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2006年1月

2006.01.31

盤石

 今日の手術は、小脳に出来た大きな2個の「脳膿瘍」でした。
 というか「膿瘍」だろうとの予測で手術を組みましたが、抗生物質に抵抗性で進行性に大きくなっていたので、がんの転移による脳腫瘍と、脳原発の悪性腫瘍の可能性も捨てきれずにいました。
 手術中、膿瘍(=膿み、うみ)が出てきた時にはギョッとしましたが、同時に患者さんのためにはホッとしました。術前検査である程度「癌ではない」と確信がありましたが、悪性の原発性脳腫瘍の可能性もありましたから。
 手術は予定4時間のところ、3時間53分で終了。輸血なし。術後覚醒良好。すぐに御家族も面会し全員の名前をきちんと応える姿を見て、御家族の何人かは涙されておりました。
「ありがとうございました」
と言われて嬉しくない訳ありません。こちらは仕事。プロとしてのノルマをきちんと果たしただけ。いってみれば当たり前の事をしただけ。「神の手」は持っていませんが、当たり前の事を当たり前にやるのには「神の手」は特段必要ないと思います。ただ、きちんとやる事、全てを「盤石」に冷静に落ち着いて。
 大事なのは術後の管理と治療であることは明白。これをきちんとやって元気に独歩で退院して頂いて初めて「良かった!」と言える訳です。全ての面に渡って注意深く盤石な対応が必要です。
 でも、多分Ave Mariaの祈りがききました〜! v(^^)

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2006.01.30

偶然?必然?

 昨日は全国的にお天気だったらしく、こちらも暖かでかなり雪も融けました。
 一昨日はオケの練習にはるばる行ったのですがお天気悪く、月山新道は吹雪いていてブワ〜ッと風が吹くと雪が舞い上がって一瞬視界がほぼ0になりました。到着までに時間がかかる事と食事を摂る事を考えて、午後3時半に出ました。路面が乾いて交通量の少ない時なら5時には着きます。
「道路はここにあるはずだ」
通り慣れた道ではあるし、ナビも搭載しているので時速40km/hより少し落とすくらいで走り続けますが、この吹雪の中では初めて通る人や気の弱い人では車を路肩に停めたくなると思います。しかし、その路肩自体が雪で存在しない状態でどこに停めたらいいのか、という道路です。
除雪車によって強制的に路肩から山側の壁と谷側に寄せられた雪は3mはゆうに越しているでしょうか?真っ白な中に真っ白な壁と真っ白な路肩と真っ白な道路なのです。中央線の黄色もほとんどの区間で見えません。
 路肩の雪の壁にはおよそ1.5mくらいの高さに青い塗料の帯状の線がつけられていました。除雪作業と同時にこの線を書いていると聞きました。これがないとどこが路肩なのか見えないのです。
 こういう冬山の吹雪の道路を運転する場合、頼りになるのは自分の前を走っている車。前の車そのもの、またはそのテールランプを頼りに走ると楽です。土曜日も最初そうしていたのですが私の前の車が根性なしで(笑)、だんだん遅くなってきて30km/hくらいで走っていたので業を煮やして抜き去りました。
 爽快〜!って、私の前には車がなく、先頭車両になりました。頼る車がいなくなった事に気付きました。でも、所々微かに見える中央線の黄色と先ほど述べた路肩の雪の塊につけてある青い線、そして通り慣れた道路の記憶とナビを参考に私は普通に飛ばしました。
 着いた頃には首が痛くて肩が張っていました。緊張して走行したからです。
 
 前任地の病院にちょっとお忍びで(?)顔を出してみました。ICU, HCU, 4階、6階と脳外科関連の病棟を回り、「あれ〜!どうしたんですか?先生!」という看護師さんには「あ、新年の挨拶です!」といって、ちょっとした焼き菓子をお土産に渡してきました。
 4ヶ月経つとは思えない感じで、まだ昨日まで働いていたような気がしました。私の後任の先生とは瀕回に連絡を取っているので大体の様子は知っていましたが、去年の9月の時点で入院していた人でまだ入院中の方。ずっと前からいたのにこの4ヶ月の間に退院(転院)した方、外来通院中だったのに新たな発症で入院している方、などいろいろ気になりました。
 特に、去年の2月上旬発症で(もうすぐ一年経つんだ)大手術を行った、椎骨動脈解離性脳動脈瘤破裂による重症クモ膜下出血(来院時呼吸が止まりそうだった)の方は、クモ膜下出血による虚血とその後に生じた水頭症が原因と考えられる後遺症を呈しながらもリハビリを頑張っていてもうすぐリハビリ専門病院に転院の予定になっていました。末梢性(核下性)顔面神経麻痺と外転神経麻痺という第四脳室底の障害があって、最初の出血とその後虚血で生じていた小脳症状もあいまって、発語や嚥下、歩行などにまだ不自由な点がたくさんあるけれど、意識はハッキリしているし会話がちゃんと出来ました。
「あ、、、せんせい、、、」と私を認識してくれたのも嬉しかった。頑張って下さい!

 アマオケの練習時間は19時から。まだ時間に余裕があったので、食事をすることにした。久しぶりにまあまあいきつけだった寿司屋の暖簾をくぐってみた。カウンターは空いていたのだが、「予約」となっている。若大将が私に気付き、
(若)「あれ?先生、今日は?」
(私)「うん、ちょっと新年の挨拶によったんだけども、一人なんだけどな〜」
(若)「あれ〜、先生、すみません!今日は、カウンターも小上がりも予約で埋まってまして、しかもみんな18時からなんですよ〜。なんともならないっす。申し訳ありませんです〜〜!」(その時、17:50だった)
(私)「う〜ん、残念だな。また来るよ、、、」
 土曜の夜とはいえ、この天気の悪い、足元の悪い日に予約で一杯なんてさすが『鈴○』である。

 さて、夕飯どうしよう。練習前だからあまりお腹一杯になってもな〜。
三元豚で有名なトンカツ屋にしようかなとも思ったが、頭が「お寿司モード」になっていたので、もう一軒お気に入りの寿司屋『だ○ま』に行ってみるとそこはカウンターも空いていた。
(私)「車なのでお茶で、あと30分位しか無いので最初から握ってもらって、そんなにたくさん食べなくていいんだけど、お任せで、、、」
目の前に今が旬の寒ダラの白子、すなわち「きくわた」が新鮮な輝きを放って私を誘っている。
(私)「これも、、、」

Dadamiアサツキと紅葉おろしをのせたポン酢仕立ての寒ダラの白子(キクワタの他にはダダミとも呼ばれる)、冬の海の最高の美味を味わっていると、目の前の笹の葉の上に、小振りの握りが少しずつ並べられて行く。
キンメダイ、ヒラメの縁側、、、かまトロの炙り、、、地物のサバ、、、

 ああ、旨い!やはり、冬の魚は日本海側だ。
 庄内沖の地物を中心にいいネタがはいっている。よく富山湾が最高とか福井沖がどうとか蘊蓄を聞く。しかし、私が知っている「新潟生まれ」の寿司屋の主人は、修業時代の東京はもちろん全国いろいろ回ってみて、一年を通してもっとも寿司ネタとしての種類が豊富で旨くてカニも貝類もたくさん採れるのは庄内沖だ!と縁故もない鶴岡に店を持った位である。
DongaraJiruでました!冬の庄内の味覚の王様!
「どんがら汁」です。荒れる冷たい庄内沖の日本海で丸々と太った鱈を余すところ無く丸ごとの鍋に使って味噌仕立てにしたものですが、車でなければ日本酒を飲みたかったな〜。
(主人)「ちょっと珍しいものがはいってましたんで、、、」
と、なんと「天然もの」のホタテの握り。ホタテ貝、特に嫌いではないが、わざわざ寿司ネタに握ってもらう事はほとんどない。市場に出回るホタテはほとんどが養殖なのだそうだ。天然物はキモも食べられる、ということで写真奥左側のホタテにはベロのようにキモが付いていましたがこれが味のキツくないレバ刺しみたいな滑らかな食感で甘味が感じられた。その隣りはキクワタの握りである。新鮮なものしかこんな風に握っては食せない。

 ついつい食べ過ぎた。8貫くらいにしておこう、と思って行ったのに、気がついたら14,5貫食べた上にキクワタとドンガラ汁である。(^^;;;
お店を出ようとしたところである人に出会った。まあ、世間一般的に言えばあまり聞こえの良くない表現かも知れないがいわゆる飲み屋の女の子である。なんだろ、英語でいえばフロアレディーなんて呼ぶ事もあるらしいが、仕事が仕事だから誤解される向きも多いと思うが実際はきちんとした子である。そこのママさんとその子(と言っても30は超えている)と3人で一度だけ食事に行った事があった。いつもお客さん相手で気を使って飲めないのでその日は飲みたい、というママの願いを叶えるため、私が運転手になってそのママさんと女の子は昼間っからワインを飲んでいた。(^^
 そのお礼に別の美味しいお店(そこもクイシンボの私は良く知っている)に連れて行ってくれるという約束をして、1年半以上経ち、その間私は転勤してしまった。知らない間にいろいろ世間は動く。なんと当日を最後にお店を閉めるという。流行っていない訳ではなかった。むしろ逆でいつもお客さんが一杯で、電話してもはいれないと断られた事もあった(名乗っていれば別だったかも知れないが)。
「え?!お店閉めるの!今日で終わり?え、え!じゃあ、後で顔出す、かも、、、酒飲めないけど、、、」

