあって参加者がとても多く、50名以上いるようでした。山形らしさを出すよう工夫が凝らされた素材や料理法で(鱈の白子の茶碗蒸しなど)おいしいお料理を頂く部屋からは、一枚の絵を見るような大きな一枚ガラスを通して蔵王が見えます。曇っていたのですが食事が終わる頃には頂上近くまで雲が晴れて行きました。右の写真では、3つある蔵王のスキー用ロープウェイの駅の建物が見えます。知っている人にはわかる、「国体コース」や「樹氷原」「ざんげ坂」などと名前のついたゲレンデが見えます。「国体コース」のスタート地点は、写真の真ん中より左寄りの真っ白ではない頂の近くにあります。スタートすぐの坂は確か斜度38度あって、その場に立つとほとんど真下に滑り落ちるような感覚に襲われます。一度か二度挑戦しましたがきちんと滑り降りれた訳ではなく、転び転び降りた覚えがあります。

さて、食事を終え、午後2時から名月荘内の蔵でのコンサートの始まりです。
Photo_3(写真はコンサートを意識した家内の今回の帯。安物デジカメのフラッシュで光ってみにくくなってしまいました。コンサートの直後、「談話室」のピアノの前で)
天井の高い蔵には中二階のような部分もあるので、そこまで椅子を並べて5,60名のお客さんで満員。13:40開場という事だったので13:30過ぎに蔵に行ってみたらすでに20人程の方が開場を待って並んでいました。すぐに前2列は座席を確保されてしまったので3列目の真ん中あたりを確保。ギターを弾く村治さんとはおよそ4m程の距離。普通のコンサートでは考えられないような近さです。黒いハイネックの薄手のセーターのようなものの上に真っ赤なロングドレス。首には3重(?)のパールのネックレス。艶やかで品のある装いです。
プログラムは、まずはタレガの「アルハンブラの想い出」、続いてファリャの「粉屋の踊り」。クラシックギターの曲としては超有名な2曲を演奏されてMC。今回は昨日から現場に入って、温泉につかりゆったりした気分で当日を迎えたこと。こじんまりとした、温泉旅館の蔵の中でのコンサートは初めてで楽しみである事などをお話しになりました。3曲目はトロバの「ラ・マンチャの歌」という小品集。5曲の短い曲を続けて演奏。この3つはいわゆる「スペイン物」というべきもので、ギターの世界では定番です。なんとなくまだ「乗り切れていない」感をやや感じながら、でも次第に村治佳織の世界に引込まれました。4曲目は映画『禁じられた遊び』のあの有名な曲。5曲目は佐藤弘和編の「アメイジング・グレイス」とギターの世界を余り知らない人にも比較的ポピュラーな曲。平日の昼間に昼食と合わせてコンサートを聞きに来る、おそらく余りコアなギター音楽ファンはすくないであろうという事を考えたのかな、というプログラム。午後のひととき、村治さんの素敵なギターの調べに酔います(お酒は飲んでいませんよ、笑)。
6曲目はJSバッハ作曲「無伴奏パルティータ第2番ニ短調」からシャコンヌ。バイオリンの曲として有名な難曲と言える。数日前、家のHDDの中身を整理していて、2年程前にNHK教育だったか「故斎藤秀雄」の特集番組をやっていて、小沢征爾指揮で「サイトウ記念オーケストラ」がこのシャコンヌを演奏したシーンを見たのだが、それを思い出していた。音楽の全ての要素が詰まっていて一生学び続ける基本となるというようなことを故斎藤秀雄氏が話していた様に記憶している。村治さんもMCの中で、自分もギタリストとして音楽を愛し一生続けて行く上で、一生学び続けなければならないものとしてやはりバッハがある、今年は特にいろんなコンサートでバッハの曲を取り上げて勉強し挑戦して行きたい、と言うような事を言っていました。気合いの入った、素敵な演奏でした。
7曲目、プログラムの最後は武満徹編曲による「ギターのための12の歌」の中から「ロンドンデリーの歌」と「オーヴァー・ザ・レインボウ」。MCで説明していましたが、武満は自身はギターを弾かなかったがギターが大好きでたくさんのギター曲(特に編曲)を残しています。ビートルズナンバーや今回演奏した有名曲などは良く演奏されます。平成17年の庄内国際ギターフェスティバルの時も村治さんは武満のナンバーを演奏されたと記憶しています。温かく懐かしい感じで演奏は終わりました。
たくさんの拍手に対してアンコールです。
Photo曲は私の予想通り『タンゴ・アン・スカイ』。村治さんの持ち歌、「十八番」と言っても良い曲。某自動車会社のTV-CFでも彼女自身が登場してこの曲が流れていましたね。
ギターのリズム感、特にギターを指などで叩く打楽器的要素や細かいパッセージ、和音、アルペジオ、フラジオレットなど、短い曲の中にいろいろな要素の詰まった楽しい曲です。あっという間に約1時間のリサイタルは終わりました。CD即売会とサイン会がありましたのでちょっと参加。
写真の左側は「TRANSFORMATIONS」というCDに3年程前に頂いたサイン。右側が「10th Anniversary」というアルバムの中の小冊子(ちょっとだけ彼女の写真集の様になっている)の中のデビュー当時、確か14才の頃の彼女の写真に、「今」のサインを頂いた。漢字で書いていたのがローマ字になっていますね。デビュー当時から可愛らしく、大人になって美しさに磨きがかかり、演奏も外見も成長されている村治さんですが、今日の演奏も素敵で楽しかった。
サイン会では、「写真NG」「握手NG」とマネージャーのMさん(約3年前の山形テルサの演奏会の時にご挨拶して名刺を頂いていたムジカキアラの方)からもきつくお達しがあり、演奏中はもちろん終演後の彼女の写真は撮れませんでした。(;;)

Photo_2名月荘のお料理は美味しく(写真はデザートの「嶺岡豆腐」)、村治さんは美しく、演奏はエキサイティングで楽しく、お風呂は軟らかい湯質で温かく、幸せな時間を過ごして、また雪の月山道を酒田まで引き返しました。

そういえば、カウンターは18万をとうに越えています。
一日の平均アクセス数からすると、一昨日には越えていたはずです。脳外科領域の話や医学・医療の問題点を突くような話は避けているというか、余り触れない様にしています。ブログを長続きさせるためにもそのような意識(医学ネタを少し避ける)が必要な様に感じています。それでも、昔書いた「水頭症」の事や「脳卒中」のネタや「医療費」の事などにも「キーワード検索」から辿り着かれる新規の方もまだ多くいらっしゃるようです。少しでも役に立つような事があればいいのですが。。。
次の大きなカウンターヒットは、もちろん「20万」ですね。今のペースでアクセスを頂いていると2ヶ月半ほどで到達する可能性があります。3月末から4月初めという予測になりますね。
楽しみです。

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2008.01.21

「1月は、いぬ、、、」

昔から、一月は去ぬ(いぬ)、二月は逃げる、三月は去る(さる)と言います。
こないだお正月と思ったら、もう1月下旬です。
いつの間にか、「冬至」から1ヶ月近く経っていて、夕方5時でも暗くなりません。世の中は確実に春分に、春に、向かっていますね(ただ回っているだけですが)。

今日、私のクリニックの建設現場は「送電開始」の予定と聞いています。MRIなどを導入するため通常より高い電圧を確保する必要があり、電信柱を敷地内1本立てて、「キューピクル」を設置します。送電開始になれば電気を使う機器類の設置が可能となります。今週末にはオープンMRIが搬入され設置されます。冬期間(気温が低い)と安定した磁場が得られるまで数週間(長い場合は1ヶ月弱)かかるのだそうです。

スタッフの面接試験を終え、電子カルテ、PACSその他の導入準備を行っています。その他にいろいろ私が決定しなければならない事があります。多額の借金の備えとして高額な生命保険に新たに入るため、健康診断も受けました。他にもいろいろすることがあります。

こんな忙しい最中に、明日、県内某所に遊びに出かけます。
今まで高木綾子さん、早川りさ子さん、山形チェンバーミュージシャンズのサロンコンサートを聴いた「あの」蔵の会場に今度は村治佳織さんのサロンコンサートを聴きに出かけるのです。村治さんは、一度山形テルサでのコンサートを聴きましたし、平成17年に庄内町響ホールで福田進一さんを音楽監督に迎えて開催した第1回庄内国際ギターフェスティバルでもガラ・コンサートでその演奏を聴きました。そのブログ記事は「ファイナル・ガラ・コンサート」、そして彼女自身の演奏のことに触れたのはこちら→「日直の合間をぬって」

明日は、彼女のギター一本で観客数の少ない(限定30名程度)サロン的なコンサートなので、また違った印象を受ける事と思います。昨年から髪型を変えてイメチェンしている(?)村治さんの素敵な演奏姿も楽しみであります。(^^;;;

本日のおまけ
Photoちょっとピンボケになってしまいましたがそのまま載せます。
アマオケの仲間であるTさんが遊佐町で栽培しているパプリカを使ったスープ。本日の当家の夕ご飯です。
「パプリカ栽培の先駆者」農業共催新聞山形版のHPから。
ハンガリーはパプリカ栽培が進んでいるようです。酒フィルや合唱などの文化交流でハンガリーのソルノク市と遊佐町は10数年のお付合いがあり、その中で農業の新たな展開としてパプリカ栽培に挑戦して来た訳です。生で食べても香りと甘みと柔らかい苦みがとてもいい感じ。スープの中の赤いのは全てが人参ではなく、赤いパプリカでもあります。
酒フィルにいると、「タビの親父」さんの作った米や苺、フルート仲間のYSさんのメロンやお餅「ハーモニー農園」、そして上記ファゴットのTさんのパプリカなど美味しい食材(庄内弁では「んめもの」庄内うめもの直売マップ)が頂けるのです(もちろんタダではなくお金払って買っていますよ、、、時々(笑))。

