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2006.04.10

学生講義

の内容を書くつもりではない。
3年生のチュートリアル授業で『外科全身管理』の中の「脳神経外科的診察法その3:救急患者の診察法」を担当するように言われた。
学生に授業するにおいて、「方法論」なども大事ではあるが、そんな事をグダグダ述べるよりも「自ら考えさせる」ことが大事だと思う。
一番最初に思いついた事は、先日「無罪」判決が出た、通称『割り箸事件』である。
公的な判決が出ているのであるから、事件そのものに直接意見を述べる事は避けたい。

医師は人間であり、完璧、完全な医師など存在しない。しかし世間が、「完璧」「完全」な医師を望みそれが「当然」と思われるのであれば、まず医学部卒業生が受験する国家試験の合格者(=研修医になる者)は、「満点」を獲ったものだけにすれば良いのである。「できて当然」と世間から期待される医師は、皆完璧に優秀でなければならないのだから。
医学部を出たからと言って完璧にほど遠いから「研修」するのであるが、完璧を目指す候補生は完璧に近く優秀でなければ困るから「100点満点」を獲った者だけ医師にすればいいのだ。
そうすれば『ヤブ医者』は世の中から一掃され医療事故は、少なくとも医師に原因のある事故は「0」になるだろう。めでたし、めでたし。。。
(果たして、日本全国で8000人以上受験する中、一体何人が満点を取れるのか、知りたいものだ)

今年の医師国家試験は、丁度第100回というキリの良い数字であった。
受験者8602人中、合格者は7742人で、合格率は90%だった。合格者はおよそ「60点」以上をとった者である。逆に言うと、医学部を出ていながら60点も獲れない人達が1000人近くいるわけである。
日本という国家が与える資格として、試験の6割以上ができたら他人をメスで傷付けたり針を刺してもよい、と言っているのである。法的に認められているのである。一方、医師である者たちは、「4割ミスしてもいいんだ」などと考えながら医療行為をしている訳ではないが、100%出来なければ医療行為をしては行けない、などと決めつけられたら誰も「善意に基づく行動」など起こさなくなると思われる。
基本的に、医療行為というのは、「痛い」「苦しい」「困っている」「心配だ」という他人の状況を改善または消失させてあげる善意に基づく行動であり、それらを為すためには論理的に100%完璧である必要はない。ただ、「間違った事はしない、または避ける」という注意力というか気配りが必要ではある。

救急医療の講義をするにおいて、私は医学部の学生に、「シャーロック・ホームズ」のようになることを心がけるように話をするつもりである。相手の言動を注意深く観察し、またはもの言わぬ相手(=意識障害患者とか失語症とか)の「心の叫び」に耳を傾け、周囲の状況や背景を鋭く洞察して、「今必要な事」を判断し、的確にそれに対応する、ということ。
文字にするとぼやけてしまうが、注意深く思慮深く行動力があれば決して難しい事ではないものの、救急の現場でこれができるなら「ほぼ」完璧に近い。

「ほぼ」と書いたのは、これで「完璧」ではないからだ。なぜなら、人間は完璧ではないから。
医学の事を全分野について、全ての病気の病態について熟知していて、どんな緊急事態にも対応出来る医師など存在しない(と思われます)。
どうすればいいのか?
『三人よれば文殊の知恵』である。一人で一生に経験出来る疾患には限りがある。手術の経験にも限りがある。正しい判断、診断、治療を行うために、複数の医師で知恵と技術と経験を出し合い、情報を共有し、事に当たる事が大事である。そうすると「神の手」を持った一人の医師よりも、「普通の能力」の3、4名の医師のチームの方が良い結果を出せる事だってありうる。軽々に「チーム医療」などというつもりはない。
どちらかというと「当たり前」のことなのだ。己を知ればわかること、できることである。
自分の力、限界を知っていれば、自分一人で何でも出来る訳ではない事、自分には分からない事がたくさんある事、出来ない事がたくさんある事は当然分かるはず。でもそれは決して恥ずかしい事ではない。出来る人、分かる人を呼び集めるなり、電話で知識を伝授してもらうなり、相談するなりすればいいことなのだ。
「報・連・相(ほうれんそう)」だ。

「診察法」などという方法論よりもこういう考え方を学生には伝えたいと思っている。

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コメント

また、結局、長くなりました m(_ _)m

ひげ鯨さんの記事をこうやって読んでると、私には医師ってとってもいい仕事に思えてくる。いくらグチ?苦言?を呈されていてもなお、って感じ。(種々の職場環境の問題とかは無視してですが)イマジネーションがすごく沸く仕事だと。そういう仕事をやりがいのある仕事って言うんだと思う。

そしてなんたって強みなのは、世の中様変わりしていく中でも変わらずに絶対的に必要とされてる職種だっていうこと。
その価値と重みを自覚して医学生には精進して欲しいと願います。さあ、胸張って頑張って、りっぱな仕事だからねって。相変わらず浅い読みしかできないけど。

世間って、案外実体ない浮遊物かも。風評であっちに飛ばされ、こっちに飛ばされ。結局は個VS個の積み上げかなって。

私、自分の主治医が一番とか、すべてお任せとか、思ったこと無いです。これってカワイクない患者ですかね、あはは。私、医師の能力を比べる機会・術など持ち合わせてない。好きなタイプ、嫌いなタイプはある。ちゃんとこっち見て、分かるように教えてくれて、その判断に納得できれば、いい関係で、好きな信頼できるタイプになる。そうして幸運にも診察室で対峙する先生方の事、私は好きです。

すっごいイヤな奴なのに、医師として優秀ってあるのかな。ブラックジャックだって、法外な額を請求するけど、いい人だ。
ああ、結局最後は茶化してしまったわい。


投稿: リスペクト | 2006.04.11 15:40

試験の点数では面白い話を聞いたことがあります.昔ある大学の脳神経外科がある年度の卒業試験に脳神経外科専門医試験の問題をそのまま出題するという暴挙に出たそうです.当然「高下駄」を履かせないと落ちる学生が沢山いたそうです.驚くべきはその卒業生たちの謝恩会で脳外の教授が話した内容です.「私が解いても8割ほどしかできない問題で,私より良い点を取った学生が数名いて,最高点はなんと96点だった」と舌を巻いたそうです.ちなみに「8割ほど」はかなり「ミエ」が入っているのでは,というのが周囲の評判だったようです.たかが選択式の試験に過ぎないとは言え,専門分野で一部の優秀な学生に劣るその教授も脳神経外科学会会長をつとめ,今は某有名医大の学長様で「大先生」です.割り箸事故でも,90%以上救命可能と検察の意に添う証言をした大先生もまた脳神経外科学会会長経験者らしいですね.なんだか・・という気分です.

投稿: ヤブ医者 | 2006.04.12 01:29

そうですね。
自分が学生であったときに聴いた講義で 今でも覚えていることなんて ほんの僅かなことのように思います。
なんとなく雰囲気だけ覚えているとか、
何か深い意味がありそうだが、よく分からなかったことは覚えているとか、

実際の現場で 日常やっていることを如何にわかってもらうか、
考え方、現場での大雑把な方法論とでもいうものを講義するというのは、易しいようで大変なことでもあると思います。

自分は大勢の学生さんを相手にする話をする機会はほとんどない身ですが、少人数来ても、寝ていたり、どこまで分かっているんだか、ということが多いのが現実です。
100人の学生の内で、10人にでもしっかり伝われば、きっと有意義なことですよ。

投稿: 内科勤務医です。 | 2006.04.13 20:25

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