儒教的思想の復活を望む
「儒教」「儒学」は、紀元前の中国、春秋時代に孔子を始祖とする哲学、思想、宗教的「学問」です(ちなみに私は親から孔子=諸葛孔明亮の名前の一文字をとって名付けられています)。孔子は『論語』の基礎を作った人として、近現代の日本でも、諸外国でも学問の対象となってきました。
儒教の英語名である"confucianism"とは、孔夫子(孔子先生という意味らしい)の「こうふし(日本語発音)」の中国語発音から取られたものだそうです。
「五常の徳」として、仁、義、礼、智、信を保ちこれを拡充して、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教えるのが儒教とされていますが、歴史が古いだけに様々な論争を経てきました。文化大革命時は中国共産党から革命に反する思想として弾圧を受けたり、日本においても第2次世界大戦後に戦前の教育、特に忠君とか忠臣とか献身という「国粋主義」や「神国日本」的な考え方を否定する上でも、教育の表舞台から排除された印象を持っています。
「儒教」を単に学問と捉えれば大きな問題はないのですが、「宗教」の一つと考える場合、様々な議論を持ちます。時代の中で、仏教や神道とも関係を持って来た「思想」ではありますが、神の存在を否定している面は、私も個人的には儒教のすべてを受け入れる立場にはありません。
しかし、タイトルのような事を書いたのは、特に今の日本の、様々な分野での余りの乱れ様、余りの不埒な出来事に憤慨せざるを得ないからです。
「比内地鶏よ、お前もか!」という事件が起きた。
赤福、白い恋人、ミートホープ、不二家、、、余りに多すぎる食品関係の不祥事に、ちょっと前に起きた事件など忘れてしまいそうである。そういえば、雪印事件というのもありました。
厚生労働省では九州厚生局長の不正、今回発覚した防衛省の事務次官の不正(公務員倫理規定違反)、社会保険庁の年金問題、記入漏れ、ミス、そして血液製剤による薬害肝炎被害者のリストの放置等々。どうしてこんなことが平然と(?かどうかはわからないが)行われて来たのか、嘆かわしいを通り越して情けないというか、真面目に仕事をして生きている普通の市民を馬鹿にしていると言えることばかりである。
確かに第2次世界大戦直前から中の日本の教育は、そのもたらした結果から見ても大きく間違っていたと思う。その教育を実際に受けた訳ではないけれど、歴史的事実から考えると、天皇を神と崇め、国のため、天皇のためには喜んで命を捨てる、それを成就させる上では敵国、属国(と当時考えた)の国民に対して、人道に悖る事を行う事を「正当化」した行為が方々で数多く行われた訳である。南京大虐殺や捕虜の生体実験などは言うに及ばず、朝鮮韓国の人々に対する弾圧や拉致、略奪、強姦を始めとする数々の犯罪が、「神国日本」とか「天皇陛下万歳」の名の下に行われたという厳然とした事実がある。
それらを「改革」するために、敗戦後、GHQを始めとする戦勝国側からの指令により、そういった「誤った」思想を導く教育や武道を含めた行為が禁止され排除された。その過程の一つとして、儒教的思想または哲学というものは蔑まれたと考えられる。
そして、現代日本の、上にあげた数々の事件や不正を始めとする問題は、ある意味ではこの儒教的思想を否定しようとした国の教育方針に影響されている所もあるのではないかと考える訳である。「仁、義、礼、智、信」さらには「仁義礼智忠信孝梯」と言った考え方を、もし一言で表せと言われたら、私は『愛』と考える。
自分に対する愛、家族に対する愛、他人に対する愛、社会に対する愛、仕事に対する愛、人生に対する愛だと思う。自分に対して、自分の仕事に対して「愛」があれば(それが仁であり義であり信であろう)、決して「偽装工作」だとか「不正行為」だといった行為を行う訳がない。逆に言えば、自らの仕事に対する愛や誇りがなく、自分という人間に対する愛や誇りが欠けているからこそできるのではないだろうか。
「姉歯事件」も最近の「遠藤一級建築士事件」(おかげで、建築確認申請提出から8週目に入った今も私の医院の建築の許可はおりません!)も「偽装」である。しかもミスではなく確信犯的犯罪である。国家から認可された資格を持つことに、誇りがあれば、資格や仕事に愛が生まれ、不正や偽装などするはずがないと、「性善説」的発想の私は考えたい。
国に対する誇りは、やはり教育で生まれるものである。「自由の国」米国では、小さいとき(幼稚園など)から教室には国旗が貼ってあり、堂々と国家を歌う。「愛国心」を教育され、時代や人生経験や家庭教育などによって多少の個人差はあっても、ほとんどの米国人は「アメリカを愛する」という心意気を持っている。もちろん、この教育や思想は悪い方にも働くのであるが、自分の生まれ育った国を愛し誇りを持つことは、別にサッカーの試合の時だけでなくても大切なものだと思う。
日本国内で医師として活動している人達は、国家試験を通って国から「医師」という資格をもらう。決して国に誇りや愛を持たなくても、この資格を持つ職業人として、「医師」であることに誇りと愛を持つからこそ、赤の他人の緊急時に献身的な仕事が出来るのだと思う。
世の中の人、特に昨今起こっている様々な事件や不正の当事者たちに、儒教思想を教育する機会はないのであろうか。
医学部に進学し、医師になって、他人のためよりも自分の人生を大切にする発想で、「田舎の病院には行きたくない」「忙しい科には行きたくない」「厳しい上司のいる科には行きたくない」「どうせ働くなら楽で金儲けの出来る科がいい」というような発想の若者も少なくありません。若者に限りません。