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2008.01.20

新春街かどコンサート第1弾

本日も午前中に面接試験を行いました。
雪の中を集まって頂いた方にはご苦労様でした。

午後1時から、中町の『酒田市交流ひろば』で「街かどコンサート」がありました。
昨夏のJAOの時の「街かどコンサート」でピアノのGaborが公開レッスン(JAO酒田大会2日目)を行ったり、全国から集まったアマオケプレーヤーが演奏した場所(JAO酒田大会3日目、高円宮妃殿下がお出でになった)です。JAOのプレコンサートで私がフルートで出演(「ミニコン」、MozartのFl四重奏曲など)もしました。
3/16(日)のオペラ『ラ・ボエーム』の宣伝を兼ねた催しです。昨年のJAOの時の街角での演奏の評判が良く、「またやってほしい」「時々でいいから街角で気軽にクラシックが聴ければ、、、」と言う要望があったそうです。今日の「街かどコンサート」には、「どこぞで小耳に挟んだ」ということで衆議院議員の加藤紘一さん(鶴岡出身)も観客として見えていました。酒田市でちょうど何かの会合があったということで、酒田に来ている時にちょうどこの催しがある事を聞いたということでした。

実は、これから酒田フィルの年次総会と新年会で出かけるため、記事の続きと写真は帰って来てからやります。
せば!
ーーーー
ということで、帰って参りました。昼間の「街かどコンサート」の追加です。
120a120bまずは酒フィルが誇るヴィルトゥオーソの面々による弦楽四重奏。
オペラ「ラ・ボエーム」の有名なアリアから『私の名はミミ』と『わたしが街を歩けば』の2曲をアレンジして美しく演奏しました。ミミのアリアは、1幕目の最初、この劇の主人公となるミミとルドルフォが知り合って自己紹介をする最初のソロ。観客はこの歌でまずぐっと劇に引き寄せられる事でしょう。次は、2幕目にもう一人の女性登場人物であるムゼッタの有名なアリア。「私が街を歩けばみんなが振り向くのよ。。。でも、何故、貴方は振り向かないの?」という昔の恋人への当て付けであり未練たらたらの歌ですが、大変魅力的な旋律で私はこのアリアが一番好きです。

120c120b_2120a_2後半は、酒田中央高校音楽部の弦楽5部演奏。(管弦楽団の管・打楽器抜きです)
演奏曲目は、まず、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」。
次はモーツァルトのディヴェルティメント ニ長調からアンダンテ。
続いて、2007年のポピュラー音楽のヒットメドレーで、「おしりかじり虫」、「NAO」、「千の風になって」。指揮をしたM先生(酒フィルのCb奏者)が編曲して弦だけで楽しく演奏してくれました。特に、「おしり、、、」では、演奏しながらパートごとに「♪おしりかじりむし〜♪」「かじってなんぼの商売だ!」などと歌を歌っていました。面白かった。
最後に、J.シュトラウスJr.の「ピチカート・ポルカ」。全員が弓をおいて、指で弾くピチカートで演奏するものですが、なかなか合っていて美しかった!
相当練習したようで、昨年の夏の定期演奏会の時から比べると弦5部の各パートがなかなかよくまとまっていて、音程も安定していました。もちろんいろいろ問題点はあるでしょうが、高校に入ってから始めた人ばかりで、高1と2年生による構成ですから、短い人では9ヶ月たつかどうかのキャリアーな訳です。素晴らしいと思います。
きっとみんなかなりの緊張だったのでしょう。もっと楽しそうに(真剣な表情の中に少しは微笑みを)、元気に弾いたらもっと良かったでしょう。「おしりかじり虫」での歌はさらに恥ずかしそうに小さな消え入りそうな歌声でしたので、誰かリードする人がいてもっと元気に歌った方がより楽しい演奏になったと思います。でも、とても楽しい、いい演奏でした!Bravo!です。
加藤紘一代議士も興味深く最後まで聴いておられました。上記写真の中で、加藤さんはどこにいるでしょう?(笑)

次の「街かどコンサート」は、2/10に弦楽カルテット、2/24に弦楽カルテット/チェロ独奏/中央高校音楽部PartIIの3本立てです。お楽しみに!

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2008.01.19

医療事務などの面接

いきなり現実的で生臭いタイトルですみません。
3月の開院を目指して、この週末を使い医療事務、看護師、技師の採用試験を行っています。
本日は朝から夕方まで、合計14名の筆記および面接試験を行いました。

Photo写真は、酒田市飯森山にある「南洲神社」の隣、「荘内南洲会」で買い求めた『敬天愛人』の書。額に入れて玄関に飾りました。
宗教的な要素や経営者の才覚という面で組織の利益とか儲けという観点を「0」にしては読めませんが、稲盛和夫著の「人生の王道」や荘内南洲会発行の「南洲翁遺訓を学ぶ」などから、組織で共に仕事をする人を選ぶ場合の考え方や大きい小さいに関わらず一組織のリーダーとして職員を雇用するに当たって心がける事などを学んでいます。
面接試験の結果を判定する上で、知識、経験、能力、人柄を総合的に判断しなければなりません。ただ人当たりが良さそうとか、明るくハキハキして丁寧であるだけでも駄目ですし、電子カルテやレセコンの操作経験があり医療機関に勤めた実績があるだけでも駄目です。更に、複数の職員を採用する場合はそれぞれの特性がうまくかみ合う事も大切に考えなければなりません。
「いい」と思って選んだ人が実際に一緒に働いてみると難しい人であったり、いい人なのだけど様々な事情ですぐに辞めてしまうこともあり得ます。私や他の職員と相性が合わない場合もあり得ます。出来上がりを楽しみにしているリハビリ室兼音楽・講演室となる部屋もそうなんですが、いろいろ考えて工夫を凝らしていても、結局は出来てみないとわかりません。響きはいいのだけどピアノには向かないとか、弦楽器には向かないとかそういう事もあり得ます。

私としては、あまり余計な事は考えず、直感を信じ、「敬天愛人」の教えに倣って正しいと思う事を正しく行って私利、利己をなるべく心から排除して考えて実行するだけです。
一緒に働くのが楽しみ、と思えるような方を選びたいと思っています。

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2008.01.18

南洲神社と人生の王道

元日のブログ記事に、酒田市飯森山にある「南洲神社」と「荘内南洲会」のことを書きました。
その後、慌ただしい中、数冊の本を拾い読みしました。「荘内南洲会」で無償配布している「南洲翁遺訓」の小冊子は、ざっと目を通し、秋田にいる義父にプレゼントしました。荘内南洲会の人々の無私の心には及びませんが、私なりにいろいろな人に西郷隆盛の徳を広めたいと思っています。

『南洲翁遺訓』の内容を簡潔にまとめるならば、やはり西郷が晩年好んで書いた書である「敬天愛人」に行き着くと思います。
Photo頼まれてたくさん書いたらしく、いろんな書体、いろんな大きさの「敬天愛人」があります。写真は、南洲神社社殿前の小屋(冬の風雪をしのぎ、お賽銭をあげたり蜜柑などのお供え物を置くため)にかかっていたものです。
Photo_2こちらは南洲神社の境内にある石碑です(元日の記事にも掲載しました)。
この書体と同じ小さな色紙に印刷された「敬天愛人」の書を荘内南洲会の事務所で購入して額に入れて拙宅の玄関に飾りました。

「コミュニティ新聞社」社長の大谷良雄氏による「荘内藩を救った西郷隆盛」や荘内南洲会の小野寺時雄氏による「南洲翁遺訓に学ぶ」は、庄内の歴史を知る上でも勉強になり、結構さらさらと読み終わりました(中身を完全に理解した訳ではなく、これから折りに触れ開いて学んで行きたいと思います)。
鹿児島出身で西郷ドンを尊敬している京セラの現名誉会長である稲盛和夫氏による「人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ」も非常に良い本です。読みやすいのですが、一々深く考えさせられる事があるため、通してサラサラッと読めず、時間をかけながら拾い読みをしています。
Photo_3この写真は、上記の南洲神社の小屋に掲げてあるものです。
ここに書かれている伴兼之と榊原政治の2名が「西南戦争」で戦死した旧庄内藩藩士の若者です。ここに書かれてある文書を読むだけで、特にこの2名の墓が西郷ドンのお墓のすぐ前に置かれているという下りを読むだけで込み上げて来るものがあります。特に、私の母親が日向高鍋藩に関係する祖先を持ち、父親が榊原青年の亡くなった薩軍病院のあった延岡の出身なので強く訴えるものがあります。

上記、稲盛氏の本の最初に「プロローグ 上質な日本人、上質な日本であるために」の部分を読んでいると「庄内藩の有志によりまとめられた『南洲翁遺訓』」と紹介され、西南戦争で戦死した庄内藩士の事も書かれていて、胸が熱くなります。
拝金主義で「金を儲けた奴が偉い」と言わんばかりのIT関連や株関連の業界人や、偽装だらけの食品をはじめとする製造業界、そして政治とは、国会とは一体誰のためにやっているんだと言いたくなるような議員、政府、内閣はじめとする立法・行政関係者、これらの人達に「南洲翁遺訓」「南洲翁遺訓に学ぶ」「人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ」の3冊、せめて稲盛さんの「人生の王道」だけでも精読して頂きたい。既に読んだ事があるならば、今一度、枕元にでも置いて、寝る前に1章ずつでも読んで頂きたいと思います。

