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2006.06.07

脳死判定のこと、その他

久しぶりにブログを書いてみたら、書き終わった時点で誤って消してしまった。
どうも勘が鈍っている。書き直すのは面倒だが、乗りかけた船、と言う感じ。
最近、不幸な、悲しい事件ばかり目につく。日本はどうしたというのだろう。
ーー
数日前のニュースソースから。
『厚生労働省研究班の小児脳死判定基準で脳死と診断された5カ月の男児が、診断6日後に自発呼吸が一時的に戻り、その後4年3カ月間生存していたことがわかった。』
『回復力の強い乳児では、正確な脳死判定が難しく、「現在の基準では不十分」との声も出ていた。この基準見直しの動きや、子どもの脳死移植を実現しようと国会に提案された臓器移植法改正案にも影響を与えそうだ。』

このニュースが、移植改正案に影響を与えそうというのはその通りであろう。
なにゆえ、「改正」が望まれていたのかと言うと、臓器移植しか助かる道のない疾患を持つ患者およびその家族と移植外科医側の「望み」であり、国民のコンセンサスではない。
しかし、「コンセンサス」などと横文字でカッコの良いことを言っても、国民の多くはこの問題に無関心かほとんど感心を示さないと思われる。あくまで対岸の火事、自分の身に降りかかった火の粉ではないからだ。
改正が望まれるもっともな理由もある。
日本は医療技術としては世界トップレベルにある。しかし、移植医療は法的規制に阻まれ進んでいない。結果、移植を受けられない患者、特に臓器移植を前提とした法的脳死判定が認められていない小児の患者は、臓器移植を求めて米国や豪州などの海外に渡る。
その海外では、「(金持ちの)日本人が臓器を買いに来た」とか「移植待機リストの上位にいたのに、日本人の患者が来て『医学的に優先度が高い』ということで、自分の子供が後回しにされた。」などと評判が良くない。
日本で、小児の「臓器移植を前提とした脳死判定」が法的に認められ行われるようになれば、このような問題も解決するはずである。
しかし、それでいいのだろうか。地球規模で見れば、本来なら健康で長生き出来るのに、飢饉や戦争などのために餓死する子供が数百万人もいるではないか。医学的に、地球規模でものを考えたとき、開発途上国に生まれた子供なのだから死んでもしかたがない、などということは言えないはずである。

今回の判定、98年当時のことだそうだから、正しくは「臨床的な脳死の判断」をするための検査として小児の脳死判定の仮基準に則って行ったものであろう。あくまで「仮」であり、「臓器移植を前提とした法的脳死判定」とは厳然と違うものであることを、まず認識しなければならない。
「臨床的脳死の判断」をする際には、「法的脳死判定」の必須検査項目の中の『自発呼吸の消失』を確認する必要がない。これを真面目に「確認」するためには、既に人工呼吸器で十分に酸素化された血液が体内を回っているため、(血液中の酸素や炭酸ガスの濃度を調べながら)下手をすると数分以上、人工呼吸器を外していなければならない。治療中の患者さんに検査のため、判定のため、人工呼吸器をはずすという危険なことをしなければならないのである。「臨床的脳死の判断」では、これは必要がない(危険だからしない事になっている)。

だから、今回報道されているケースも、「臓器移植を前提として法的脳死判定基準」に従った訳ではなく、患者の現在の状態や治療による今後の見込みなどを判断する材料として、「臨床的脳死」を判断しようとしたはずなので、人工呼吸器をはずすことはしていないはずである(あくまで推測)。
『しかし、脳死患者では調節能力が失われる血圧や尿量、体温などが安定した状態が続き、30日目ごろからは、一時的に弱い自発呼吸が戻ることもあった。』

だから、この「脳死判定」と言う言葉は誤りである可能性がある。「脳死と判定」したのではなく、「臨床的に脳死状態であることを判断する条件が揃っていた」と表現すべきではないのだろうか。

