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2007.10.16

またですか、、、

埼玉の一級建築士が、また、、、「また!!!」、耐震偽装をしたそうです。
「姉歯事件」であれだけ国民の信頼を失墜させたのに、また「一級」建築士が不正を働いたのです。
建築物の設計は「人命」に関わる仕事なのに、多分設計図と計算式を相手にそういう「倫理観」や「常識」が欠如してしまったのでしょう。同情しているのではなく、断罪しているのです。

私のブログで2日続けて「改正建築基準法」の事に触れました。(許可が下りるだろう時期を見越して)地鎮祭は終わったのに、まだ着工できないのです。まだ建築許可が出ていないのです。改正法のせいです。
「姉歯事件」の煽りを受けて改正された法律は、ただ基準が厳しくなっただけではなく申請料が凄く高くなり、認可までの期間が非常に長くなった(施行当初などは、どのくらいかかるか見当も付かないと言われていた)ので、高層の建築物に関わる設計は大変だとおもいます。実際、法改正後に新しい高層建築の申請はほとんどないと聞きました。
そして、今度の「遠藤事件」です。

言い訳は、「6/20の改正法施行の前に申請を出す必要があり、時間がなくてやってしまった」ということだそうです。予想されたことです。こういう事が起きるのではないかな?と素人の私でも考えました。「駆け込み申請」と言う奴です。
ところがニュースによっては「姉歯式手口、また素通り」と題して、「姉歯事件」と「遠藤事件」を法改正の前後の別の事件として扱っています。いわく「6月、改正法が施行されてから初めて、新たな耐震強度偽装が発覚した」と言う表現です。
これは誤った記述だと思います。もしくは、読者に大きな誤解を与える表現です。
遠藤一級建築士は、6/20の改正法施行の前に建築確認申請を間に合せるために「偽装」を意図的に行ったものです。ですから、改正法の元に申請されたものではなく、法改正前の申請基準に合うように「偽装」したということです。
改正法施行後であれば、高層のマンション建築などは、申請後有無を言わせず第3者機関のピア・レビューを受けることになっているので、「耐震強度偽装」をしていても見つかるはずなのですが、法改正前ならば「姉歯事件」と同じように役所の段階では見つからない(見つけられない)訳です。
それを見越して、間に合わせで、改正前に駆け込みで申請をしたのです。民間の指定確認検査機関「東日本住宅評価センター」が建築確認をおこなったそうですが、(3800ページもある分厚い構造計算書は)「手口が巧妙で見抜けなかった」と言い訳しています。
これが何故発覚したのか?!なんと建築主(施主)である積水ハウスが「任意」の住宅精度機能評価を再度使ったところ「構造計算書の改ざん」が発覚したという訳です。
現在、「遠藤一級建築士」の関わった建設は中止され、設計を一からやり直しているそうですが、全国にその波紋が広がっています。

繰り返し強調しますが、これはあくまで「改正法施行前」に申請した建築設計の「偽装」です。
改正法施行「後」に申請された建築設計ではありません。施行「後」は、こういった「偽装」を役場では見抜けないため、(高層建築物などある基準以上の建物に関しての建築申請は)第3者機関で再計算して評価しこれを通った場合に初めて申請が認められるそうです。そのために、これまでの何倍もの申請料が必要で、1ヶ月以内におりていた建築許可が「最低で」3ヶ月かかるそうです(ある容積、面積以下の平屋や2階建てなどはピア・レビューは不要)。
この「最低で3ヶ月かかる」、改正法施行直後は「何ヶ月かかるか、見当がつかない」という事は、建築を発注した施主に取ってみれば、「いつできるのかわからない」「工期、加えて工事費がどのくらい嵩むのかわからない」ということになり、人件費、手間賃、材料費の高騰に繋がり、結局は一般市民が建築物に支払う料金に跳ね返る訳です。だから、何とか6/20前に申請をして、これまで通りの短期間で認可を得て、建設着工にこぎ着けたい、という考えに至る事は理解は出来ます。
だからといって、「耐震強度偽装」が許されるはずがありません。むしろ、「姉歯事件」がありながら「またやったのか!」という憤りは強く感じます。
私の医院建設の申請は、改正法施行後のもので、提出されてから7週目を迎えていますがまだ許可がおりません。
今回のことで、「ほら、こういう不埒な奴がいるんだから、もっと厳しくしなきゃ」となって、もっともっと遅れるのではないかと不安な気持ちにさせられます。どうか、善良な市民、善良な建築士にまで悪影響を及ぼさないで頂きたいと思います。

今回の「また!」について、普通の、善良な、心ある、一級建築士の方々はどのように思っているのでしょうか。
医師の不正や意図的なミスがニュースになった時には、同じ医師としての憤りは感じるものの、「もって他山の石」とせよということで、「そんな馬鹿なことを私がやるはずがない」と思ってしまうのですが、どうなのでしょう。
相手が「人間」である仕事と、相手が「図面や計算式」である仕事の差なのでしょうか。図面の向こうにいる「人」が見えなくなってしまった原因はどこにあったのでしょうか。

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コメント

前の記事を読んだ時も
こりゃあ、すごいロスが発生する!発生してる!と思いました。
時間も経費も利益も。
図面と数字しか見ない顛末なんでしょう。
一級建築士って賢くないと取れない資格でしょうにと、なんでまたと、凡人は思うばかりです。