ただ「教え」というものは、つい「宗教」化してしまいがちな点が少し気になります。南洲翁の教えは儒教思想とは違うけれど、儒学、朱子学に基づく西郷自身の勉強の成果が関与している事は間違いないと思います。正しい事を考え、正しい事を教えていました。それが何故「西南戦争」という「人の殺し合い」になったのか。それは歴史上の数々の宗教に関わる戦争、イデオロギーの違いによる戦争などと同じ事なのだと思います。庄内藩士が何故西南戦争で死ななければならなかったのか。彼らは死ぬ事を厭わなかったかもしれないが、死ぬ事が、戦争に参加する事が、本当に正義であったのか、正しかったのか。西郷ドンは、庄内藩士2名に対し、貴方たち庄内藩には関係がないから帰りなさいと言ったと伝え聞いています。しかし、彼らは西郷を尊敬し慕い、共に学ぶ仲間を裏切る事は出来ず、庄内藩の期待に背く事など出来ず、武士として「蜂起した反乱軍」に従う事を決めたのでしょう。そこには青年の純粋な心だけがあったのでしょうが、「教育」というものが宗教化するような恐さも感じるのです。
しかし、こうは書いていても、私は決して西郷ドンに殉じた庄内藩士2名を否定するものではありませんし、西南戦争そのものを否定するつもりもありません。ただ、物事の解決手段として、武力、戦争で行う事はやはり正しい事ではないと考えたいのです。西郷がもしも戊辰戦争や西南戦争という戦いの中心におらず、ただその考え、教えだけがあったのなら、J.F.ケネディが歴史上の日本人で最も尊敬する人は上杉鷹山(宮崎の高鍋藩出身の米沢藩主)ではなく西郷隆盛であったかもしれないと思うのです。

稲盛氏の「人生の王道」の中で、特に今心に残っている一節を紹介します。
「そう思い始めたとき、会社の応接間に掛けてあった「敬天愛人」の書が静かに私を見下ろしていました。「人を愛するということが一番大切な事なんだよ」、西郷がそう語りかけてくるようでした。悩みに悩んだ結果、ようやく吹っ切れて、腹が決まりました。」
(第4章「大義」の98ページより)

(この記事は、1/17の日中、わずかの時間公開しましたが、書き直して1/18の公開となりました)

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2008.01.17

山のメロディ・海のメロディ

前から撮ろう撮ろうと思っていてなかなか撮影チャンスがなかった写真です。
PhotoPhoto_2酒田市内を流れる新井田川(にいだがわ)にかかる橋の歩道のところにある素敵な像2つ。
笛を吹く男の子の像には「山のメロディ」というタイトル、向い側に向かい合って建つ竪琴を弾く女の子の像には「海のメロディ」というタイトルがついています。逆光になってしまった竪琴を弾く女の子の像の後ろに見える川は海に注いで行く方向で、数百m行くと有名な山居倉庫前に出ます。昔は、この川を使って田んぼで穫れた米を山居倉庫まで運んで来たのでしょう。
Photo_3女の子の像は横からアップで見るとこんな感じです。
この橋は、酒田市役所や本間家旧本邸のある通りをまっすぐ東に進んですぐの新井田川にかかっています。昭和51年の酒田大火の時は、あまりに強い海からの西風にこの幅30m程度の新井田川の西側まではすっかり消失してしまい、消防隊は燃え盛る市中心部の消火活動を断念して新井田川より東に火の手が及ばない様に、消防車の放水を川の東岸に垂直に立てて「水のカーテン」を作り、川より東側の消失を防いだと言われる所です。

Photo_4Photo_5男の子の像のアップ。右から見た向こう側には「酒田のラーメン」では有名な「満月」の駐車場の看板がチラッと見えています。左から見た向こう側は、本間家旧本邸方向です。

Photo_6Photo_7Photo_8私は笛吹きですので、こういう笛を吹く像を見るとつい笛と唇の位置関係などに着目してしまいます。専門用語で「アムブシュア」というものです。
唇で作った孔の形は「アパチュア」と言うのですが、下あご、唇、顔の筋肉、口腔内の形、舌の位置などで形づくった息の通り道、フルートの歌口と呼ばれているプレートとそこに空いている孔とこの息の通り道の全体的な関係を「アムブシュア」と呼ぶものと理解しています。
さあ、どうでしょう、この男の子の構えとアムブシュア。笛が唇の上にのっておらず、きちんと下唇と下あごの間の凹み(頤のすぐ上)にのっている様に見えます。
なかなかいいんじゃないかな?と思っていますが。。。
でもフルートというよりは「龍笛」ですねぇ、これ。
鳩、重いし、、、(笑)

おまけ(1/18追加)
Photoけんちゃんさんのコメントで思い出しました。4年ちょっと前に当時の形態(Mova)のカメラで撮影した「笛吹き童子」です。

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2008.01.16

小寒から大寒へ

雪が降りました。
昨日の記事で1/13の地吹雪のことを書いたばかりでしたが、昨晩から今朝にかけて積もりました。
116_2拙宅の庭に積もった今朝の雪。ベンチの上にもこんもりです。
都会の人や雪の降らない地方の方は、「わぁ〜、きれい!」と喜ぶ雪ですが、生活するには邪魔なものです。年末にブーツ(くるぶしまで納まるもの)を買っていて良かったのですが、ズボンの裾に雪がはいります。出かける前に車から雪を降ろさなければなりません。
116c家内の車に積もった雪。まるで「自動車の塩竈」みたいです。
この雪をどけなければ、発進できません。また除雪車が入る道では、除雪された雪の塊が家の出口を塞いだりするのでそれをどかさなければ出られません。こういう作業の事を「雪除け(ゆきのけ)」と呼びますが、「のける」というのは西日本の言葉ではないでしょうか?
「そこのいて」とか「のかして」と子供の頃言っていたような記憶があります。「どいて」「どかして」が標準語か東日本の言葉ではないでしょうか(間違っていたら後で修正します)。
庄内は関西の言葉が結構入っているので、「ゆきのけ」と言うのかな?

116b私の車から雪を「のかし」ている途中がこれ。およそ40cmは積もっていました。今もまだはらはらと降っています。庄内地方にしてはむしろ珍しい雪の振り方。内陸の積雪は凄いのでは?

二十四節気で言う小寒から大寒に向かう季節なのですから当然なのですが、大雪には閉口します。
2年前、ハンガリー演奏旅行に行った冬はもの凄い雪でしたから、あれに比べれば大した事はありませんが昨年よりはちょっと多い。医院の建設現場が少し心配です。

(体重経過報告)(笑)
酒フィルの仲間から、「あんな贅沢ばかりしていては体重減らねぇろ」と言われました。でも1週間のうち、1回か2回外食するだけで、それもラーメンとかカレーなんですが。。。
あとは春雨や蒟蒻ヌードルなどを食して運動しています。今年に入って最大だった体重(秘密!)から昨夜の段階で、3.6kg減量しています。Yシャツの首周りにゆとりを感じます。ズボンの腹回りも少しすっきりした印象。もうちょっと頑張りたいです!

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2008.01.15

地吹雪

1/13は今年初とも言える本格的な地吹雪でした。
朝、ホテルに指揮者の中橋さんを迎えに行ったとき、玄関前で車のドアを開けたら、突風でグァ〜ンと持って行かれて、あやうく風でドアがもげてしまうかと思いました。(汗)

Photoまさか地吹雪の最中に運転しながら写真を撮る余裕はありませんので、Webから拾って来た写真です。
1/14のY新聞朝刊一面にも「酒田で今年初の地吹雪」という見出しで写真が載っていました。
この写真でもわかるでしょうか?手前の車がなんとか見える状態で、向こうの車はライトを点けているからわかりますが、これは日中の写真です。もっと酷い時は「ホワイトアウト」のようになって10m先がやっと見えるかどうかになり、その際は車を停めるしかありません。
今は風雪を防ぐ防御柵がありますのでほとんど見かける事はなくなりましたが、昔は酷い地吹雪の次の日には道路から外れて道路脇の田圃や溝に落ちている車を何台か見かけたものです。

今日のおまけ
Photo_2先週は木曜、金曜と連日スポーツジムに行き汗を流しました。2日で約1kg体重を落とせましたが週末はオケの練習で忙しく運動はできませんでした。
外食するにしても少しでもカロリーを少なめに抑えようと考えています。
金曜の昼は、「う○ん市」のひっぱり(釜揚げうどん)でした。

Photo_3土曜のお昼は、以前にも紹介した有機野菜のみを用いた料理で女性に大人気の『シェディオーク』に行き、カレーを食べました。ちょっと見ただけでは分かりにくでしょうが具はすべて有機野菜でお肉は入っていません。これにスモールポーションのキノコのパスタと飲み物とドルチェ(ソルベやプリンが選べる)が付きます。
この1週間でもう1~2kgは落としたいです。頑張ろ!

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2008.01.14

集中練習終わりました!

3日間といっても、1/12は19〜21時、1/13は10〜16時、今日は10〜13時。昼食時間や休憩を除いた実質の練習時間は8時間半くらいでしょうか?決して「十分」という練習時間ではありませんね。
通常の交響曲は1曲が30~45分位、マーラーの9番のように1曲で1時間20分を超えるような長大なものもありますが、およそ40分弱というのが相場。
今回練習しているプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」は、1幕から4幕まで休みを入れずに通して弾いても2時間弱かかります。本番では幕間の舞台転換、2と3、3と4幕間の休憩時間、それに有名なアリア(「冷たい手を」や「私の名はミミ」など)が終わる度にソリストに送られる拍手、幕間のカーテンコール、終演後のカーテンコールなどを加えると、一公演がおそらく3時間を越すことになるのではないでしょうか。

PhotoPhoto_2本番で使用する希望ホールは、昨日「成人式」に使われており、オペラの練習には使えませんでした。そこで酒田市中心部から車で20分かからない距離にある庄内町の「響ホール」を使いました。ここにはオケピット用の奈落はないので、前から4列の座席を外して移動(外せる様になっている)して、即席のオケピットを作りました。もちろん本番の希望ホールでは油圧式に床が上下する様になっており、もっと深く潜ります。座席も5列分がピットになり、奥行きも幅ももっと大きくとれます。

Photo_3Photo_11本番はハープですが、練習では代わりにグランドピアノ。といっても響ホールが誇るニューヨークシュタインウェイのフルコンです。ピアノと打楽器の一部(シロフォンとグロッケンシュピール)はステージ上に置いて練習です。

Photo_5Photo_6午前中、合唱の人達は小ホールで別練習。演出家による芝居も付きます。
そして午後、ステージに上がり、男性女性の成人合唱とこども達の合唱、それに地元の吹奏楽団員、高校の吹奏楽部、マーチング、演劇部などが加わって2幕目に登場するカルチェラタンの街の人達、ピエロ、おもちゃ売り、子供達、軍楽隊、3幕目のパリに牛乳などを売りに来るおばさん達、門兵(パリの街に入る関所?の警官?)、キャバレーの店員(?)などを演じます。
まずは、オケの演奏と歌の立ち稽古を行い、その後、演技を付けて(子供達は走り回り、軍楽隊は行進し、人々はわいわい騒ぎ、軍楽隊を追いかけて行き、、、などなど)の練習です。

今までピアノ伴奏だけで歌を歌っていた合唱の人は戸惑っていました。オケの我々も子供歌声などはあまり聴こえず、軍楽隊の太鼓が指揮とずれたり、といろいろ戸惑いましたが、2時間ほどの練習である程度の形になったというか、「およそこういうものだ」と言う事を全員が確認した感じでした。

Photo_8Photo_7オケの指揮は中橋健太郎佐衛門さん、演出は大島尚志さんで、演出助手もついての練習。それをTCC(トヨタ・コミュニティ・コンサート)音楽監督の三枝成彰さんが見守ります。
三枝さんは昨年秋の紫綬褒章の叙勲を受けています。お若く見えますが65才!