という訳で、アマオケの練習後、仲間と溜まり場の喫茶店『山○花』に行ってお茶を飲んでひとしきりだべってから、お店に顔を出してみた。予想通り、閉店を華やかに演出する花がたくさん届けられていてお客さんは溢れんばかり。田舎の地方都市の、残念ながら淋しく衰退気味の夜の街、どこのお店も閑古鳥が鳴いていそうなのにそこだけは「ここは六本木?」というような賑わいだった。ま、お店のスタッフと客が「の〜」「の〜」言っているので庄内である事は間違いない。
なんでこんなに人気のある店を畳むのか。いろいろあるんだと思う。ママさんは真相を打ち明けてはくれなかったが若い女の子を使ったりするのに少し疲れたのだと言っていた。ばったり出会ったがためについ顔を出してしまい、ために帰るのが遅くなり、深夜に雪の月山新道を通って戻る事になってしまった。
でもほとんど対向車もなく、雪も降っておらず、来た時のような吹雪も納まっていてスムーズに運転出来た。

 人間は多くの場合自分の行動に意義を見いだしたがるものだと思う。単なる偶然に振り回され続ける人生なんて大変だし、自己のアイデンテティを失いがちになろう。しかし、単なる偶然に対してこじつけで意味や意義を持たせすぎるのも良くはないかも知れない。私の場合は、『自己愛型人格障害』傾向なので、この場合も、吹雪で運転が大変で少し遅れた上、前任地の病院に顔を出したため、なじみの寿司屋に入れず別のお店に行ったら生まれて初めて「天然もの」のホタテを握りにして食べる事が出来た上、その店にその時間帯に行かなければその夜でお店を閉めるというスナック(って分類するのかな〜?)の女性スタッフに会う事もなく、閉店当日にお店に行く事も無く、もしかするとそのママさんとも二度と会う事も無かったかも知れない。
 しかし、その夜、ママとお話をしたことで、もし私が将来病院を辞めて独立するんだったら、とか、いろんな話が出来て有意義だったのである。まあ、すべて仮定の話なんだが、福岡生まれの私がなぜ今置賜にいるのか、単なる偶然の積み重ねではあろうが、それに意義を、大袈裟に言えば「神の御意志」を感じているのである。

(人生に偶然ってないんじゃないかな?すべて必然なのでは。。。)

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2006.01.29

日常の救急

 変なタイトルかもしれませんが、脳神経外科は一般に脳卒中、頭部外傷、脳腫瘍、その他をあつかう診療科で、特化した研究施設ではない一般市中病院では扱う患者さんのほとんどが脳卒中と外傷です。
 ですから「緊急患者」「緊急入院」という『非日常的』なことは、我々一般市中病院勤務の脳神経外科医にとっては『日常』のことです。「日常の事」ということは、いつものこと、毎度、またか、、、という意識をどうしても生みます。人間は怠けやすい動物。一度楽を覚えると、一度手抜きを覚えるとなかなか元に戻るのは難しい。
 生命に危険が及ぶ可能性のある脳卒中などの『非日常』のものを『日常』に扱っていると、それ以外の非日常的疾患や症状、たとえば転んで足をくじいたとかもっといえば風邪をひいて熱が出たなどという、とりあえずは生命に影響などまずなさそうな、軽症またはおとなしくしていれば自然に治るような疾患を軽視する気持ちも生まれかねません。私の心の中にも、どうしてもそういう気持ちが生まれる事があります。そういう自分の心の奥底のぼやきを隠しながら「救命救急センター」で日常に見られる患者さんを「時間外」に診察するのも、我々の役目ではあります。
 この病院にある『救命救急センター』は厚生労働省から認可されて全国に170位設置されているセンターの一つです。ですから、緊急患者は「全て」受け入れます。断る事はありません。何でも診ます。
 ということは、かなり重症の高エネルギー外傷や急性心筋梗塞やクモ膜下出血を始めとする脳卒中はもちろん、急性腹症(強い腹痛)や風邪で熱を出した人、喉が痛い人までなんでも診る事になります。

 いわゆる「たらい回し」を回避するために、救急患者を受け入れる病院、これまでは「救急指定」を受けていた病院などの分類を見直すらしいです(ニュースソース、Asahi.comから)。
 病気やけがの緊急度に応じて「救命救急」「入院できる救急医療機関」「初期救急」の三つに区分し、救急の機能別に基準を明確にすることで効率化を進め、患者を受け入れてもらえない「たらい回し」をなるべく少なくする狙いがあるそうで、08年度からの実施を目指して省令を改正すると報じられています。
 都道府県知事が認定している救急病院は05年4月現在、全国に4712カ所。しかし「救急告示」ができる条件としては、(1)救急経験のある医師が常時診療している(2)X線装置・心電計・輸血などの設備がある(3)救急専用や優先的な病床が確保されている、などしか定めていない。都道府県では、医療法による医療計画のなかで救急医療体制を、患者の病状などから初期、2次、3次の医療機関に分けているが、施設基準は抽象的であった。 総務省消防庁によると、救急車で搬送したものの収容困難として他の医療機関に転送された例が、03年で3万4261回あったとのこと。中にはいわゆる「たらい回し」もあった。救急病院にはなっているものの医師などの不足から、毎日は受け入れられない病院、診療所もあるため、実態に合った制度に見直すことにしたと報じられている。
『厚労省の検討案では、救急病院を、生死にかかわる重い患者を対象とする「救命救急センター」、入院が必要な急患を対象とする「入院機能がある救急医療機関」、軽い患者を診る「初期救急医療担当」に区分。3年の更新制にする。「救命救急センター」と「入院救急医療機関」は、搬送患者をすべて受け入れることとし、「年間365人以上を受け入れる能力と実績」といった数値基準を盛り込むことなどを検討している。
 また救急医療に携わる医師の労働条件も厳しいため、「救命救急センター」は、夜間休日の交代勤務の導入を明記する。
 しかし、機能別に区分することで「基準をクリアできずに、認定からはずれる病院が続出するのではないか」という懸念がある。厚労省は、細かな基準は今後、自治体や医療関係者と詰める必要があるとしており、地域事情などに応じた措置も検討する。』

 現実に救命救急センターにどのような重症患者が運ばれて来るのかを考えると、意識障害・神経障害を伴う脳卒中、心筋梗塞などの心臓発作、交通事故などの重症外傷、急性腹症などの生命に危険が及びうる内臓疾患、重症の小児疾患(高熱、てんかん、その他)である。うちの救急外来で活躍している医師は、当然脳外科医、整形外科医、循環器内科医、消化器内科外科、小児科である。あまり頻繁にコールされたり救急外来で活躍していない科としては(通常活躍していても、救急外来ではそれほどでもない、という意味です)、眼科、皮膚科、産婦人科、精神神経科、泌尿器科、耳鼻咽喉科などがあります。この差は、疾患の頻度とその生命に及ぼす影響によって生まれるだけで、何も皮膚疾患を軽視して良い病気といっている訳ではありません。
 上記の現状から考えると、厚生労働省でいっている「搬送患者をすべて受け入れなければならない病院」は、必ず脳外科医、循環器内科医(+心臓外科医)、などがいなければ問題です。意識障害のある患者を普通のお医者さんは扱えない(というか扱うのを怖がりますし、看護師も恐れます)。脳外科医だけは自信たっぷりに意識障害のある患者を診察し診断し治療します。その患者さんの頭の中で何がおこったのか、今何がおきているのか、これから何が起きるのか、を考えそれに対して策を考え実行するのが『脳神経外科医』です。手術顕微鏡のしたで「神の手」と呼ばれるような繊細な手術手技を実施するだけが脳外科医の仕事ではありません。
 そして、その我々が脳神経外科単科だけで、ここの病院でいえば、平均的に一日1.5〜2人の救急患者を診察し平均1.5人を入院させているのです(軽症の外傷などでは帰宅する事も多い)。それを一つの病院で、脳外科医2人とか3人でやっているのです。
『救急医療に携わる医師の労働条件も厳しいため、「救命救急センター」は、夜間休日の交代勤務の導入を明記する。』とありますが、これは救命センター付きの「救命救急医」のことであって、一般診療科にはいる脳外科医には適応されないと思います。我々の救命救急センターには、常勤の救急医がいて、朝から晩まで忙しく働き回っています。何科の患者でもどんな症状でも診察し、初期治療を行い、担当すべき診療科に回しています。
でも、夕方5時を過ぎる時間外と土日などの休日は、原則的に彼らはお休みです。
 その間の、「救命救急センター」は誰が診ているのか、と言うと、いわゆる「病院」宿直医です。日直医の場合もあります。本来、日直、宿直医というのは、休日や夜間に「院長代理」として「病院」を守る医師のことで、病院内の緊急事態に備えて病院内から一歩も外に出ずに「番」をしているのが役目なんです。「救命救急センター」の仕事をする事が役目ではありません。
 ところが、これが「日常化」してしまっていて誰も疑問に思わず、救急外来の看護師などは「救急患者さんですよ、早く来なさい」見たいな態度で我々宿直医をコールします。本来の「病院を守る」仕事に並列して、時間外に来た患者さんを診察するという「エキストラ」の仕事なのですが、世間一般的にもまた病院内スタッフも「当直医は救急外来を診る医者」というような「誤った」観念が日常化しています。 
 当院では、内科系と外科系の医師を一名ずつ、宿直医、日直医にあて、さらに「管理日直」という名前でそれらを補佐したり緊急時に手伝える体制をとっています。加えてICU日直という名前で休日の日中だけもう一人医師が日直をしているので、休日の日中で4名、平日・休日ともに夜間は3名の医師が泊まっています。しかし、「救命救急医」はこの時間帯にはいません。ですから、救命救急センターに来る、本当に救命を要するような患者さんから、2、3日前から風邪をひいて熱が出たという患者さんまで、幅広い疾患を扱う役目を負わされます。
 そして、宿直日直医は、経験の少ない耳鼻科医であったり皮膚科医であったり精神科医であったりする事もあれば20年以上のベテランの脳外科医であったり整形外科医であったり循環器内科医であったりすることもあるのです。これが救急の日常です。本当は、救命救急センター付きの「救命救急医」が最低でも6,7人いて、一勤務帯あたり最低でも3名くらいで、日勤、準夜勤、深夜勤、休日のローテーションをしながら彼らが全部診て、疾患によって担当診療科にバトンタッチすべきなのです(TVの『ER』のように)。
 しかし「日常の救急」はそうなっていません。
 なぜできないのか?
 医師不足、特に救命救急専門医の不足。財源不足、救命医や救急疾患を扱う担当診療科の医師を雇う人経費などが足らない。しかも今、医療費抑制のために医師の技術料を中心とする「診療報酬」保険点数を下げています。
 政府や厚生労働省が混乱しているように見えるのはわからないでもありません。
 医療は進歩している。技術も進歩し体制も進歩している。患者さんは治療成績という結果だけではなく、病院の新しさ、部屋の美しさ、個室の数、設備の充実度といったアメニティやプラスαの価値を求めている。それなのに、「保険点数」「診療報酬」という制度はあまり変わっておらず、医療費を抑制するために点数を下げ医師や病院の収入を減らす方向へ動いている。財源は不足している。医師不足の対策はやはり金。
 特に専門の医師を配置する人件費がかかる救命救急センターをしっかりさせようという省令の改正を目指しているのに、財源は減らし病院の収益を減らそうとしているこの矛盾はどこから生まれるのだろうか。