先日、【娘がこのたび医学部を卒業し、只今研修中】という友人に会いました。
曰く、勤務がしんどい科(例えば産婦人科)、体力要る科(例えば外科)、地方の病院等には行きたくない、行かせたくない。かといって、耳鼻科も皮膚科もイヤだそうです。
お医者さんになる方の話を、お医者さんにかかってる私は聞きながら、娘さん、なんで医師と言う職業を選んだんだろうと思いました。
いっぱい勉強して賢いだろうにと。
そのうち、その娘さんにも対峙してるのは疾患をもってる<患者=人>というのが見えてくるのでしょうか。
すいません、話それましたm( _ _ )m

投稿: リスペクト | 2007.10.17 13:01

まあ、その娘さんやその親御さんを簡単に批判や否定はできないのです。誰だって、お金があって楽で楽しい生活の方が本当は好ましいはず。
小さい頃からお利口さん、お勉強ができる、医学部に行く、医者になる、生活が保障されステータスが高い、、、まだこんな考えの人が少なくない事は事実です。Noblesse Obligeという言葉は、一部の高潔な思想、精神を持つ人のもので、大半の医学部生、若い医師は「医師という職業を選択している労働者」なのかもしれません。私にもそういう側面がある事は否めません。
ただ、侍という階級が「武士は喰わねど、、、」と言っていたように、己に誇りを持つという事は、その本人の心がけだけではなく周囲の目、周囲の期待というものからも形づくられるものです。代々武士として生きて来た家系、親から子への教え、侍の集団の中での自制と研鑽、城主への忠義、先祖への敬。。。
『仁義礼知忠信孝梯』という儒教の精神が日本人の心から薄らいでいって、公人や高い地位の人や本来市民から尊敬されるべき人達の不正や不義が後を絶ちません。このような時代において、医師にだけ、「高邁な精神」を持ち続けろ、自分の幸せよりも他人の幸せを第一に考えろ、と言っても虚しいと思います。一般市民もマスコミも、医者は金儲けばかりして、ミスで人を殺し、不注意で人を不幸せにして、自分たちは罰せられず、、、という論調が時に見られますが、真面目に頑張っている医師や医学部生にとって、とても自尊心が傷つけられ、「これだけ一生懸命にやって、そんなに非難ばかりされて、割にあわねぇ!」とか「やってられないね!」という気持ちにさせられる事がある事も事実です。
世間やマスコミは、時に悪徳な医者に対する批判はしても、普段はうまく医師をたてて医療職を尊敬し慕ってこそ「師」と呼ばれる人の尊厳も保たれ、プライドが守られれば多少生活が厳しくてもフリーな時間がなくても、自分の人生を他人の幸せのために賭けよう!という気になるのではないかな〜と考えます。
医師の立場の身勝手で、傍若無人な意見ととられるかもしれませんが。
私も医学部の学生頃、親に「自分は医学の研究をする。開業してお金持ちになったりしないから、期待しないでね。」と言った覚えがあります。そのように頑張ってきました。でもいろいろな環境の変化やそれに伴う自身の考え方の変化もあって、この年になって、開業しようとしています。今の世の中、開業医だって倒産する時代。それはそれで大変なのですが、大学で研究したり総合病院で救急をしている先生方はもっと大変なんです。初期研修で現場の大変さを見ると、更に楽な科がいいな、と言う気持ちになるのでしょう。
医学部にも女の子が増え、多いときは学年の半分くらいいます。「将来結婚もしたい」「子供も欲しい」「自由な時間も持ちたい」と思う、女子医学生が選択する科は、「眼科」「放射線科(診断)」たまに「麻酔科」などで、きつい、きたない、暗い?の3Kは敬遠されます。脳外科を志す子もいますが、かなり優秀でちょっと変人ぽいかもしれません。それぐらいでないと務まらない専門性の高い厳しい科(他人の脳みそを触るのですから)なのです。
長くなりました。どこかでいつかこの事を記事にしましょう。

投稿: balaine | 2007.10.17 16:04

一級建築士の関係者としてのコメントです。
私共も同様「またですか、、、」です。

対象が人間であるか書類であるかに拘わらず、プロ意識とモラルの問題ではないでしょうか。

食に拘わる農業関係者も、正に人間の命の原点を扱っています。(食品添加物や農薬等)

勇気あるコメントpart2?


投稿: kokutan | 2007.10.18 15:32

ふむ、、、
明治時代、東北地方を旅したイギリス人旅行家イザベラ・バード(山形、特に今の南陽市のあたりを『東洋のアルカディア』と呼んだ)が、赤湯かどこかで財布かバッグを忘れて旅を続け上山あたりに着いたところ、それを拾った農民がわざわざ届けに来てくれた(その当時ですから、当然徒歩でしょう、おそらく往復1日がかりのこと)事に対して、「日本人て言うのはなんと素晴らしい国民なんだ!」と感嘆したという話があります。
良い意味での儒教思想が士農工商ひろく(もちろん全員とは言いません)行き渡っていたのだと思います。
第2次世界大戦の敗戦以後、国粋主義に繋がるような思想、旧来の思想は否定され、特に教育現場で「仁や義」を教える事がなくなってきました。こういった事は、親が子に、先生が生徒に「教える」事だと思うのですが、それが壊れました。そして今の日本が、「義」や「正」を欠いた日本人が出来上がって来ていると私は思います。国家、政府、教育、それを見張り糾すべきマスコミが、悪い意味での米国的自由主義に崩されて来たと見ます。
「何の分野」ということなく、日本人の良識が冒されてしまっているのだとおもいます。もちろん、そうでない人もたくさんいらっしゃっると思います。どこにでも例外はあって、国家とか文科省とか日教組などの思惑に無関係に素晴らしい先生や素敵な親に教育されて育った素晴らしい方々もまだまだたくさん日本にはいらっしゃいますね。私はどちらかというと「性善説」ですから。

投稿: balaine | 2007.10.18 16:14

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