Photo_9Photo_10総合練習が終わった後、三枝さんからオケ、合唱のメンバーに講話がありました。(合唱練習の終わった子供たち、その父兄も座席でお話を聞いています)
プッチーニのオペラがいかに素晴らしいか、ボエームがいかに素晴らしいか、このオペラがどういう時代背景、どういう環境のどういう人間が出て来てどういうストーリーになっているのかを解説されました。
練習終了後はずした座席を戻したりステージを片付けたりしたのですが、別室では合唱団を中心に三枝さんにより「ラ・ボエーム」のDVDを流しながらの解説までありました。

夜は、三枝さん、大島さん、中橋さん、大島さんの助手の手塚さん、TCCやトヨタの関係者の方々をお迎えして懇親会が、酒フィルと合唱のコーロ・プリモの合同で開催され楽しい時間を過ごしました。

パート譜も数十ページに渡る分厚いもので、ヴァイオリンなどは1,2幕分、3,4幕分と2分冊にする程の分量の楽譜。前にも書いた様に、4小節と同じ調やリズムがない目まぐるしい変化、フラットが6つ付いたかと思えばシャープが3つ付いたり、3/4拍子でも指揮者のタクトは1回振りだったり3回振りだったり、2/4拍子でも4つ振りだったり、2つ振りだったり、場面場面、アリアのあるなし、などで猫の目の様に変化するため、休みのところでも気が抜けません。心が曲から離れてしまうと容易に「落ちて」しまいます。
しかし、ようやく、プッチーニの面白さ、ボエームのオケとしての楽しさがわかってきました。
本番まであと2ヶ月。あっという間でしょう。
これからも毎週の様に土日練習が続きます。

P.S.
不況は文化活動にも影響を及ぼすものです。
今は比較的安定した活動をしている山響も文化庁からの助成金が0になったことがあります。
我々アマオケは、アマチュア(他に仕事を持つ者、主婦、学生など)が構成メンバーであり利潤を追求するものではないのですが、運営や実施にはお金がかかるので資金が必要です。通常の運営は団員自らの「団費」で賄われます。しかし、練習場確保、本番の会場確保、エキストラ出演料(旅費込み)、その他などは団費だけでは賄えず、地方自治体などの文化活動支援を受けたり、地元企業の支援を受けたりする訳です。今回、酒田で、プロオケでもなかなかできないこのように大きな公演が可能なのは、TCC(トヨタコミュニティコンサート)という企業による社会貢献活動によるものです。「企業メセナ」というものです。下世話な話ですが、今回のオペラ公演には8桁の金額がかかるのだそうです。
通常、S席数万円(安いもので2万円くらい、高いと7,8万円)のオペラが3500円で楽しんで頂けるのはそういう理由がある訳です。(私の車はT社製ではありません、T社さんごめんなさい!)
トヨタのHPにおける3/16の酒田でのオペラの情報はこちら↓です。
「トヨタコミュニティコンサート」in 酒田。

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2008.01.13

オペラ集中練習

23/16(日)酒田市民会館『希望ホール』での公演のための集中練習を、1/12,13,14の連休返上で行っています。
1/13(日)は、TCCの音楽監督でもある三枝成彰さんをお迎えして、一部マスコミ公開の舞台稽古も行いました。演出の大島尚志さん、その助手、TCC関係者を迎え、庄内町の響ホールを使って、オケのエキストラと合唱団、子供合唱団、バンダ(軍楽隊)が揃って2幕、3幕の練習をしました。
今日は歓迎会などもあって忙しかったので、写真入りの詳しい記事は明日書きます。
せばの!

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2008.01.12

1月中旬に向かう

昨日1/11は「鏡開き」でした。
もうお正月気分も消え去り普通に仕事していますが、この週末が開けると1月も半分終わりです。
本日1/12(土)から3日間、世の中は連休のようですが、酒フィルは3月のオペラに向けて毎日練習。特に、本番の指揮者中橋健太郎佐衛門氏に本番の演出家大島尚志氏、そして音楽監督の三枝成彰氏を迎えて、本番を想定した練習があります。
1/13(日)には、庄内町響ホール大ホールにオケピットを作り、合唱団、子供合唱団、軍楽隊(バンダ)が舞台に上がっての練習もあります。この模様は午後2~4時の間、マスコミ向けに公開練習となります。

1/14も一日練習です。
成人式を迎える団員はいない(はず?)なので関係ありません。週が開けるともう1月も半分終わり。
3/3開業予定のクリニックの方は建築もかなり進み、このあといろいろ内部、導入する機器、物品の決定、搬入になります。そうしているうちに建物の引き渡し、諸手続きなどなどどんどん進んで行くんでしょうね(他人事のようですが)。
のんびりしている暇はないようです。
プッチーニは歌手なしで練習していていも楽しいですし、セカンドフルートでもかなりやりがいがあるのですが、ファーストやピッコロは大変目立つソロもあり精神的にも大変そう。自分はセカンド専念で、ファーストとピッコロはMSさんとYSさんにお願いしておいて良かった。

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2008.01.11

「あいおい工藤美術館」初訪問!

酒田市の相生町にある「あいおい工藤美術館」に行ってきました。
酒田市内で質屋を営んでいたある古い町家が閉店後、取り壊すことになりそうだったのを、現館長の工藤幸司さんが買い取って自分の所蔵品などを展示する美術館として再利用しているのです。

Photo1312この建物は昭和2年建造とのこと。
昭和39年の新潟地震にも昭和51年の酒田大火にも耐えて生き延びて来た貴重な建物です。
あの酒田大火の時、激しい西風にあおられて東へ東へ「侵略する事火の如し」の通り拡がっていった火の手を、近くにあるお寺の境内にある大きな松の木の御陰で守られて運良く偶然残ったものだそうです。
館長の工藤さんが玄関にもいろいろな工夫をされています。

Photo_2玄関を開けるとすぐ左側に鵜土河原人形達が出迎えてくれます。この美術館の中を期待させてくれます。
土間の様になっているところから小上がりが正面にあります。
元は質屋だったこの町家の作りをそのまま活かしています。

23障子を開けて部屋に上がります。後から気がついたのですが、昭和2年当時の障子やガラスがまだ部分的に使われているそうです。
このガラスなど今の時代では手に入らないものだそうです。
館長は画家でもあるのですが、この魚の絵は「鯉」だそうです。表と裏に「鯉」が2匹で「こい、こい」ということ(笑)。

4この方が館長工藤さんです。
養護学校の校長先生などをなさっていました。今も美術、音楽関係の仕事をなさりながら、金、土、日だけこの美術館を開けていますがほとんどボランティアのようなものです。
65中はこんな感じ。
季節によって展示物も多少入れ替えるそうですが、古い着物、漆器、家具などが展示されています。
刺し子の絵は工藤館長作。元々は絵の材料になるものを工藤さんがこつこつ集めていたのが美術館の収蔵品となり、美術館をオープンしたために、「こんなのあるよ」「家にこんなの出て来た」と言う感じで自然に集まって来たものもあるのだそうです。
そのため館長の工藤さんもその価値がわからない程凄いものもあったりして、訪問して来た人が見て「これは凄い!」と言うことになり、あらためてガラスケースに収蔵したりということもあるそうです。館長の奥さんがとても丁寧に詳しく説明して下さいます。

11これは飛島に保存されていた江戸時代の刺し子の着物とのこと。その模様の一部を拡大してみると、写真の様にクロス=十字架がデザインされています。そう、「隠れキリシタン」が着ていた着物だそうです。十字架の部分がちょうど帯を締める位置に当たっていて、帯で隠され絞られて十字架が見えない様になっていたのだそうです。

10これは母屋と繋がる様に横に建っている蔵(土蔵)のドアの一部。
枠には、「鯉の滝登り」の絵が彫金されています。鍵も複雑というか隠し戸のようになっていたり、いろいろな工夫がされています。
鶴、亀、松竹梅とお目出度いものが掘られています。「白畑」というのはこの町屋の前の持ち主である質屋さんのお名前。

9内側の扉にもこのような鍵が二重にあります。ここには鯉を抱えた大黒様などが彫られています。
この様に縁起を担いだ凝った造りのドアです。昔の蔵というのは凄いですね。