 おそらく、厚生労働省の中にたくさんの部門があり、その部門別に与えられた課題を国家公務員として真面目に遂行するにとどまり、大きな森全体を見渡せる人やそういう役目の人がいないか、いても能力が不足しているのではないかと危惧する。
 我々現場の医師の「日常の救急」を、厚生労働省のビルの中にいる人達につぶさに見てもらいたいものである。

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2006.01.27

Happy B-day!

 今日は、御存知の通り、モーツァルトのお誕生日。
 検索エンジンGoogleの文字まで、モーツァルトバージョンになってました。
本名Wolfgang Amadeus Mozartで、映画『Amadeus』によってその名前を認識した人も少なくないと思う。しかし、アマデウスというのは、俗称のようなもので本当の名前はJohannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozartだとされている。
 ウィーン土産、オーストリア土産と言えば、『モーツァルト・クーゲルンMozart Kugel』。
街中でも空港でもいろんな種類(2個入りから数十個入りまで)が売っていますが、ほとんどがMiraball社製です。その他にReber社製とかあるのですが、本当はモーツァルトの生地ザルツブルグのフェルストさんが作ったフェルスト社製のクーゲルンが本家本元です。フェルストさんが無頓着だったのか、その時代に知的所有権という考えが無かったのか、製法も名前も商標登録していなかったため、いろんなモーツァルト・クーゲルンができたのだそうです。でも本家本元のはザルツブルグでしか売っていないらしく、今回の旅行のお土産はどうしてもMiraball社製になってしまいました。自分では一個しか食べませんでしたが病院内各所にお土産として配るには便利なものでした。
「甘いだけだよ」と聞いていたのであまり美味しくないのかと思っていましたが食べてみるとそんなことはなく、まあまあでした(確かにあま〜〜いのですが)。
オーバーラーのチョコも買ってきたのですが、これは甘さ控えめで上品な美味しいお菓子でした。ただ日本には今はおいしいチョコがたくさん(たとえば六本木のHとかね、小さいのに一個1000円とかしますよね!)ありますし、地元田舎の小さなケーキ屋さんでも腕に覚えのあるチョコラシエがいて、美味しいチョコレートケーキやチョコ菓子を売っています。ウィーンまで行ってわざわざ買って来る程のものでもないなと思いました。

 もう一人、笛吹きとして憧れの存在である、ベルリンフィルハモニカーの首席フルート奏者、エマニュエル・パユ氏もモーツァルトと同じお誕生日なんです。
 有名な人とお誕生日が一緒だったり、出生地が一緒だったりすると、意識するしないにかかわらず影響を受けると思います。もちろんパユ氏に才能があった上、常人の及ばぬ努力をしたからこそ世界トップレベルのフルーティストとして高い評価を受けるようになったのでしょうが、音楽家としての彼のモチベーションの中にモーツァルトと同じ誕生日だという事実から鼓舞されるものはあったと想像します。
 万年筆を買ってきたと報告したマエストロ故カラヤンは、モーツァルトと同じザルツブルグの生まれでした。カラヤンが音楽家、指揮者として歩みだす前に子供の頃音楽を始め習っていた時に、自分の生まれ育った場所は「モーツァルトの生地」だという事実が影響を与えたことは否定できないと思います。

 人が何かを始めるきっかけや、それを究めようと努力する上には、本人の強い意欲、意志が必要ですが、そういった「意志」というものは全く何もないところから生まれるよりも、親がやっていたとか、先輩がやっていたとか、友人がやっていたとかいう事の影響はあるでしょう。
 私がフルートを始めたきっかけは、今はプロオケで活躍しているある友人がフルートを吹いていた、かっこいいなと憧れた、これだけです。ですがこれは私の人生に大きな影響を与えました。
 転校して彼と会わなかったら私はフルートに出会わなかったかもしれません。今のようにアマオケなんてやってなかったかもしれません。ハンガリー演奏旅行なんて行かなかったかも、チェコフィルに友人なんて出来なかったかも、音楽を通して多くの友人を得る事など無かったかも、と考えると「きっかけ」って大きいな〜、とモーツァルトの誕生日に改めて思います。
 いろいろな事に感謝したいと思います。
 お誕生日、おめでとう!
 

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2006.01.26

近い記憶、遠い記憶

 先の日曜日、出先から帰ってテレビをつけたら『N響アワー』をやっていた。それにつづいて『芸術劇場』があるのだが、何だかデジャブというか偶然の連続だった。
 話題としてでたのは、(かけあしの紹介だったが)まず、マエストロ、ジャン・フルネの引退公演の話し。マエストロの事について私が云々する資格は無い。記憶に残るのは、2003年のチェコフィル日本公演でマエストロが振ったラヴェルの「ボレロ」。若々しく気持ちのよい演奏だった。90才?!え!っという感じであった。アフラートゥス木管五重奏団の団員のうち2人は現在はチェコフィルの団員ではないが、あの時はフルネの指揮でロマン、ヤナ、ボイト、オンジェが吹いていたな〜、と鮮烈な記憶が蘇って来た。バボちゃんはベルフィルなんでいなかった。
 フルネのインタビューの内容が大変興味深かった。フランス人として、フランス音楽を世界に広める大使としての意識は強いけれど、肩に力のはいった物腰ではなく(92才なんだから柔らかくて当然かも知れないが)、本当に自然に「私はフランスの音楽に抱かれて、身体をゆだねて生きている」というような雰囲気だった。ドビュッシーの「海」似ついて触れたとき、「音楽をどう分析するとかそんな風に考えなくていい。ただ「海とはどんなものか」を考え感じるだけ。」と表現されていた。マエストロフルネの事を考えるとき、この方は、指揮者としては有名であるがパリのコンセルヴァトワールではフルートを学んでいたという事を知る人は多くないと思う。
単純に憧れる。

次に話題になったのが、先のショパンコンクール。優勝は、クリスチャン・チンマーマン以来30年ぶりにポーランド人のラファウ・ブレハッチ。この方、浜松国際では確か2位だった。響ホールにも来た事があって、社交辞令だろうけれど「田舎が好き」「もう一度庄内に来たい」と言っていました。
3月のソルノークフィルとの共演でもショパンのピアノ協奏曲第一番をやるのですが、プレハッチ君だったら凄いのにね(ソリストはすでに決まっていますが)。
 本選の模様も少し放送されたが、Pコンが出て来ると自分の身体と心が過剰に反応してしまう。あれだけ緊張して気合い入れて集中したのだから、20日過ぎてもまだ鮮烈な記憶の残る曲である。

 最後にベルフィルの2005年のヨーロッパ公演の話題が出た。毎年、ギリシャの神殿跡とかいろいろな名所で演奏を行っているのだが、今回はなんとハンガリー国立オペラハウスだった。私がオペラデビューした、あのブタペストのオペラ座である。ああ、あそこ、あそこの席に座ったんだよ。あー、あの通路歩いてあの天井をこの目で見たよ、という映像であった。
 ほんのわずかな間にこれだけ最近の自分にかかわるものばかり映像と音で出て来ると興奮せざるを得なかった。本当に私のとっては鮮烈な記憶なのだ。

 人の記憶のメカニズムというのは、複雑であるが、あえて単純化するならば、1)外界からの刺激による入力、2)その信号の記憶装置への定着、3)短期間の記憶の保持、4)長期間の保持、5)想起(思い起こす事)ということになる。このどの段階が障害されても記憶はあやふやになる。
 外来によく「最近ボケて来たので心配です」という方が来られる。しかし、神経学的にはまったくボケなどない。どういうことかというと、財布をどこに置いたか直ぐ忘れる、とか、さっき話していたことがなんだったかすぐに忘れる、というようなことである。このような事は、その強弱はあっても誰にでも起こる事であり、私も時々経験する。 
 ボケではない、記憶の障害ではないとすると何なのか?それは、まず1)または2)の段階の問題なのである。つまり何か他の事に気を取られていたり、別のより大事な用件がはいってその直前の事を忘れてしまうのであるが、記憶すべき事柄を入力する刺激が不十分だったり刺激そのものがなされていなかったり、されていても記憶装置へ定着する前の段階で他の事象によって取り除かれたりするためである。
 なぜ今回の「芸術劇場」で紹介された事柄が「私にとって」鮮烈な記憶であったかと言うと、1)2)の段階から関係する。そこには、強い緊張とか、苦しみとか、その後の大きな喜びとか楽しみとか笑顔とか、感激とか感動と言った、「心」が強くはいっている。英語で言うならemotionが強くはいっている。強いemotionのはいった事柄は、「覚えよう!」と意図しなくても、努力しなくても、自然に頭の中に入りクリアに定着し感激とともにすぐに蘇り(短期記憶)、喜びとともに長期保存され、幸福感とともに容易に想起する事が出来るのである。