もちろん、自分の人生を苦しむ患者さんのために捧げるという考えで献身的に働く医師も数多くいます。人それぞれの立場で自由な考えを持つ事を否定しては行けませんが、「医師」という職業を選択する上においてはある程度の自己犠牲、献身という気持ちがなければなりません。「医師」という国家資格を与えるにあたって、こういう「思想」に重きを置く必要があるのではないかと思います。医学部の定員を増やそうとか、初期研修医の最低賃金を上げようとか、救急医療に携わる人の報酬を手厚くしようとか、細々した姑息な対応よりも、大本の「教育」を見つめ直し変える必要があると思います。
先日のコメントへの返事で書きかけた、「QOML」(=Quality of "My" Life;”自分”の人生の質)を追求する初期研修医の考えに対して、もうちょっとまともな事を書こうと思いましたが、問題が複雑な事、微妙な問題を孕んでいる事から、今日のところは、世界医師会が採択した「ジュネーブ宣言」を列記して終わりにしましょう。
『医師の一人として参加するに際し、
・私は、人類への奉仕に自分の人生を捧げることを厳粛に誓う。
・私は、私の教師に、当然受けるべきである尊敬と感謝の念を捧げる。
・私は、良心と尊厳をもって私の専門職を実践する。
・私の患者の健康を私の第一の関心事とする。
・私は、私への信頼のゆえに知り得た患者の秘密を、たとえその死後においても尊重する。
・私は、全力を尽くして医師専門職の名誉と高貴なる伝統を保持する。
・私の同僚は、私の兄弟姉妹である。
・私は、私の医師としての職責と患者との間に、年齢、疾病もしくは障害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、所属政治団体、人種、性的志向、社会的地位あるいはその他どのような要因でも、そのようなことに対する配慮が介在することを容認しない。
・私は、人命を最大限に尊重し続ける。
・私は、たとえ脅迫の下であっても、人権や国民の自由を犯すために、自分の医学的知識を利用することはしない。
・私は、自由に名誉にかけてこれらのことを厳粛に誓う。』
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コメント
大変興味深く読ませて頂きました。
小さくても賢くて堅実な日本になればいいのにと、思う私です。人口が減ってもいいじゃないですか。産業面での労働力としてだけしか捉えないのだったら、外国人は受け入れなければいいのに。小さくても地味でも、賢くて世界から信頼される国って可能なきがするんですけど。単一民族国家なんてスゴイと思うけどなあ。
鎖国じゃなです。自分のアイデンティティのど真ん中は其処だという誇りです。日本はいい国だと思うけどなあ…これも幻想になりつつあるんでしょうか。
略語しゃべってても、本当は正式な単語しってるはず、そんなことしててもコトの善悪は分かってるはず…みたいな<はず>が見事に消えていってる。「えっ?ホントにそう思うの?」みたいな。今の日本の在り様はそんな感じに思えます。
米国と中国はイマイチ好感が持てない私です。あっ、対個人ではありません。国家です。米国は建て前論で<正義>がやたら登場するのが胡散臭いきがします。自国が抱えてる問題(教育、差別、環境破壊etc.)に目が行かぬよう大きな声を出してる気がします。
環境問題は日本の比じゃないと思うのですが。サンクスギビングのころになるとクリスマス用に生のモミの木を伐採or購入し、年が明けた最初のゴミの日には出てました。あっちの家でもこっちの家でも。買って来た野菜は冷蔵庫で恐ろしく長持ちしました。
中国はオリンピックなんか引き受け?ちゃって、突貫工事で国を先進化してる。その弊害は日本の高度経済成長期の歪どころではない、地球規模で弊害を起す気がします。
そう考えると国土が小さい、教育が行き届いている、言葉が通じる、情報が行き届く…打つ手はありそうな気がしてきますが。昔に戻るのではなく、スマートに進化させる方法が。
長くなってすいません。その割にはまとまりがなく...儒教からもそれたような...m( _ _ )m
投稿: リスペクト | 2007.10.24 10:24
偉そうな事書いて済みません。医療問題は突き詰めて行くと、政治とか思想になってしまうのです。
米国の偽善、これは私は2年以上住んでいましたからいろいろと身を以て経験しています。車をぶつけられた事がありましたが、停車しているこちらにスリップしてぶつかって来たのですが、米国の田舎の警察、その他(地元民の証言や保険会社)がどう考えても正しいと思われる私を「原因を作った」ということで「加害者」にしました。相当の時間をかけて闘いましたが、最後には英語力と保険会社の力関係(?)で諦めざるを得ませんでした。地元の米国人と他の町に住む米国籍のないアジア人では、地元民の肩を持つのが自然かもしれませんが、「アメリカの警察官ってこうなんだ!」と理解し諦めました。その他にも「これはおかしいだろ!」というのはたくさんあります。
愛国心を推奨している訳ではないのですよ。米国も中国もかなり危険なものを感じます。ただ、国民一人一人に自分の街、自分の国、そして自分の地球を愛する気持ちがもっともっとあれば、、、と思うのです。
投稿: balaine | 2007.10.24 11:29