8実は、この蔵、母屋とはやはり別の建物です。ところが母屋から繋がっている様に見えます。それはこのように2つの建物が繋がる様に町屋の屋根と蔵の屋根の間にとても大きなトタンの雨樋が据え付けてあるからです。もし火事になったら消防隊にはまっさきにこの雨樋を外してもらうのだそうです。
7土蔵との間にとても急な角度の階段があり二階があります。そこには古着がたくさん保存されています。
町家の1階は非常に高い天井なのですが、その一部分が二階になっているようです。
別の部屋の二階部分には館長の絵の一部が展示されています。

2月の中旬からは、酒田周辺の「雛人形祭り」に合わせて、享保雛など貴重なお人形が展示されるそうです。工藤館長は寒河江のご出身ですが、長く酒田に暮らし庄内で仕事をして来られました。
そして、館長の息子さんは工藤俊幸さん。
実は40才ちょっとの指揮者で、現在は山形交響楽団の正指揮者をされています。平成16,17,18年の3年間の酒田フィル定期の指導指揮は工藤さんでした。この間の定期では、「ベト7」「ブラ4」「ドボ8」と名曲ぞろいのメインに、Vn.漆原啓子さんソロのラロのスペイン交響曲、ギター福田進一さんソロのアランフェス協奏曲、オンジェもとい読響武井さんソロのモーツァルトのファゴット協奏曲となかなかいい曲、演奏をやってきました。
やはり芸術家の子も芸術家なのでした。。。

古着、人形、古美術、骨董などに興味なる方、古い日本家屋の建築などに興味のある方にはとてもおすすめの場所です。相生町は酒田駅から近く、すぐ側には東急インが見えます。
相生町の酒田信用金庫の奥隣りなので結構分かりやすと思います。駐車場はちょっと離れていますが裏通りに確保されています。是非、お勧めです!

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2008.01.10

最近の食事と体重について

新年を迎えて、体調、特に体重を調整しようと考えています。しかし美味しいものの誘惑にはなかなか勝てません。。。(^^;;;
Photo二度目の挑戦。『酒田のラーメン』の銘店がたくさんある酒田地区に進出している豚骨系の「よこはま軒」。
今回はこちらねぎ味噌と、、、
Photo_2こちら高菜ラーメン。
高菜がたっぷり入った豚骨スープは博多系よりは熊本系か。博多長浜ラーメンでは「辛し高菜」が入るが、これはしょっぱい高菜である。紅生姜を自分でトッピング。結構、こってりとなりました。
行ったのは1/2でしたが、お正月にお節とお餅に飽きた人が集まったのか、午後2時半過ぎでも入り口で椅子にしばらく座って待たなければなりませんでした。

Photo_3こちらは、1/5の同級生教授就任祝賀会出席後に宿泊した、山形駅西のRホテルでの朝食。ビュッフェスタイルで採り放題、お替りし放題なのですが、前の日に飲み食いしましたので控えめにしておかずはこれだけにして抑えました。v(^^)


1/6(日)のオペラ練習は、いつも通り10時から16時まで。オペラ本番まであと2ヶ月ちょっととなって、追い込みの練習です。
特に1/12,13,14は今回の公演の後援者であるTCCの音楽監督を務める三枝成彰さんも来られて、合唱、バンダ(2幕目にステージに現れる軍楽隊)、エキストラ全員参加の総練習を庄内町響ホール(本番は酒田の希望ホール)でやります。オケピットも作って、1/13(日)の午後にはマスコミ用に「公開練習」まで行います。そのため、かなり突っ込んだ練習をしました。
Photo_4お昼休みは1時間ちょっとでしたが、庄内町(旧余目)島田地区にある「しま田」の蕎麦を食べに行きました。ファゴットのT氏とフルートのYS氏は二八蕎麦と麦きりの合盛り、団内指揮者の「タビの親父」ことY氏と私は「十割蕎麦」。全員かき揚げ天150円を追加。
喉越しは二八蕎麦に軍配が上がりますが、十割蕎麦はちょっと「雑味」のある、いかにも蕎麦といった風味で滋養豊富という感じがしました。

とまあ、相変わらず外食はしている訳ですが、そんなに御馳走や大食いをしている訳ではありません。個人事業主となる準備としても体調、体重を整える必要があります。
週一のジム通いでは足らないと考え、今日木曜日の夜、仕事帰りにスポーツジムに行ってみました。すると夕方6時前にもう超満員。ウォーキング、ジョギング、バイクすべてのマシーンは埋まっています。ステップマシーンやノルディックスキーのようなマシーンが少し空いている位。ストレッチをしている間にようやくバイクが一台空いたのでそこで35分程漕ぎました。
日中来ている時と違って平日の夕方に来る人は、よりストイックな感じの人、鍛え抜いている人が多いような印象で、フロアではかなり高度なエアロビも始まっています。なんだか雰囲気に少し圧倒されながら小一時間のトレーニングを終えてサウナに入り一風呂浴びて帰ってきました。鍛え抜かれた身体を持つ人達を見て少々刺激を受けつつ、減らない体重を反省し、食事量を減らす事にしました。
毎日、とまではいかなくても週3、4日は夕方に通う様にしたいですが、さあ、これから開院までの多忙の中、どこまでできるか、頑張ってみましょう。

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2008.01.09

新年早々の山響

昨日1/8(火)の夕方、YBC(山形放送)のニュース『リアルタイム』の中で、今年の山新3P賞の受賞者のうち、Peace平和賞の紹介があった。一昨日の記事に書いた通り、山響音楽監督の飯森範親氏である。
ニュース番組の中で取り上げる話としては異例とも言える4,5分の長い放映だった。その中で「山形交響楽団ファン倶楽部」(山響FC)も紹介されたが、なんと私と家内がFCの一員として山形テルサでの観客の映像として映ったり飯森さんを囲んでの懇親会の写真に写っていたのである。録画したヴィデオをみて「え〜!」「エ==?!」という感じだった。

そして本日1/9(水)、ある知人の尽力によって鶴岡での新春コンサートのチケット(指定席)が手に入った。Aさん、ありがとうございました!
平日の夜なのだが5:45開場、6:30開演という時間は厳しかった。このコンサートは、S銀行の招待公演であり演目、ソリストともに人気で超満員。そのため、まず車の駐車に苦労した。私が会場に着いたのは開演10分前。車を別のところに置きに行って会場に着いたのが2分前だった。
指揮は黒岩重臣氏。演奏は山響で、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲のソリストは漆原啓子さん。
会場は、鶴岡市文化会館。山響の「庄内定期」の会場の一つである。H16年に新しくなった酒田市民会館「希望ホール」に比較すると音響の面では今ひとつである。今日の演奏も素晴らしかったけれど、「響き」という意味では良くないため反対の意味で聴いていておもしろかった。
オケやバイオリンソロの音が、「そのまま」聴こえて来る。残響がほとんどないだけで奥まで届かない訳ではない。弦5部の響きよりも後ろに座る管の音が「まっすぐ」聴こえて来る。響かないので欲求不満気味にはなるけれど、演奏者の演奏力がそのままごまかしもなく伝わって来る。残響でやわらかくまろやかにならないので、いつもより響かせる様に弾いたり長く伸ばし気味にしたりするそうである。
本日のプログラムは
1)ヴェルディ 歌劇「椿姫」第1幕の序曲
2)チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
3)ベートーベン 交響曲第7番イ長調作品92

漆原さんのヴァイオリンは、堂々としていて余裕があって熱く繊細で格好良かった〜!
チャイコはオケも難しそうです。酒フィルでチャイコのVn協奏曲、いつかやりたいですね。

ベト7は、のだめのおかげもあって今や日本で最も有名な交響曲かも知れません。いい曲です。いい演奏です。フルート首席足達先生の笛が輝きます。4楽章は、「リズムの権化」と呼ばれた通り、もうノリノリの演奏。
先日、酒フィルが定期で演奏したチャイコの「悲愴」や、一昨年の「ブラ4」、本日の「ベト7」など名演の多い曲であるが、よく考えてみると(いや、よく考えなくても)曲がいいのである。名曲は名曲ということである。

新年早々名曲の名演を聴く事ができて幸せ。
漆原さん、39度にもなる高熱をおしての素晴らしい演奏ありがとうございました(酒フィル仲間と終演後楽屋に押し掛けて体調不良だった事をお聞きしました)。黒岩さん、山響の皆さん、ありがとうございました!主催のS銀行さん、もっけでした〜。


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2008.01.08

ブログ3年間の軌跡

という程大げさなものではありませんが、ちょっと振り返ってみました。
2005年1月6日に始めて丸3年(365x3=1095日)で、記事数は「574」編になります。
およそ2日に1つは記事を書いて来たことになります。
戴いたコメントは1877。しかし、実際にはスパムコメントなどもあってかなり削除した結果がこれです。
トラックバック数は101。TBは自動で送りつけて来る変なものがたくさんありますので、現在はチェックの上、OKと認めたものだけ公開しています。そのため、戴いたTBの公開が数日遅れてしまうこともあります。おそらくTBされたものの大半は「削除」しているのが現状です。

アクセスカウンター上は本日までに17万4000件を越えるアクセスを戴いています。
この「アクセス」というのは結構いい加減なもので、自分自らアクセスしてもカウントされますし、同じ人が違うページを見ただけで「数」として加算されます。
ココログで提供している「アクセス解析」のページを見ると現在の「累計アクセス数」は175525となっており、「カウンター」よりも1000以上多くなっています。ページについているカウンターはココログで管理しているものではないので、この「誤差」はカウンターのアプリケーション側にあるのでしょう。
Photo写真は昨年末の1週間のアクセス解析をグラフにしたもの(ココログのサービスです)。
1日あたり平均の「訪問者数」は158、「アクセス数」は359となっています。私のような勝手気ままなブログにしては驚くべき数だと思います。アクセスして下さっている方々にはこの場を借りてお礼申し上げます。