 よって、物事を記憶する際には、記憶法とかいろいろなテクニックももちろんあるけれど、それを知る事、覚える事が感動的であったり楽しい場合は、苦もなく頭にはいり容易に忘れる事がないのである。ついさっきの事(短期記憶=近い記憶)でも、むか〜しの事(長期記憶=遠い記憶)でも、感情、emotionを伴ったものはいつまでも鮮烈に蘇るのである。

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2006.01.25

通常営業

 旅日記を書いている間、仕事をさぼっていた訳ではない。
1月13日に帰国して、14日から数えて1月は18日間あるが、そのうち7日当番で1回の当直と1回の日直がある。「時差ボケがあるだろうから休め」と言われた14, 15日を除くと16日間で7回の当番は頻度が多い。
 ずっと休んで(遊んで)いたんだから私に少し加重となるのもやむを得まい。

 帰国してからの緊急手術はなぜか慢性硬膜下血腫ばかりで、私が手術に入らなくてもすむ状況もあった。昨日「旅日記」を書き終わって、さあ、今日から何を書こうかな〜と考えていたらクモ膜下出血の急患、で夕方から(日中は予定手術が一杯でとても麻酔科医の手が回らない)緊急手術である。やっぱり神様って見てくれているのかな〜。
「そろそろ本格的に働かせてもいいか」
という感じなのだろうか。来週はすでに大きな予定手術が2つ入っている(うち一つが私の執刀)。

 旅日記で写真を掲載したので、恥ずかしくも世間様に自分の顔をさらす事になってしまった。友人の一人が、顔出して大丈夫なの?、と心配してくれた。今後、極力きわどい医療ネタは避けて行こうと思っている。これまでも「個人情報保護法」を念頭に配慮したつもりではあるが、病院や担当医が判明すれば記事の内容から患者さんが特定出来ない事もない。今まで書いて来た事を消去するつもりは無いので何か問題が生じない限りはこのまましばらく置いておくつもりである。
 ただ、今までのこのブログの記事を注意深く読めば(いや、別に注意深く読まなくても)いくつかのキーワードから私を特定する事は容易であろう。私としては、病院、患者、仕事上の仲間などを批判するような事は避けて来たつもりではあるが、たとえば「時間外労働に対する手当が強制的にカットされている」とか「診断書の書き換えを依頼というよりは半ば強要するようなこと」などは微妙に病院批判、患者批判をしているとも取られかねない。
 私は、現在の医療事情を特に医療職の立場から、世間一般には「医者=金儲けてミスをして悪い奴」というような変なイメージを持たれかねない極論を排除し、実際には我々がどれだけ夜中や休日に働き、手術に際してどれだけ緊張して真剣に臨んでいるか、にもかかわらず「医療費高騰の抑制」という経済至上主義的な発想から、医療費を抑制するために昔より向上しているはずの医師の技術料を減額し、夜中に働いたのに「働いてない」事にし、更に「患者中心」という名の下に「患者の要求には可能な限り応える」ために必ずしも必要ないかもという検査を行い、欧米の脳外科医では決して扱うはずの無い「ストレスが原因の頭痛」の患者を診察し、その一方で搬入時に呼吸が停止しているような超重症の患者まで扱い、へとへとになっているのに航空機会社の客室乗務員やホテルのフロントなどの人を呼んで「接客術」とか「マナー」の講義まで受けさせられ、あげくに実際よりかなり誇張したり『ないことないこと』を記された「患者様の声」という投書を見せられたり、それでも外来や病棟では明るい笑顔で患者さんはもちろんナースにも接しないと、場合によってはパワーハラスメントと言われたり、という悩み苦しむ『実態』を世間の方々にすこし理解して頂ければ、という感じで書いている。
 確かに、ここ10年位で上記のようにいろいろ変わって来ているが、逆に言うと、今までがおかしかった面も確かにある。「医者が言ってるんだから黙って聞け」的な風潮があった事は事実だし、私にもそのような言動がなかったとは言い切れない。我々も変わらなければならない。変わるためには外圧は必要である。
 ただ、圧力だけでなく、変われた人に対する報酬というか、お金じゃなくていい、incentiveの上昇するような何かが無ければ、こころある医師もつぶれて行きかねない。実際、周りにも「あ〜、あの先生も開業するのね〜」という医師を何人も見て来た。
 大学で研究を続ければ素晴らしい業績をあげられる能力のある人、病院勤務で優秀な実力を発揮しこれほどの実力のある医師がこんな田舎の病院にいるのかというような人も、現在の、あえていうならば『医者いじめ』のような状況で夢をなくし、個人事業主としてもう一度「夢」を求めて頑張ろう!でも開業は厳しいな〜、と悩みながら病院を辞めて行く姿を見ていると、私もチャンス(=時と金)があるなら開業しようかな、と考えてしまうのである。
病院や大学にしがみついて、特殊な能力、手術の技術を競ったところで大した事ではないな〜、などと否定的な考えばかり浮かんで来るのである。最近音楽や旅行の事ばかり書いてはいるけれど、こころの深いところではいつでも葛藤し悩んでいると思われる(自分が、悩んでま〜す、なんて言うのは恥ずかしい事だという意識がどこかにあるので、、、)。

 ま、そういう訳で、待っているのだがまだ手術室から連絡が無い。予定手術が遅れれば我々の緊急手術の開始も遅れる。手術する部屋はある。ナースもいる。医師も待っている。でも麻酔科医が不足しているというのが今の状態なのである。これが、我々の「通常営業」である。(今日も帰りは深夜だな〜、あ、今日は管理当直だったんだ、、、明日の夜まで36時間くらい、病院から出られないのだ〜、、、)

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2006.01.24

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(最終回)(ウィーンから日本へ)

・旅行第十二日目(2006年1月12日):ウィーンを発つ

 ついに旅行の最終日となった。
楽しかった。帰りたくはないが仕事も待っているし、、、
ウィーン発成田行きは週6便飛んでいる。水曜だけないので我々は「仕方なく」ウィーンに一泊せざるを得なかったのだ。
ViennaBreakfast 私が記憶する限りはYS氏の人生が変わるような事も無く夜が明け(ただ酔っぱらって寝ただけ)た。
13:15ウィーン発成田行きに間に合うように、10:30にホテルを出よう、それまではお互い自由行動で10:15ホテル集合という事にした。まず朝食。そしてタクシーを予約。これがまたプラハと同じで、ホテルのフロントに頼むと空港まで38ユーロだという。
「なんでそんなに高いのだ?」と問うと「うちで準備するメルセデスの新車で綺麗な車だ」と言う。
「メルセデスは私が日本で乗っている車だから別にどうでもいい。普通のタクシーでいいのだ。」というと
「じゃあ、自分でタクシー会社にかけて呼んでくれ。」と冷たい対応。
そこで昨日の前払いで空港から来たタクシー会社の領収書を見てそこに電話をして料金を聞くと、なんと前日利用してもらったので10%割引で28ユーロでいい、とのこと。ホテルで頼む場合と10ユーロ(=1400円)も違う。車はミニバンタイプで広々していたし別に何の問題も無く空港に付いた。1400円分お土産奮発出来る!
 ヨーロッパの他都市でもあるかも知れないが、ホテルで頼むと手数料を上乗せしてあるから高くなるのだろう。自分で手配出来る人はその方がお得である。

 さて、朝食後チェックアウトするまでに1時間ある。私は昨日見る事が出来なかった「ウィーン楽友協会」そうMusikverein Wienやその周辺の建物を見に出た。ホテルからは徒歩圏内であるが、わざわざオペラ座前からトラムに乗ってKonzerthausすなわちウィーン交響楽団の本拠地傍で降りた。ウィーンフィルとは別の組織の専用コンサートホールである。建物を外から見るだけであるが、そこを歩いてMusikvereinまで来た。
Musikverein 昨日の夜も、今日の夜もコンサートがある。出来れば演奏を聴きたかった、観たかった。この次の機会の楽しみとしよう。Musikvereinの北側の小さな通りの名前は「ベーゼンドルファー通り」と書いてあった。そう、ベーゼンドルファーの本社はここウィーンだった。ソルノークでのショパンのピアノ協奏曲で藤井亜紀さんが弾いたピアノもベーゼンドルファーだった。
HVKarajan そんな事を考えながら、ゆっくりオペラ座の方に向かって歩いて来ると、歩道に☆の印。ウィーンの何か名所旧跡の印である。顔を上げるとそこは「Herbert von Karajan Zentreum」と書かれたお店のようなものがあった。
KarajanCenterまだ時間があったので覗いてみる事にした。ドアが開かない。よく見ると10:00オープンだが、まだ9:55だった。お店のおじさんが出て来て開けてくれた。
Guten Morgen !
中は、本当にカラヤン一色だった。CDやDVDはもちろん、アイドルのブロマイドよろしく絵はがきサイズの写真(多くはディスクの表紙などに使われている)がたくさんおいてあった。音楽性や人間性云々を抜きにして(個人的な交流はないのだから、うわさというか風評でしか知らない訳であるが)、とにかく指揮者として偉大でカッコいいと思う。フルトベングラーの後はやっぱりカラヤンか(もちろんベームだって好きだし、ちょっと前はクライバー、現存の指揮者ではユッカ・ベッカ・サラステが好きです)!
 写真を何点か購入した。絵になる人である。顔の作りもいいけど、顔の表情に加え手の表情、そして全身から出て来るオーラ。とにかく「かっこいい」。
 オペラハウスのMusic shopで最後のお土産を買うつもりだったのであまり時間に余裕は無く、それで帰ろうとしたら、なんと成田を発つ時に出国ゲートを抜けたDuty Freeのところで見つけたMontBlancの「カラヤン記念万年筆」を見つけてしまった。値段は安くない。万年筆を使う頻度は最近は少ないので是非欲しいものでもない。加えて私は、モンブラン万年筆を持っている人が日本人の特に医者に多いので、いいものだとしても積極的に持ちたくないと考えてしまう天の邪鬼で、現在持っているのは色が大好きな「ペリカン」のグリーンの万年筆である。
 しかし、予期せぬところで見つけたカラヤン専門店。成田出国時にちょっとだけ心が動いた万年筆。値段のうち、20ユーロがクラシック音楽関係の文化財団に寄付されるDonation Penだということも私の心を動かした。今回、素晴らしい演奏、旅行、友人、食事、お酒を楽しんで来たが、すべてクラシック音楽が縁である。これはドネーションしないわけにいかないっしょ!と購入した。(帰国してもまだ飾ってあって、インクすら入れていないが)。
 カラヤン万年筆のデザインは、ちょっと今一かな?サー・ゲオルグ・ショルティ(ハンガリー生まれ)の記念万年筆の方がデザインは素敵だと思った。でも、モーツァルト・イヤーにモーツァルトと同じオーストリアはザルツブルグ生まれのカラヤンの、現役時代活躍したウィーンのオペラハウスとムジークフェラインの中間地点に立つそのお店で買った、ということに意義を見いだす事にした。