『担当医師は、「乳児では、現在の基準で脳死とされても脳幹の一部機能が維持され、脳死と言いきれない例があるのではないか。脳の血流検査など、新たな判定項目の追加検討が必要」と指摘している。』
「自発呼吸の消失」の確認を行った上でこのように言っているのだろうか?疑問が残る。
更に、判定をより正確に慎重にするために、検査項目を追加したり補助検査を加えるのは悪いことではないと思うが、脳血流検査と簡単に言うけれど、時間、金、手間のかかる検査なのである。脳死判定をする医師(多くは脳外科医、加えて神経内科医や救急医など)に更に負担を強いるようなことを進めていけば、脳死判定による臓器提供の道は更に狭くなると予想される。
臓器移植、という医療行為が、本来正しい道だとは思えない。ある臓器が完全にダメになって、薬や手術では治らないのであれば、人工臓器で機能を賄うというのが正しい医療技術発展の方向ではないのだろうか。
ーー

中国で最近起きた恐ろしい事件。
交通事故の父親が死んだのは病院側の怠慢であると、病院側と患者家族側がもめて刃物も絡むような喧嘩になり、長男が病院側の関係者に殴り殺される、という事件があったらしい。
日本ではこんなことは起こらないで欲しい。

ーー
何か、暗いニュースを吹き飛ばすような好材料はないものだろうか、と思ったら、一つありました。
6/11(日)、銀座の山○楽器で「フィンダフェア」というのが催される。
1/22の本ブログにも書いたように、ハンガリー演奏旅行に併せて立ち寄ったプラハで大変お世話になった、プラハ交響楽団ピッコロ奏者でありピッコロ製作者でもある、スタニスラフ・フィンダ氏(愛称、スタンダ)が、銀座の楽器屋さんで、自らのピッコロの宣伝、販売、調整をするイベントがある。
前日、地元で大事な研究会もあるので、どうしようか悩んでいたのだが、素敵な奥様志保子さんも見えるということで、遠路日帰りのとんぼ返りだがピッコロ2本(グラナディラとパリサンダー)を抱えて銀座に行くことにした。
とても楽しみである。

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コメント

(ココログ、メンテナンス中だったんですね)
友人の話。4年前の8月、午後には脳死判定をして種々の計器を取り外しますという連絡を受け、その日の午前中に着くように松本まで行きました。
腿の付け根が突如腫れてきて、リンパの癌から結局肝臓やられて、あの代議士親子間の生肝移植をした医師の(多分そうだったと思う)執刀で、実姉から6月に生肝移植。1週間以内に会いに行ったときは意識があったけど、間もなく眠り続ける日々。数々の計器やチューブに繋がれて、眠り続けて1ヶ月半、8月中旬に亡くなりました。
一度だけ、戻ったんですけどね。
「ああ、長い夢見てたあ」と、ひとこと言いまた眠りの中へ。
記事中の『脳死患者では調節能力が…30日目ごろからは、一時的に弱い自発呼吸が戻る…』に相当したのだろうかと思いました。
実際は自然に(?)私が駆けつけたその日の昼過ぎに亡くなりました。家族に残ったのは高額の医療費(二千万円程と聞いた気がする)。

医療の領域に留まらずあらゆる領域で、諸外国を視野に入れると、民族意識とか、宗教とか、倫理観とか、価値観とか、そして臓器移植ならさらに生命の不思議とか…そういう「法」では基準に括れない領域の壁が最後にはあるんだろうなと思う。
どう考えたら良いんだろう、難しすぎる…

投稿: リスペクト | 2006.06.08 18:53

『最大かつ根本的な問題というのは、地球環境に関する問題を多くの人が、「自分たち自身の問題だ」と認識していないことだと思います。』
と、共同通信社の記者の方が言っていましたが、
「地球環境」を 「医療」に置き換えると、まんまですね。

『エコライフのための6原則』を 『患者ライフ』にしたら、「地域主義」はそのままだと難しいから、(ホームドクターをもとう。)に置き換えるくらいで、他は共通するなぁ。
 これを守ったら、医療訴訟は減り、医療費も抑えられ、救急車や救急の不必要な利用も減り、医療スタッフものびのびと仕事が出来るかもしれない・・・。

>フィンダフェア
演奏家としては、とても楽しみなイベントですね(^-^)
鑑賞専門としては演奏がちょこっとでも聴ければ、
サプライズ!!

次の楽しみは、9月のアフラートゥスの来日でしょうか?

投稿: ふなゆすり | 2006.06.08 20:38

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