Photo_2こちらは、平成20年最初の1週間の同様の解析結果のグラフ。
1日平均の「訪問者数」は192、「アクセス数」は386となっています。
興味深いのは、12/30あたりからアクセスが減少し、正月三が日はいずれも300以下のアクセス数と少ないのに対し、1/4から増え始め、1/7(月)の爆発的にアクセスが増えている事です。「電網郊外散歩道」のnarkejpさんも分析されていました。
「コメント数の月次推移からわかること」参照。
確かに、お盆や年末年始は、パソコンやブログ以外にやることがあるとか、旅行などに出かけて家でゆっくりしていないとか、様々な理由はあると思います。これとは別に、ブログを書いたり読んだりしている人達の中には、けっこう「勤務中」にアクセスしている人、自宅のパソコンではなく職場のパソコンでアクセスする人がいるのではないかとも思われます。

17これは「平成20年1月7日」つまり昨日1日のアクセス解析のグラフです。
1日の解析の場合は、その日に記事をアップしたのか、アップした時間はいつなのか、多くの人の興味を引くような内容またはタイトルだったのか、などによって違いますので、「その日の記事」のアクセスを必ずしも現していないことになります。昨日の記事をアップしたのは午後9時ちょっと前でしたので、21時以降のアクセスがグーンと増えてこの3時間だけで164となっています。1日全体のアクセスの28%と約3割弱がここに集中している訳です。
前日1/6のブログ記事には399だったアクセスが576になったと言っても、21時より前のアクセスは1/6までの記事に対するものですので、昨日の記事がアクセス数を増やす魅力的な内容だったとも言えません。

まあ、結局、どうでもいいことなんですが、こういう風に解析結果を検討してみるのも面白いですし、かなり文系な頭の私ですが少しは理系的なところもあるんですよ、とお示しできたかなと思います。(笑)

裏を話してしまうと、ココログで解析しているアクセス数等は、確か2005年の6月か7月頃から開始されたサービスであり、それ以前にブログを始めていた私の記事に対する累計アクセス数のうち、2005年の1月からの半年分程は「空白」になっているのだと思います。「15万ヒット」とか「17万ヒット」というのは、ですから単なるイベントのようなもので、決して正確な数字ではありません。あしからず!
でも「15万」という切りの良い数字を踏んだ方には、お礼とお祝いを兼ねて「のだめ」の大好きなアニメ『プリごろ太』に登場するキャラクターであるプリリンのストラップ(?)という大変貴重な物を差し上げたのであります。(^^;;;;

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2008.01.07

1月の演奏会と山響のこと(ブログ4年目を迎え)

新年が明けてまだ「松の内」とはいえ、既に通常モードになっています。
2005年1月6日、今からちょうど3年前の昨日、このブログを始めました。丸4年目に入ってしまっていました。うっかり記念日を忘れました。(^^;;;
3年前の記事はこちらです。「はじめました!」
始めたときも酒田在住でした。
当初は職業柄、医学ネタ、脳外ネタが多かったのですが、その後いろいろあり、なるべく問題が生じない様に医学ネタからはやや離れているスタンスをとっております。

さて、、、
1月もいろいろ演奏会。
1/9(水)は鶴岡で地元のS銀行創立130周年を記念したコンサートがあります。残念ながらこちらは既に応募を締め切っていて抽選による1200名無料招待。「のだめ」の御陰でクラシックに余り縁のなかった人にもブレイクした感のある「ベト7」、つまりベートーベンの交響曲第7番がメイン。更に、年末に教育テレビでチャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門で日本人二人目の優勝者となった神尾真由子さんのドキュメントをやっていましたが、そのチャイコフスキー作曲のバイオリン協奏曲を漆原啓子さんが独奏。指揮は山響名誉指揮者の黒岩重臣氏。
漆原さんと言えば、酒田フィルとはこれまで4回程共演をして下さっている、もはや「常連」。最近では平成16年の定期演奏会でラロのスペイン交響曲(バイオリン協奏曲)を演奏された。私は、実は酒フィルの定期演奏会の「デビュー」だったので良く覚えている。ガチガチに緊張してピッコロを吹いた覚えがある。ソロのバイオリンと同じかそれよりも高い音を出すピッコロは大変目立つ。しかもピッコロという楽器は低い方から高い方まで3段階のレジスター全てでピッチがずれやすい。力むと固い、きつい音になってしまう。フィンダのグラナディラを購入してたった8ヶ月でのデビューだった。
漆原さんは、妹の朝子さんとともに美人バイオリニストとして有名であり、宮崎国際音楽祭ではコンマスの徳永二男さんの隣(フォアシュピーラー)でいつもオケをまとめていらっしゃる役目。
「violinist漆原啓子HP」はこちら。
平成16年の酒フィル定期の打ち上げで、会場に楽器を持って来なかった漆原さんに誰かが「楽器、どうしたんですか?」と聞いたら、「あら、ホテルの部屋に置いて来たわよ!」とアッサリお答えになった。ホテルのベッドにポーンと(投げてはいないだろうが)置いて来られたとの事。時価数億円のストラディバリウスを、である。
彼女クラスの演奏家になると、楽器はもちろん大切で愛してはいても、所詮自分の音楽を奏でるための道具、一手段に過ぎないのだろう。素人の私ならば入浴する時以外は片時も傍から離さず、抱いて寝るんじゃないかと思うような楽器なのだが。
あの時、あまりに素晴らしい演奏に拍手は鳴り止まず、ソロのアンコール演奏があった。山響ヴァイオリニストNさんのブログでの会話から記憶を辿ると、パガニーニの「24の奇想曲」から数曲だったと思う。その年新しくなったばかりの「希望ホール」。シーンと静まり返った会場に漆原さんのヴァイオリンの音だけが、激しく、静かに、美しく、妖しく鳴り響き、(私の座っていたピッコロの席からは)最後の一音はピュ〜〜ンと3階席の上の奥の方に飛んで行くのが見えたような気がした。
漆原さんによるチャイコ。。。いいなあ。。。

山響はこの1/9の招待演奏会を皮切りに、1/13(日)に村山定期(村山市は山響創立名誉指揮者である村川千秋先生の出身地)、1/19(土)は長井市でニューイヤーコンサート。指揮はどちらも酒田出身で、一昨年まで3年連続酒フィル定期を指導して下さった工藤さん。
そして第186回定期演奏会は1/26(土)、27(日)、これはいつもの山形テルサで指揮は音楽監督飯森さんである。
飯森さんと言えば、今年の山新3P賞を受賞されたことが先日山新に載っていた。地元に根付く山形新聞、山形放送が設置して、Peace(平和), Progress(進歩), Prosperous(繁栄)の3つのPそれぞれに相当する個人、団体を表彰して既に丸50年。今回第51回の表彰が行われた。飯森さんはこの3賞のうちの「平和賞」を 受賞され、そのニュースは明日1/8(火)夕方のYBCの県内ニュースで紹介されるそうである(もしかすると、山響FCの話が出る時に私の顔も映る?かも?)。
山新3P賞の平和賞と言えば、うちのボスであるK教授が平成9年だったかまだ40代の若さで同平和賞を受賞したのだった。

さて、演奏会の事。
山響以外にもいろいろある。
まずはこちら。
080120山響のオーボエ奏者斎藤真美さん、ホルン奏者岡本和也さんにピアニスト小林路子さんの3名で、"Trio Resonance"というアンサンブルを結成し、1/20(日)、文翔館議場ホールで演奏会を行う。
オーボエ、ホルン、ピアノという組み合わせは私はまだ聴いた事がないと思う。プログラムも、ライネッケのソナタなど意欲的なもの。ホルンの岡本さんは、フルートの足達先生とともに猪苗代の夏合宿でご一緒した。いつもにこにこと穏やかな方で、山響のコンサートの後の「交流会」ではきまって岡本さんの音頭取りで「一斉じゃんけん」での出演者サイン色紙争奪が行われている。
私は、オケの練習(+総会?)で行けないけれど、お近くの方は是非この珍しいトリオを聴きに行かれてはいかがでしょうか?1/20の午後4時半開場です。

もう一つ。
Q0130g山形のクラシック音楽シーンでは、もはや宣伝する必要のない位に有名な(?)「山形弦楽四重奏団」、略して「やまげん」と呼んでいたのだが、昨年からHPによると「山Q」と略する事にしたらしい。個人的には「やまげん」の方が好きなのだが。
その山Qの第26回定期演奏会。いつもの文翔館議場ホールで1/30(水)の18時開場である。いつものように18:15からEnsemble Pinoのプレコン付きです。アンサンブル・ピノは、「Ensemble Pino」HPを参照ください。黒瀬さん、城さんという2人の山響ヴァイオリン奏者と、同じく山響ヴィオラ奏者の田中さんの3人で活動されている。
山Qの今回のプログラムは、いつものハイドンはもちろんの事だが、シューベルトの弦楽四重奏と、クラリネットに山響奏者郷津先生(山大で教えていらっしゃるのでどうしても「先生」、、、)を迎えて、ウェーバーのクラリネット五重奏曲である。山Qについて万が一あまりご存じないという方はそのHPをどうぞ。「山形弦楽四重奏団」HP