 足早にオペラハウスのMusic shopに行き、お土産を何点か買い求めた。ホテルに戻ると10:20だった。チェックアウトするとちょうど予約していたタクシーが来て空港へ向かった。
Luggage1 トラブル無く空港に着き、チェックインをしようとしたが、実はプラハーウィーンとオーストリア航空で飛んで来た際に、私のラッゲージが壊れていた。今回の旅行のために昨年12月に新調してばかりでおろしたての、しかもプ○テ○の新製品で定価は7万円台と安くなかった。古いサ○ソナ○トを持っているが、容量が不足しそうな上、そのケースそのものが重いので、今回新しくアルファロメオデザインとか店員が宣伝した「軽くて丈夫で安全」と薦められたラッゲージを買ったのだった。
Luggage2 それがウィーンに到着して、機内預け荷物をベルトコンベアーから取って立てた瞬間倒れたので気がついたのだが、底の4つの車輪のうち、1個が大きく根元から歪んでいた。わりと柔軟な材質で出来ていたので手でググッと引っ張ると車輪は元に戻った。しかし底におおきな凹みがありフレームが強く歪んでいた。
Luggage3 ウィーンのホテルで開けて荷物を出し、蓋を閉めようとしたがフレームが歪んでしまったためにしまらない。男二人掛かりで歪んだフレームを強制するようにしても2つあるロックのうち一つしかしまらない。仕方なく、底が凹んだ部分を内側からウィーンのビールの瓶でたたき出して強制的に蓋が閉まるようにしたが隙間が空いた状態になっていたのだ。おそらくプラハーウィーン間で荷物を運搬する際に投げられるか落とされるかしてどこか硬いものの角(たとえば運搬する車両の鉄製の荷台の角とか)にぶつかってできた凹みだと思う。(この3枚の写真はウィーンの空港からまっすぐホテルに着いて部屋で荷物を開ける前に撮影。大きな凹み、隙間が出来て中身が見えている程の歪み、そしてまだロック解除前なので鍵のところが赤い丸でロックされた状態である事が分かる、ロックがかかっていたから開かずに済んだのか、、、)
 ウィーンは日本人の団体旅行客が多いせいか、成田便のカウンターには日本人の係員がいた。そこでラッゲージ損傷の事を話すと、オーストリア航空のバッゲージのClaim counterで書類を作って日本に持ち帰って欲しいと言われた。まだ時間に余裕があったのでその通りにした。
Omiyage 免税店で最後のお土産を買った。YS氏と長い旅を楽しく無事に過ごせた事を祝うべく、機内で食べようと思ってベルーガのキャビアも買った。

OStoillet オーストリア時間、2006年1月12日(木)13:15、飛行機は成田空港へ向けて飛び立った。
 楽しかった事ばかり思い出されて、仕事に復帰するのに「心のリハビリ」がいるかも、なんて冗談で思ってはいた。11時間余りのフライトの後、日本時間同年1月13日(金)8:35に成田空港へタッチダウン。早めに着いたし、入国審査も税関もスムーズに通り、予定してあった新幹線まで1時間の余裕があった。
 その間を利用して、1月13日の記事『帰国しました!』を書いた訳である。

SnowFall 日本に電話すると「雪を楽しみに帰ってこいよ!」と脅かされていた。なので福島から米沢に抜ける板谷峠の雪を見ても、写真のような米沢市内に入る前の集落の雪を見ても大して驚きはしなかった。
Sobaya 地元の駅に着いたら、ホームに貼られていた写真の宣伝が目にとまった。
 まず何が食べたいって、ラーメン、蕎麦、寿司かな〜。日本人だな。。。着いた日を含む3日間(金土日)でこれは全部食べました。

 これで、長かった旅、10泊12日の中央ヨーロッパの旅は終わりである。

 今度は、3月にソルノークフィルから約30名の団員+スタッフが来日する。そのお世話と合同演奏がまた楽しみである。
9月にはアフラートゥス木管五重奏団が来る。東京などの大都市でコンサートする事は決まっているが果たして庄内で出来るか。帰国後、ロマンからもメールが来て音楽事務所の担当者に話しをしてみてくれ、我々も庄内にまた行ける事を希望している、ということだった。

 まだまだ全部を語りきった訳ではないが、ひとまず思い出深い「音楽の旅日記」をこれで終わる。
(ご愛読感謝!)

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2006.01.23

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(8)(プラハからウィーンへ)

・旅行第十一日目(2006月1月11日):ウィーンへ

 アフラートゥス五重奏団のコンサートから一夜明けた。職業柄寝付きがいいこと、どこでも寝れる事が私の特技の一つであるが、YS氏によると、ロマンに送られて帰って来て部屋でバスローブをまとってベッドに横になり何か話していたと思ったら寝息を立てていたそうである。自分が寝るときの姿なんて見た事無いが、確かに寝付きは良いらしい。
 朝、8時前に起床しシャワーを浴び、荷物を整理して朝食をとる。野菜とフルーツを多めに。
 ウイーンへのフライトは11:40であるが、初めての空港であるし迷う訳にも行かないので早めに行こうという事になり、9時にホテル前にタクシーを呼んでもらう事にした。
 フロントに電話すると、コンシェルジェに回すという。
「タクシーを一台、空港まで。但し、AAAのタクシーにしてくれ」
と指定した。コンシェルジェは、「ホテル側でもっと良いタクシーを用意出来ます」という。私は
「それは必要ない。AAAがいいとプラハの友人が教えてくれた。」と答える。コンシェルジェが、
「当方で用意する車にご不満でしょうか?メルセデスのE-Klasseで新車です。」という。私は、
「ホテルからドボジャーク記念館までの5分くらいの距離で400コルナも取られた。ホテルから空港までタクシーで20〜30分かかると聞いたが、AAAならその距離で400〜450コルナだと言われた。お宅の車は高すぎる。メルセデスである必要は無い!」と毅然とはねつけた。
 日本人はなめられている。ブランドに弱い物見遊山の海外旅行者(けっして物見遊山が悪い訳ではない、私だって結構このたびは物見遊山である)に「旦那、ベンツの新車でっせ!ええ車でんがなぁ〜」と薦めると多くの日本人旅行者が「おお、ベンツか、乗ってみるベェ〜」(ちなみにこの会話の方言に特に意味はありません)となりかねないのだろう。
 目的は確実に空港に行く事、できれば安い方が良い。その差額でお土産を買うかビールでも飲んだ方が賢いと思うんだ。
 9時にチェックアウトし、AAAのタクシーへ。確かに大きくないので、トランクに二人分のラッゲージが入らなかった(E-Klasseなら余裕で入っただろう)。YS氏に後ろに乗ってもらいラッゲージを一つ後部座席に乗せ私は助手席に乗った。空港まで25分位かかった。料金は450コルナ(=1800円)だった。

空港では、プラハーウィーンの「国際線」とはいえ、プロペラ機で40分の旅である。飛行時間から考えると山形ー羽田間よりも近いという事になる。スムーズにチェックインが済んだが、私のラッゲージは何故か25kgを少し超えてしまい、「Heavy」というタッグがつけられてしまった。
 この時点で、まだ10時前。お土産屋さんをウロウロしたら、可愛い操り人形があった。見ていたら何故か欲しくなってしまい、ピノキオとピエロの2体を求めてしまった。あとは見るべきものも無いので、早めにゲートをくぐり搭乗口へ進んだが、まだ一時間半近くある。 
 途中で『ピルスナー・ウルクエル』という看板を見つけた。これは飲まない訳にはいくまい。500mlのグラス一杯80コルナだったよう記憶している。街中よりはやはり高め。ビールを飲みながらガイドブックでウィーンの行きたいところを検討し、30分前に搭乗口前へ。バスでプロペラ機へ。
 お天気は寒いが快晴に近い。トラブルなく離陸。さようなら、プラハ。今度来れるのはいつだろう。

 プラハという街からは、周辺の大きな街としてはドイツのドレスデンやライプチッヒの方がウィーンよりも近い。雪景色の平原の上をまっすぐ南東に向かって30分位で飛行機は下降を始め40分で到着した。
 ウィーンだ!!!