上記に少し触れた、山響創始者の村川千秋先生。その努力と情熱に共鳴し協力したいろいろな人の力があったからこそ、山形交響楽団は35年間、山形のような地方小都市で存続して来た。日本全国でプロオケが存在する街としては、人口、経済基盤などにおいてもっとも小さい山形市で、紆余曲折を経ながらやってきたその実績。普段クラシックなど聴かない青少年も、小学校や中学校に「音楽教室」で演奏に来た山響は聴いているはずである。山形県は、もしかするとその県人口に占める割合で言えば、「プロオケの生の演奏を聴いたことがある人」率では全国一かもしれない。山形以外でプロオケを持つ地方都市といえば、お隣仙台(山響より後に設立)であり、札幌、広島、福岡、金沢など。
金沢で山形の人口のおよそ3倍、あとは全部「政令指定都市」であり、「小都市」ではない!
オーケストラやクラシックが注目されたりもてはやされたりする今こそ、遡る事40年弱前に、この「田舎」の「小都市」にプロオケを作ろうとした村川先生の心に想いを馳せてみよう!
ドイツなどは国の形態が違うけれど、日本のような大都市にプロオケが集中している訳ではない。音楽が、教会や宗教と共に地域に根付いている。日本の場合は「プロ」=音楽で食べる職業ということで、どうしても経済的なものが大きく関わって来る(経済が関わるのは米国だろうがフランスだろうがどこでもそうであるが)。国や自治体の補助が少なく(欧米に比べて)、篤志家の寄付などがごく限られている日本のプロオケは自主事業としての定期演奏会でのチケット収入に頼らざるを得ない面がある。そして、オケ団員の平均給与はN響などの特殊な例を除くと極めて低いと言わざるを得ない。山形には、山形大学教育学部にかつて「特音」(特設音楽科)と呼ばれ、今は「地域教育文化学部 音楽芸術コース」と名を変えた由緒正しき音楽科があり、市立北高校にも音楽科がある。そして人口の割合にしてはクラシック音楽が盛んであるため、団員が教える生徒さんの数も多少は確保できる。山形市、米沢市、酒田市と3つのアマオケがあり、それなりに盛んな活動をしている、といった事情があるけれど、プロオケを存続させるのは簡単な事ではなかったはずである。
「艱難辛苦」という4文字熟語がピッタリ当てはまるようなイバラの道を経て、ようやく最近の様にCDを出したり、テレビに出たり、映画に出たり、定期演奏会チケットが完売したり、国(文科省)から表彰されたり、という時代になったのである。この山響のおかげで、山QがありTrio Resonanceがあり、山形チェンバーミュージシャンズ(犬伏さん、成田さん、オーボエの竹谷さん、チェンバロの梅津さん)があり、ベルク木管五重奏団(山響のフルート足達さん、ホルン八木さん、ファゴット鷲尾さん、クラリネット牧さん、オーボエ竹谷さんの5人)などの活動があるのだと思う。
音楽が好きな私たちは、東京やベルリンやウィーンに行かずして、山形の地でフルオケはもちろん、弦楽四重奏、木管五重奏などなどいろいろなアンサンブルやソロリサイタルを楽しむ事ができる。本当に幸せな環境である。この環境が長く続き益々盛り上がるためにも、山形交響楽団の活動を陰ながら支え応援して行かなければならないと思う。

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2008.01.06

新年最初の土日

明日で松の内も明け正月も終わります。
1/5,6の新年最初の週末も忙しく過ごしました。
土曜日は金曜日から宿直していた病院で午前中は外来。M病院は精神疾患の専門病院ですが、私は主に認知症、うつ病、不安障害、睡眠障害、アルコール関連障害の方々の診察をしています。昼食を終えて急いで帰り、前日夜の「のだめカンタービレinヨーロッパ(1)」の録画を確認しながらTV-CF部分をカット。その後、山形に出かけました。
医学部の同級生の集まりがあったのです。同級生の中から4人目の医学部教授が生まれたので、少し遅れたのですが祝賀会を兼ねた同窓会です。今回は、しかも初めての女性教授でした。医学、医療、教育、大学などすべてが厳しい時勢を迎えていますが、教授に選ばれる人達は皆立派な人格と学識を有しています。益々頑張って欲しいものです。
福島県立医大、岩手医科大学に1名ずつ、そして母校山形大学医学部に2名の教授、この4人を加えて20名程が正月の忙しい時期に遠くは横浜や東京からも集まりました。仙台でウィルス学の権威でNHKの『ためしてガッテン』にも出演した者、整形外科領域である手術手技で頑張っている者、開業して前途洋々頑張っている者など同級生の明るい笑顔を見て私も力をもらいました。今夜ばかりは「先生」とか「教授」と呼ぶのは御法度として、昔の同級生同士「君」「ちゃん」付けで呼び合いました。つい楽しくて夜中まで飲んでしまい、今朝ホテルで起きて戻って来るのが大変でした。

3月16日のオペラまで2ヶ月ちょっととなり、毎週毎週土日の練習です。今日も10時から16時まで練習。飲み疲れ、運転疲れはありますが、練習は苦になりません。プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」は難しいのですが、演奏していて楽しい。歌が入っていないオケだけの練習の段階でも楽しいものです。

「のだめ」スペシャルの第2話を録画していたので帰宅後観ました。
またまたプラハが、スメタナホールがたくさん出て来て嬉しかった。原作の漫画とはかなり違っていましたね。漫画ではプラハのシーンなどほとんどなかったと記憶しています。でもプラハの街並、フラチャニの丘、スメタナホールを何回も観る事ができて存分に楽しみました。
のだめが出たコンクールは「マラドーナピアノコンクール」、千秋が出たのは「プラティニ指揮者コンクール」と、なぜか実在の往年のサッカー選手の名前を付けていたのは、原作者がサッカー好きなのかな?自分が座った席の辺りがちらりと映っただけで嬉しくなります。優勝記念のコンサートで演奏したのは通称「ブラ1」。演奏は再びプラハ放送響。今回はちらりとしか映りませんでしたが、クラリネットにはボイターがいるのがその髪型ですぐにわかりました。演奏シーンは、本当に真剣に演奏しているようでした。音源は別録りかも知れませんがオケが玉木君演じる千秋真一のタクトに合わせてちゃんと演奏しているようでした。
原作の漫画は、「第106話」(単行本第18巻まで)まで進み、連載されている女性漫画誌ではもっと先まで行っているのでしょう。ドラマは原作を元に脚色されたのでちょっと違った方向に行っていたようですが、考えてみれば漫画というのは映画の絵コンテやカメラワークそのもののようなもの。あとは監督のイメージ力と俳優の演技力でしょう。今回はそれに加えて、パリやプラハでの2ヶ月に及ぶ現地ロケとトータルで4ヶ月の作製期間をこの2夜計4時間の放送の為に費やした訳です。素晴らしいできばえだったと思います。「のだめ」作製に関わった全ての人々にBravo!です。

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2008.01.05

酒田のお正月

特別伝統的な事を書こうという訳ではありません。
大晦日あたりから天気予報通り雪、霰混じりの荒れた天候になりましたが1/4からは回復。青空も覗いています。クリニックの建築も順調のようです。

Photo酒田観光の代名詞のような「山居倉庫」です。吉永小百合さんを起用したJR東日本のポスターでも使われています。古くはドラマ「おしん」でも出てきました。
「現役」の米蔵です。
そこにある「夢の倶楽部」という展示室が1/4まで入場料が半額の150円だったので行ってきました。西郷隆盛、荘内藩、酒田湊など最近勉強している事に関しても展示がありました。常設展示となっている辻村寿三郎作のちりめんを使ったお人形も見事です。これを見ていて、先日「光のページェント」を観に行った際に藤崎デパートでやっていた「与勇輝 人形展」を思い出しました。私のクリニックの設計担当の青木さんのブログに詳しく紹介されています。
「与 勇輝展 人形芸術の世界」を参照。

この人形展を見ていて気付いた事があった。
人形は本当に素晴らしい。江戸時代、明治、大正の雰囲気をよく再現している。人形の表情や身体の所作がすごい。まるで生きているようだ。そして、一番驚き感心したのは、人形を見ている人達の表情が皆やわらかいのである。笑顔というより穏やかな暖かさを感じさせる表情である。人にこういう表情をさせる力を持っている人形達。それを作る与さんという方の凄さを感じた。
私も、医師として、アマチュア音楽家として、人に自然に柔らかい「微笑み」が生じて来るような仕事ができ、演奏ができる、そういう人間になりたいな、と人形展を見ていて思った。

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2008.01.04

ついに『のだめ』新春スペシャル

今夜です。
今、「メーキング」やってます。
ちょっと「フジ」の思う壷にはまっているようですが、楽しい。
なにせ、昨年5月に訪れたプラハ。
Romanrise1RudolfinumDvorakcastle「プラハの春 音楽祭」でチェコフィルによる『我が祖国』全曲演奏を聴いた「スメタナホール」(写真は終演後、フルートパートがたって聴衆の拍手に応えているところ、指揮者はドラマでヴィエラ先生役を演じているマーカルさん)。一昨年のプラハ訪問時に訪れたルドルフィヌム(のだめと真一がプラハに着いて真っ先にヴィエラ先生指揮のコンサートを聴きに来た)、そしてヴルタヴァ河越しに臨むフラチャニの丘とプラハ城(ドヴォジャークの立像がルドルフィヌム正面で見守っている)。
懐かしい気持ちとなんとなく自分がそこにいるような高ぶる気持ちが自分でも変です。

先ほど、山響音楽監督飯森さんもでていましたね。千秋真一演じる玉木宏さん始め指揮の指導のためにプラハに短期往復して来た事はご自身のブログでも書かれていました。

この番組は原作が漫画ですし、笑いを取るためとはいえ「無理」なところがたくさんありますし、変な人のオンパレードなんですが、音大とか音楽家には確かにちょっと普通の常識では通じない人がたくさんいるのです。「つっこみ」どころは満載です。
まず、千秋真一の指揮。「天才」とか「貴公子」というタイトルのつく若手指揮者の指揮があれでは、「ぷっ!」と言う感じです。小学生でももっといい指揮をする人がいると思いますよ。ピアノ協奏曲の時はとても素敵でしたが、指揮姿ははっきり言って戴けません。今やっている「メーキング」では、ちらっと見ただけですが、飯森さんの指導とその指揮ぶりのDVDで勉強した御陰か、大変決まっていました。まだまだリズム感というか、切れというか、う〜〜ンというところです。音楽について行ってる感じで、要するにオケをリードしている様には見えません。指揮がそう簡単にできるなら、「指揮者」というプロの職業も必要ないでしょうし、「指揮者コンクール」などというものも要らないでしょうね。そんなに言うなら、お前がやってみろ!と言われたら、、、指揮ってしてみたいですねぇ〜。
千秋真一は漫画ではカッコいいのですから、かっこいい役者である玉木宏さんもかっこいい指揮を披露して頂ければとおもいますが、、、まあ、ドラマですから目を瞑りましょう。
チラッとみたところでは、「アリtoキリギリス」の石井さんが片平という日本人で指揮者コンクールに参加している役なのですが、ピョ〜〜ンと飛び跳ねるあの指揮がとても素晴らしかったと思います。