 まずはホテルにむかう。Airport Transport Serviceとかいう、何だかわからないがその場で予約して前払いするタクシー会社が空港内にあったので、そこに頼む事にした。「アストリアホテルまで二人」というと、31ユーロだ、とのこと。4300〜4400円相当だ。プラハに比べたら高いような気がしたが、物価も二倍くらいだしこんなもんかとカードで前払いし運転手について行くと、タクシー乗り場ではなく駐車場だった。メルセデスのE-Klasseだ。またか!と思ったが、ガイドブックにもウィーン中心部と空港はタクシーで30ユーロ位と書いてあるので特段高い訳ではなかった。
 空港から市中心部は予想したより遠かった(ま、成田に比べれば、ね、、、)。高速道路を140km/hくらいで飛ばして30分くらいかかった。アストリアホテルの着くと、日本人らしい人が「お疲れさまでした〜」と日本語で出迎えてくれたので、私はかえっていぶかってしまい「何者?」という感じで無視した。
 YS氏が教えてくれなかったのだが、この方が親切にも無償で我々のお世話をして下さるウィーン在住8年になる日本人(秋田出身)のT氏だったのである。仕事の合間を抜けて来て下さっているので挨拶もそこそこにまずチェックインして部屋へ行く。有名なオペラ座やザッハトルテのホテルザッハの隣りで便利なところにある五つ星ホテルだが、建物は古く、単なる良い古さだけではなく「老朽化」という感じのする部分もあった。

DoubleBed 部屋に入って少なからぬショックを受けた。大きなダブルベッドが一つ。デ〜〜ンとおかれている。ベルボーイに「ツインは無いのか?」と聞くと「ない」と答え、チップを要求する身振りをしてあげたらそそくさと出て行った。荷物を置いて(そういえば、この空の旅でラッゲージが壊れたのだがこの事に着いてはあとで触れる)、ロビーで待つT氏のもとへ急いだ。
 フロントに一応確かめてみる。
私「部屋はダブルベッドだった。ツインは無いのか?」
フロントのおばさま「あるけれど、あの部屋は角部屋で広くて一番いい部屋。あなた方に良いと思ってあそこにした。」という。更に「変えるなら今ならできるがどうするか?」と問う。
 あ〜、多分、男二人旅。ゲ○だと思われたのかも知れない。でも今から部屋を変更したり荷物を移動していては時間が少なくなる。その時点で2時前だが4時半には暗くなるのだ。その前に今日はベートーベンの遺言の家とシューベルトの生家とモーツァルト像とシュトラウス像は見て回りたい。
「あの部屋でいいよ!」と返事した(私たちはゲ○です、と宣言したようなものか、、、(笑))
YS氏もおどけて「今晩、私の人生が変わるかものぉ」などと言って喜んでいる。

T氏は市内交通網(トラム、地下鉄、バス共通)の24時間チケットまで用意して、上記名所への生き方を日本語で詳しくまとめた案内までつけて下さった(JAL関係の仕事をされているのでお手の物と言えばそうなのだが)。礼を言って急いでトラム乗り場を探す。ウィーンに来て、バタバタ歩いたり走ったりしたくはない。できれば優雅にワルツでも踊るように(?)歩きたい。しかしお上りさん二人。YS氏はウィーンは初めてではないのだが一人で行動した事はないようで、オペラハウス前のとラム乗り場でまず何に乗って行くのか迷った。
あとから考えると、トラムの番号と行く方向さえ覚えれば(そんなに数は無いから覚えるのも難しくはない)結構すいすい市内を移動出来るのだが、なにせ未知の土地で未知の乗り物である。不安を抱えながら乗って用意して頂いた24時間券をチェックインの器械に挿入する。グー、カチャンという感じでスタンプが押されて来た。ここから24時間有効なのである。
BeethovenPasc ベートーベンの遺言の家は簡単に見つかった。5階建ての建物の薄暗い階段を4階まで登って行く。エレベーターなどない。入り口で「拝観料」一人2ユーロを支払い説明書をもらう。写真は御法度と言われた。
 またスメタナ記念館のときのように、我々二人に係官が付いて来て、展示物に触れたり写真を撮ったりしないか監視されてしまった。欧米人にとって、アジア人、特に日本、中国、韓国、北朝鮮、台湾の人はまったく区別がつかないそうである。どこの国の観光客が悪い印象を残しているのか知らないが、刑事のようにつきまとう監視は少しく不快であった。
 ベートーベンが使ったと見られるピアノ、いろんな曲のスコアが綺麗に陳列されていた。あとはウィーンで関与した偉い人の肖像画とか、教科書かどこかで見た事のある有名な(細身の顔の方)ベートーベンの肖像画の原画が飾ってあった。そんなに見るべきものも無く、じっくり見ても15分もあれば十分だった。
 同じ建物の1階にMusic Shopがあったが、そこも単なる土産物屋さんで見るべきものも買うべきものも無かった。
SCHUBERTHouse2 次にトラムに乗り継いで向かったのは、シューベルトの生家。ここも簡単に見つけられた。また2ユーロの「拝観料」を払い中に入ると、またまた同じように「刑事さん」に尾行された。そんなに人相悪いかな〜〜〜?
 ここには、シューベルトの使っていたあの眼鏡が、レンズにヒビが入った状態で展示されていた。音楽教室などに飾ってある有名なシューベルトの絵もあったし、何だか親兄弟の肖像画もかけられていた。ここもやはり見るべきものは多くなく15分程度で終わった。

Mozart2 来た道を戻るのだが、何番(1とか2とかDという番号が付いている)のトラムが来るのかは運次第のような感じ。
行きたい方向のトラムが来たら乗り込む。途中で乗り換えて、ブルク庭園のモーツァルト像を見に行った。想像よりも大きなstatueであった。正面の芝生にト音記号が記されていて、像の後ろ側に回ると、バイオリンを弾く父レオポルト、歌う(?)姉ナンネールとともにピアノの前に座る幼いアマデウス少年の有名な絵のレリーフが刻まれていた。 
 ここは、モーツァルトが呼吸をし作曲しピアノを弾き歌を歌い恋をし笑い泣き苦しみそして死を迎えた街なのだ。世の中は、生誕250年祭で盛り上がりつつあるようである。それはいい事だが、生誕記念商法でモーツァルト全集や書籍やその他が売れる事であろう。僕はどうもそういうのが気に入らない。「交響曲40番」なら誰の指揮でどこのオケとか「フルート協奏曲1番」なら誰のフルートでどこのオケで誰の指揮だとか、更にいつどこで録音されたものか、を吟味しないとなかには酷いものも稀だがある。

 この時点で4時半近く、空は薄暗くなり始めていた。そろそろ仕事が終わるT氏と16:30にオペラハウス前で待ち合わせをして、市立公園の有名なヨハン・シュトラウス像を見に行く事にした。ところがお目当てのトラムがなかなかこず、方向の違う「D」のトラムが3回続けて来たりして結局「超」寒い中を歩いて行く事になった。
Strauss1a市立公園には幾つか著名人の像があるのだが、シュトラウスだけ差別されていると言うか、「金像」なのだ。言葉からすると台湾人と思われるバイオリンを担いだ3名の音楽学生と思われる人達が写真を撮っていたので彼らが終わるのを待っていたところ、周りがだんだん暗くなって来た。私が写真を撮る頃にはご覧のようにフラッシュをたいても距離が離れていると人物の顔が分かりにくいくらいに暗くなった。それに対して、ヨハン様は金色(こんじき)に光り輝いておられた。
SchubertStatue
直ぐ近くにシューベルトの像(こちらは単に石造り)もあったので左のように写真を撮ったが、もう真っ暗になっていた。この時点でおよそ5時半頃。この公園には他にもブラームス像などもあるのだが、暗いし寒いので別の目的地に行く事にした。
 それはオーストリア国立図書館Oesterreichische Nationalbibliothekで、2005年11月から2006年1月まで遺作(未完成)となった、『レクイエム』の自筆譜が展示されているので、それを見に行こうとT氏の提案であった。ちなみに「オーストリア航空」の略号はOSであるが、これはオーストリアのドイツ読みOesterreichから来ている。高校生の時に街で金髪碧眼の美女に話しかけられ、Where are you from?と聞いてみたはいいが、相手が「I'm from エス、、、ヒ」とかいうので、そりゃ一体どこの国じゃと自分のhearing, comprehension力の低さを嘆いた事があった(エストニアとかそういう国は無い時代)。「エス」で始まる「白人」の住む国がまったく思い浮かばなかったのである。
MozartRequiem さて、歴史を感じさせる重厚な作りの図書館には、これまた映画『マイフェア・レディ』のエンリー・イギンズ(Henry Higgins)教授の自宅の本棚を30倍くらい大きく高くしたような古色蒼然たる本が並ぶ本棚の間の広い通路を進んで行くと「特別展示」の『レクイエム』コーナーがあった。ビデオ、写真の撮影は許可されたがフラッシュをたかない事と、細部を移さない事が指示された。陳列棚の中には、モーツァルトの自筆譜に弟子のズュースマイヤーが加筆した部分とズュースマイヤーが加筆していないモーツァルト自筆による「作業譜」の二冊が並べて置いてあった。それにしてもモーツァルトのスコアは本当に綺麗である。全くと言っていい程の書き直しや訂正や書き込みがないのである。まるで、何回か書き直した後の「清書」のようで印刷物のようにすら見えるのにこれが「自筆譜」なのだ。
 国立図書館の展示に付いては次のサイトを参照して下さい。
http://www.fiveone.com/visionworks-news/articles/20051128nationalbibliothek.shtml

 国立図書館を後にしてしばしウィーンの市街地を歩き、モーツァルトの葬儀が行われたと言われている「聖シュテファン大聖堂」を見て地下鉄乗り場へ向かった。地下鉄に乗ってハイリゲンシュタットを目指す。ベートーベンの住んでいた場所、「ハイリゲンシュタットの遺書」や『田園』を作曲するモチーフになったかも知れない「ベートーベンの散歩道」のあるところですが、行った目的は違います。もう真っ暗な夜、とっても冷える。必要なのはお酒と食事です。バスに乗って「ホイリゲ」を目指します。ここで、我々は今日昼食を摂っていない事に初めて気がつきました。朝、プラハのホテルで食べてからそれまでの間に口にしたのは空港で飲んだピルスナーと飛行機の中で飲んだコーヒーだけでした。
Heulige
ベートーベンが住んでいたという家を横目に見ながら、「早く暖かい室内へ」と足早に目指すホイリゲへ。
そこは、人数こそ少なかったけれど、お店のおじさんやおばさんの笑顔などとても暖かいお店であった。ホイリゲはドイツ語のホイヤー=今年という言葉から派生したらしいが、つまり今年の新酒、2006年になった今となっては2004年に収穫されて2005年に出来た新酒を飲んでいる事になる。だからボージョレー・ヌーボーとはまた違う。ワインは1リットルの大きいジョッキに入って運ばれて来た。それを男3人で2本飲んだ。更に、ハム、鳥のソテー、ソーセージ、芋を焼いたもの、サラダ、様々な「お惣菜」をカウンターで注文する。
「このハムを2切れとこの鳥を一つとこの肉を一切れ、、、」というような感じである。
昼食抜きで寒いウィーンを歩き疲れた身体に程よくワインが回って、帰りの地下鉄では居眠りしそうであった。地下鉄はオペラハウス前で下車。ホテルまでは歩いて数分である。
 さあ、その晩、YS氏の人生は変わったのであろうか。。。
(つづく)

ウィーンに関するサイトはたくさんあります。たとえば、これなんかは?
http://language.tiu.ac.jp/wien/1/h3.htm

(11日目の食事)
朝食:ホテルパレスプラハ2階のバイキング。美味しかった。サラダをたくさん取った。
昼食:気がついたら抜き。
夕食:上記、ホイリゲにてお惣菜とワインのみ。美味しかったしリーズナブルなお値段でした。

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2006.01.22

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(7)(プラハ3日目)

・旅行第10日目(2006年1月10日);プラハ3日目(最終日)

 ついに旅もラス前という感じである。
 ファゴットのT氏とヴィオラのH氏およびそのお嬢は本日帰国。私は今日デュシャンのアパートを出て、ホテルパレスプラハにチェックインしYS氏と同室となる予定。
 今日はビッグイベントが2つ。
 一つ目はピッコロのフィンダ氏夫妻にお会いし昼食をともにする事。二つ目はアフラートゥス木管五重奏団の今年初のスークホール(ルドルフィヌム)でのコンサートである。

DusanBreakfast 午前中は個人行動とした。デュシャンは、朝6時半には出て病院へ行くので、私は自由にしていてくれ、と言われていた。遅起きすることにした。9時半頃ベッドを出て、まずシャワーを浴び髪を洗いヒゲを剃り、さっぱりしたところで簡単な朝食を作った。(写真は私の作った朝食)
 食べ終えた後、何をしようか考えた。12:30にホテルのロビーでフィンダ氏夫妻と待ち合わせをしている。2時間はあるから、ちょっとぶらぶらして来る事は出来る。私は笛を吹く事にした。だって1/5のコンサートから4日以上、全く笛に触っていないのだ。ぐっすり寝たせいか笛は気持ち良く鳴ってくれた。1時間程吹き散らかして、夕方のホテルへの移動に備えて荷物を整理し、少し早めにアパートを出てホテルのロビーについたのは12:15頃だった。
 Ms. Shihoko Findaから12:25頃携帯に電話があった。道が混んでて少し遅れるという。大丈夫ですよ、ゆっくり来て下さい、と伝える。そう、Finda氏の奥様は日本人。しかもフルーティストである。日本語が話せるのはやはり楽だ〜。
 YS氏から12:30頃焦った声で電話が入る。午前中旧市街に出かけてホテルに戻ろうと思い迷ってしまったという。もうすぐ着きます、ということだったので、焦る必要なし、と伝えた。
 12:35にYS氏が、12:40にFinda御夫妻がロビーに到着。初対面の御挨拶をした。ロマンから紹介されてすでに電話でお話しはしていたし、Finda氏は日本のフルート、ピッコロ業界では有名な方なので雑誌などでお顔は拝見し知っていた。フィンダ氏の車でフィンダ氏お気に入りのお店に昼食に行きましょう!という事になった。
 おお!写真撮るの忘れた。フィンダ氏は無類の機械好きらしい。奥様によると何でも自分でやってしまわないと気が済まないのだとか。で、車は1960年代、いわゆる「縦目」のメルセデスだった。見た目はボロボロ、内装もはげはげ、ディーゼルエンジンで音も大きい。今時メルセデスで窓を手でくるくる回して開けたり、ドアロックが手動でポンという奴はなかなかない。しかし、乗り心地は(素晴らしい)とは言えないが、外観からすれば滑らかで驚いた。こういう車をしかもいじくり倒すのが好きなのだそうだ。
PragueDuck
 昼食はダック。フィンダ氏お気に入りのお店。ここのピルスナーウルクエルが更にお気に入りだと。先日も書いたように、チェコの人は、ビールのブランド名ではなく、どこのお店で管理し保存しているビールなのか、で飲みに来るのだそうだ。だから、そこのレストランのピルスナーが好みだったら、それを飲むためだけに食事ではなくビールを飲むためにそのレストランに通い詰める事になるらしい。
 ダックは、Half of the Duckつまり一人前が半匹。志保子夫人はサーモンを注文したので、男3人で一匹半のダックを食べる。昼からこれだ!でも美味しかった。
 話しが弾んで、フィンダ先生を「スタンダ」とfirst nameの愛称で呼ばせてもらう事になった。彼らも私の事を○○とロマン達と同じように呼んでくれた。
 ピッコロをレストランで見てもらった。銀座の山○に別のピッコロを見に行って、試奏だけさせてもらっていろいろこれから試してみよう、と軽い気持ちで行ったところが、Finda piccoloにで出会い、吹いてみてその音色が他のピッコロとあまりに違う、柔らかさ、渋さ、丸さを持っているのに惹かれ、当初の候補であったバー○ー○やハ○ミッ○やフォ○ク○、更にサ○キョ○から心が完全にフィンダに行ってしまった。2時間程迷ったあげく、その日のうちに購入してしまった、「運命の出会い」を感じるようなピッコロだったのだ。スタンダも言っていたが、「小さなフルート」のようなピッコロが多すぎる。確かにでっかい音が出たり、吹きやすかったり、フルートとの持ち替えでもストレスが少なかったりというピッコロが一部で好まれ売れているが、スタンダはそういうピッコロの音色に全く満足出来なかったという。世界中に自分が気に入るピッコロが無い以上は自分で作るしかない、とドイツの職人に弟子入りして自分で作り始め、まず頭部感だけが有名になっていた。私もFindaという名前だけは知っていた。
 初めてFinda piccoloを吹いてその低音を聴いた時、まるで日本の篠笛とかそういう笛を吹いているような、えも言われぬ「哀愁」を感じさせる渋い音に惚れてしまったのである。
 更にYS氏の後輩で新宿ム○マ○でフルート修理調整を担当しているI氏は、フィンダ御夫妻のお気に入りでいつも困ったらI氏に相談しているということで、またまた偶然の繋がりがあった。
 そんな話しをしていたら、スタンダが家に帰ってピッコロ七つ道具と家にあるパリサンダーのピッコロを持って来るから市民会館で会おう、と言い出した。
え?市民会館って昨日入りたかったスメタナ・ホールである。そう、プラハ交響楽団の本拠地だ。スタンダが車で自宅に往復して来る間、私とYS氏はShihokoさんとの話しが弾み、スメタナホールの中ではなくその向かいにあるホテル・パリだったかな、そこのカフェで3人でお茶を飲みながらスタンダからの連絡を待った。今日は火曜日。時間帯によって車が混むのだそうだ。郊外に住んでいるスタンダが戻って来るまで思いのほか時間がかかった。
 彼が到着してから、4人で市民会館の裏口から中に入った。
PSOFinda
 ここはスタンダがいつも使っている楽屋。名前がある。木管楽器群の部屋らしい。
 そこで、まず私のグラナディラのピッコロを生みの親であるスタンダが吹いてみた。
「素晴らしい!私の楽器よりいい!」とスタンダ。私が吹いてみる。そこでピッコロの吹き方を教授される。なんと生みの親の前でその子供であるピッコロを吹いてレッスンを受ける事になってしまった。また緊張である。
「力を抜いて」「腹圧をかけて」「お腹を下げて」「肩をリラックスさせて」いろいろ言われたが、一番感銘を受けたのは、喉の奥から唇までの息の通り道をまるでリコーダーの頭部感のように感じであとはピッコロの歌口に息が出て行くだけのようにイメージする事、唇をしめて息のスピードを上げるのではなく、喉の奥で咽頭と舌で息の通り道を狭くして(しかし喉に力は入れないで)息のスピードをあげるということ。
 こういう事を文章で表現するのは限界がある。その場でスタンダがやってみせて身振り手振りで指導してくれるからこそ理解は出来た。理解と実践はまた別なので、私は「これから一生懸命練習します。」と今できないいい訳をした。
StandaCertfication2

 スタンダが持って来てくれたピッコロを何本か試奏して楽しんだ。何よりも間近に彼の演奏を聴けたのは大きな喜びだった。今度はオケの中での彼の音色を聴きたい。スタンダが強調していたのは、ピッコロはピッコロという楽器で小さなフルートではないという事。オーボエやファゴットや弦やその他の楽器の音に融和して、しかも大きな「うるさい」音を出さなくても、「金切り声」で鳴らさなくても音色がしっかりしていれば十分に聴こえるし、音程も他の楽器と合わせやすくなるというのだ。そしてそういった面でのパリサンダーの良さを強調された。
 これにはYS氏も感銘を受け、ついに一本買う事になった。たくさんある中でベストを選ぶのは難しく、しばし迷っていた。そうこうしているうちに6時を回りそうになった。なんと5時間近く彼らと一緒にいるのだ。
今日の夜はロマン達のコンサートだしその前にホテルにチェックインをしなければならない。19:00にルドルフィヌムのpersonnel entranceでロマンと待ち合わせをしている。
 YS氏がピッコロを選んでいる間に、私はスタンダの案内でスメタナ・ホールを見せて頂いた。フロアと2階席を案内してもらい少しビデオを撮った。あ〜、なんという幸せ。今度はここでプラハ交響楽団の演奏を、スタンダの音を聴きたいな。
 そうしてまた部屋に戻ってピッコロを見ているうちに、次第に感激して来て私も一本欲しくなってしまった。グラナディラのFinda Piccoloを持っているのにパリサンダーをもう一本、である。そうして求めた楽器を手にスタンダと一緒に写真を撮った。「この写真がこの楽器の証明書ですね!」