のだめがお城で演奏をした時にお世話をした執事役に、「山形弁研究家」のダニエル・カールさんが出ていました。「かみかみ」の日本語、あれは「しゃまがたべん(山形弁)」の台詞ならスラスラだったのでしょう。(笑)

Dvorakstatue1「ぶらぼ〜」、bravo、演奏会でよく聞かれる言葉ですが、ほとんど日本語ですね。
本当のbravoは、「ぶるらぁ〜ゔぉ」と発音するものだと思います。まあ、こういうことに楽しく突っ込みをいれながら楽しみましょう。
(今日は私仕事初めで、これからM病院で宿直なんですよね、新年早々のお泊まりです)


P.S.
お仕事(宿直)しながら「のだめ」見てます。
「プラティニ指揮者コンクール」のオケは、プラハ放送響だとのことですが、クラリネットにはアフラートゥス五重奏団のクラリネット奏者ボイチェフ・ニードゥルがいます。
Kanpai2この写真の左端、ちょっともじゃもじゃ頭の愛嬌のある顔がボイター(ボイチェフの愛称)です。
ドラマでは、千秋真一がR.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」でクラに駄目出しをした時にちょっとアップであのもじゃもじゃが映りました。彼のクラリネットの音は、本当に柔らかく、まる〜〜い、ほわ〜んとした音で美しいのです。
そして、千秋真一演じる玉木宏さん、本当に素敵な指揮をする様になりました。タクトの扱いや雰囲気も素敵ですし、国際指揮者コンクールを受けるにふさわしい姿ですね。ご本人の努力はもちろんですが指導に当たった飯森さんの力も大きいのでしょう。楽しいドラマです。

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2008.01.03

お正月のテレビ番組

まあ仕方ないのでしょうが、お笑いとかおちゃらけのオンパレードです。
私は「お笑い」は決して嫌いではありません。人間の精神を安定に保つためには、たまには「おバカ」も必要だと思います。人間の精神にも「バランス」が必要です。

さて、楽しみにしていた「のだめ」の再放送分。何と、秋田(家内の実家)では放映されていません。フジ系はあるはずなのですが、テレビ番組欄に載っていません。なんということでしょう!
でも、山形では「さくらんぼテレビ」で2日間約11時間に渡って放送されているのでHDD録画で対処しています。

今、NHK教育で恒例の「ニューイヤーオペラ」をやっています。
昨年に引き続き山響音楽監督飯森さんの指揮です。昨年は、オペラと言っても。オケも舞台上で指揮者は歌手の後ろでモニター観ながら振るという過酷な条件。去年の舞台も素晴らしかったけれど、今年は更に凄いです。
今回はオケピットがあり、オケも指揮者も通常のオペラのように奈落に入っています。舞台上は、オペラ歌手、バレエダンサー、舞台装置のみ。やはりこれでなければ行けません。歌も踊りも音楽あってのもので、音楽をコントロールする指揮者が舞台を全て見渡せる位置にいてこその舞台芸術だと思います。
今、ちょうど飯森さんも自身のブログで自信満々に紹介されていた「イーゴリ公」をやっています。素晴らしい歌と踊りと音楽と舞台装置(背景画)ですね。Bravo!です。
この後、たった1曲ですが、「ラ・ボエーム」のミミのアリアがあります。
あと2ヶ月ちょっとで酒田で「ラ・ボエーム」です。
今週末からまた「土日」練習が毎週続きます。
来週、1/12,13,14には今回の音楽監督である三枝成彰さんも酒田にいらして、1/13(日)には(マスコミ向け)公開練習があります。
さあ、ミミの「私の名はミミ」を楽しみにしましょう!

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2008.01.02

おお!懐かしきプラハよ!

Pianica11/4, 5連夜の「のだめカンタービレin ヨーロッパ」新春スペシャルを前に、一昨年の連続ドラマの再放送が始まりました。今、観ながら書いています。
人間の記憶とは、、、とおもいました。
何と第1回からプラハがあんなに出ていたのですね。忘れていました。
Photo幼い日の千秋真一が「指揮者になりたい」「先生の弟子になりたい!」と叫んだのは、プラハ城を臨むヴルタヴァ河のほとり、叫んだ相手のヴィエラ先生はチェコフィルの音楽監督であるズデニィク・マーカル氏でした。
漫画は全巻観ていますが、平成18年の10月頃は、その年の11月の全国学会主催準備に奔走していた頃ですので、テレビドラマは全回観た訳ではありませんでした。観た気になっていたのは、きっとドラマと漫画が頭の中でごっちゃになっていたのだと思います。
今回のスペシャル版でも、海外ロケはパリ以外にプラハが多く使われているようで楽しみです。
(写真は、昨年ではなくH18年の正月にプラハ訪問時のもので、ヴルタヴァからフラッチャニを臨んだところ。右側にスメタナ記念館、記念館の前にはスメタナの銅像があります。スメタナ像の向こうにカレル橋が見えますね。)

今日は2日ですので、「吹き初め」をしましょう。
「南洲翁」のお話は、頭の中が整理されてから書こうと思っています。

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2008.01.01

新年明けましておめでとうございます!

Photo_4いよいよ3月に開業しますし目出度い年にしたいです。
元日は「三社参り」してきました。
ちょっと調べてみましたら、私の出身地である福岡など西日本の風習だそうですが、どうなのでしょう。
祀ってある神様を考えてお参りした訳ではないのでいい加減かもしれないのですが。

まず初めは10月の「地鎮祭」でお世話になりました、酒田市駅前で本間美術館の近くにある「八雲神社」にお参りしました。時に強い霰の降るようなお天気でしたが、夫婦揃って着物を着て心新たにお参り申し上げました。

続いて酒田の街でも最も由緒のある「日枝神社」。日和山公園のすぐ隣にあります。
奥州藤原家の滅亡にあたり、藤原氏の遺臣36名が秀衡の後室徳尼公と共に酒田に落ち逃れて来て、今の宮ノ浦と呼ばれる土地に住むことになった。その後、最上川を越えて今の酒田市中心街のある地区に移り住み、その後、ここに日枝神社を祀ることになったという話である。「公益学」の祖にもなったと言われる本間家3代当主光丘が社殿を寄進し、後の世に西郷隆盛が大鳥居にかかっている「日枝神社」という額を書いたと言われている。

そして3社目。
この正月の間に勉強しようと思って5冊の本を買い込んでいたのだが、そのうち3冊が「西郷南洲翁(隆盛)」に関するものである。官軍の総大将西郷隆盛と奥羽越列藩同盟中唯一無敗であった鶴岡庄内藩の戊辰戦争、戦後、そして西南戦争を経て西郷隆盛が特赦で復権した後に庄内藩士によって編纂された「南洲翁遺訓」の事などは有名な話だと思う。庄内地方に「南洲神社」があることは知っていたし、どこかで看板を見た覚えがあったのだが、「どこにあるのか?」と問われると正確に応える知識はなかった。ところが「南洲翁遺訓に学ぶ」(小野寺時雄著、荘内南洲会発行)や「荘内藩を救った西郷隆盛」(大谷良雄著、コミュニティ新聞発行)などに南洲神社は飯森山にあると紹介されている。「飯森山」とは、あの土門拳記念館のあるところなのである。
Photo南洲神社の場所は、ちょうど土門拳記念館とは反対側にある。
南洲翁遺訓に人生を捧げたとも言える故長谷川信夫氏がその自宅で「南洲翁遺訓勉強会」を開き、それが今の「荘内南洲会」になったのであるが、その長谷川氏の自宅敷地内に神社を建立したものである。

Photo_2神社の脇に「徳の交わり」と呼ばれる西郷隆盛と庄内藩士菅実秀の大きな銅像が置かれている。
江戸市中見回り組として薩摩藩江戸屋敷焼き討ちの中心となり、戊辰戦争では官軍側に甚大な被害を与え最後まで抵抗した庄内藩に対して、非常に寛大な戦後処置を行ったのは西郷隆盛の御陰である事を後に知って、鹿児島まで訪ねて私淑した時の姿を銅像にしたものである。

Photo_3ちょっと霰混じりの雪が降っていたのですが、その脇には有名な「敬天愛人」の言葉が掘られた石碑がありました。私がこの敬天愛人の碑を生まれて初めて見たのは確か昭和61年頃、鶴岡の消防署の横にあった大きな石碑。その時に初めて西郷隆盛と荘内藩の関係を知りました。実は私の高祖父(曾祖父の父)?が宮崎のどこぞのお城の家老をしていて、「禁門の変」の際に薩摩軍と共に京都に進軍したので西郷ドンと一緒に闘ったということがあり、西郷隆盛の事を鶴岡で聞いて感激した覚えがあります。

南洲神社にお参りして、その隣にある「南洲会館」が元日にも関わらずあいていたのでお邪魔したところ、事務長さん自ら案内して下さいました。酒井家縁の掛け軸などの他、なんと西郷隆盛直筆の書や絵や沖永良部島に流されていた頃の品が大事に展示されていました。これらの書に触れるだけで、西郷ドンの大きさや仁徳が十分に感じられました。
西郷隆盛に興味のある方は是非訪れてみるべき神社と会館だと思います。こちらをどうぞ!
「荘内南洲会」のHP

「三社参り」はこうして霰の降る中、有意義に終える事ができました。
Photo_5お正月はやはりお節。そしてお雑煮。地方、家庭によっていろいろなヴァリエーションがあるものですが、九州出身の私の家でも、庄内地方でも、トビウオの焼干しを出汁につかっていることなど共通点があります。もしかすると、北前船が関係しているかもしれないな、などと考えながら食べていました。

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