 そこから慌ただしかった。スタンダは私をデュシャンのアパートまで送り荷物と一緒にホテルに連れて行ってルドルフィヌムまで行ってくれるという。そんなつもりも無かった私は、デュシャンにアパートからホテルまで荷物を運んでもらうのを手伝ってもらった後は、YS氏とタクシーでルドルフィヌムまで行くつもりでいた。
 とりあえず、車でデュシャンのアパートまで送ってもらった。YS氏をスタンダと志保子さんにホテルまで送ってもらってホテルでチェックイン手続きをしてもらい、その間私は着替えて荷物をホテルに持って来る、という手はずにした。スーツに蝶タイにした。この時点で18:30を回っている。ロマンに電話をするが通じない。
 私は車でルドルフィヌムまで送って欲しいと頼んだ。デュシャンは荷物をゴロゴロ押してホテルまで行こうという。彼の車を停めてある場所が離れているのだ。プラハは市内での駐車権利証を車に貼ったものだけが指定の地域に駐車が許されているが、それは駐車するスペースを保証する事にはならず、古い石畳の街の路地の中から駐車スペースを自分で探し出さなければならないのだ。
 5分くらいゴロゴロとスーツケースを押して彼の車に乗せそこからホテルを目指す。歩けば目と鼻の先なのに、一歩通行のお陰で一旦正反対の方向に向かうような感じ。この時点で18:50過ぎ。19:00にはとても間に合わない。ホテルに着いた。急いで自分のスーツケースをおろしフロントに向かい、ベルボーイにチェックイン済みの部屋へ運んでおいてくれるように頼む。こういう時に気の利いたチップが渡せればいいのだが、あいにく小銭が小さいのしかない。知らないふりして急いでYS氏とデュシャンの車に乗る。
 ルドルフィヌムまでも遠くないのだが、車で行くには遠回りをしなくてはならない。19:00にロマンと電話が繋がった。いろいろあって遅れる事を謝り、19:15頃になりそうだ、と伝えた。ロマンは、19:30開演だからそれまで待っている事は出来ないので入り口の守衛にチケットを渡しておくから、演奏会が終わったらバックステージに来てくれ、と言って電話を切った。
 予想通り19:15にルドルフィヌムに着いた。デュシャンとはこれでお別れである。買ってもらってあったお花を受け取る。お別れの挨拶、お礼を言う。言葉では足らないくらいの感謝である。(後で気がついたのだがこの時慌てていて950コルナのお花代を渡すのを忘れた。ウィーンから電話して誤ったらそんなのいいよ、と言ってくれた。ありがとう、Dusan!)
 花を持ってあわててチケットを受け取り、そこからホールを目指す。ところが正門から入った訳ではなく裏口なので、間違えてドボジャークホールに入ってしまった。入り口でチケットを見せたらこっちだ、と係に案内されたので素直にしたがって席に座った。あれ?と見渡すとステージはオケの準備(コントラバスが寝かせておいてあるし椅子がたくさんある)。ホールを見ると、「あ!ここドボジャークホールだ。スークホールじゃない!」
あたふたとドボジャークホールを後にして隣りの広間に移動すると、そこがスークホールへの前室になっていた。クロークにコートを預け席に着いた。
 バタバタしたけど、かえってロマンに花を用意しているところを見られなかったし、まちがってドボジャークホールの席に座っちゃったし、よかったね、とYS氏と会話する。
SukHall
 彼らの演奏は、なんと表現するといいのだろう。まろやか、さわやか、心地よい〜、という感じ。演奏には人柄が現れる。テクニックが凄くパワフルな音と的確なリズムで五重奏をリードするロマン。哀愁漂う甘い音と時に聴かせる通る強い音、柔らかいのに結構主張のあるヤナのオーボエ。これファゴットの音?え?あ!ホルンだよ、凄いな、と七変化自由自在の音で五重奏を支え引っ張るバボちゃんのホルン。芯があってそれでいて周りがボワ〜ンとぼやけたような、つまり角ばっていない音で個性を出しテクニックも抜群のボイトのクラ。そして、柔らかく、他の4人を包み込むようにいつも控えめだけど存在感のあるオンジェのファゴット。
 今日の演奏会では彼らの仲間で、プラハで主に編曲の仕事やジャズの仕事をしている、XX氏(名前を忘れたので確認して後から記載します)の初めての木管五重奏用の曲の「世界初演」があった。他はモーツァルト、ダマーズ、など定番。楽しかった。
 二度目のカーテンコールで主催者側が用意したのか一人一人に花が渡された。そのタイミングで私は真ん中当たりの席から出て行って、花をヤナにわたしほっぺの御挨拶をした。アンコールの後も数回のカーテンコール。
SukBackStage
その後、彼らは地元テレビ局の取材があった。YS氏とクロークでコートを受け取ってホールの中をウロウロしているとロマンが探しに来てくれた。バックステージに入って待っていてくれとの事。バックステージには、スークホールで演奏した人達が写真とサイン入りで飾られていた。彼らの写真も見つけた。
 大きな紙に、本日の公演のスケジュールと曲順を書いて用意してあったのは興味深かった。余計な事に気を使わないで演奏に集中するためにはプロだからこそこういう工夫が必要なんだろうな。

 テレビの取材が終わり、ロマンが「さあ!ビール飲みに行こう!」とあのさわやかな笑顔で言う。風邪はやはり一昨日が最悪で、昨日は一日中寝ていたのでもう治ったという。旧市街中心部のお店に連れて行かれた。
そこには、アフラートゥスの5人以外に、バボちゃんの奥さんのハナさん、ヤナの旦那さん(なんとプラハ響のVn奏者だった)、クラのボイトのGFと親戚、世界初演の作曲者とそのGF、チェコフィルのビオラ奏者の若い女性の計12人もいて、さらに我々二人。
 生肉喰えるか?とバボちゃんが聞いて来る。上に生卵の黄身を乗せてくるくるかき混ぜてパンに乗せて食べるんだ、と。え?!それって韓国料理のユッケじゃん?その他にもなんか頼んだが楽しくて忘れた。
 ビールはもちろんピルスナー。もうこの黄金の色から離れられないかも。。。日本に帰っても指定銘柄になっちゃうかもね。24時を回ってそろそろお店も閉店。(ここはコンサートなので、ビデオもカメラも持って行かず写真なし。残念!)
 ロマン以外の皆にお別れの挨拶。また今年日本で会いましょう!そう、彼らアフラートゥスの日本ツアーが今年の9月に決まっているそうである。是非また庄内にも来てもらえるように梶○音楽事務所と交渉を開始してもらわなければ(この辺はT氏の得意技)。
romanakipalacepraha2 ロマンは徒歩で我々をホテルまで送ってくれた。
雪がちらついていた。もの凄く寒かったが身体とこころがポカポカしていたのは、ピルスナーのお陰だけではないだろう。ありがとう、ロマン、そしてアフラートゥスの友人達!。
 庄内公演を是非実現してもらって、今回の歓待のお返しをしなければ。前回は彼らは一泊しただけでゆっくり出来なかったから是非庄内の名所の観光もしてもらいたいものだ。

 ホテルの部屋に戻ったら、YS氏がいうには、「本当に寝付きがいいですね」という感じで10分で寝てしまったそうである。明日はウィーンだ!
(つづく)

(10日目の食事)
朝食:デュシャンの家で自炊。上の写真の通り。塩っ辛いベーコンと卵でオムレツ。あとデュシャンのお母さんが焼いてくれたというアップルパイとチーズ。
昼食:フィンダ御夫妻と鴨肉。あとはdumplingにザウアークラフト。うまい!
夕食:アフラートゥスのコンサートの後、パブで。いろいろ食べたけど覚えていません。

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2006.01.21

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(6)(プラハ2日目)

・旅行第九日目(2006年1月9日):プラハ2日目
 ブダペストからプラハへの列車の旅とプラハ初日の話しで2日もかかってしまった。
さて、プラハ2日目は主に観光である。月曜日なのだが、デュシャンが私(我々)のために休みを取ってくれ、朝から市内を案内してくれるという。
 9時にホテルのロビーで、と昨日約束したはずなのに酒のせいでみんな忘れたのか、9時にホテルに行ったがまだこれから朝食だという。仕方なく40分程デュシャンと待ちぼうけを喰らわされた。
 パレスプラハの目の前には、絵画のミュッシャ(ムハ)のmuseumがあったが、そこはおいておいて、まず新市街、旧市街を歩いていく。市内一の目抜き通り「ヴァーツラフ広場」の通りを歩く。1989.11.26「レトナ広場」での「80万人集会」につづき、11.27この通りというか広場に50万人のプラハ市民が集結し「ゼネスト」に入って『ビロード革命』が起こったその場所である。
 そこからしばらく歩くと、有名な「火薬塔」が見えた。デュシャンが英語で"Gun Powder Tower"と言っていた。まんまである。その隣りに有名な市民会館、別名『スメタナホール』がある。建物全体がアール・ヌーヴォー調で建った当初は批判も浴びたそうである。ホール入り口脇のカフェが天井も高く雰囲気もいいのだ、とデュシャンが我々を連れて行く。中に入って壁や天井を見るがすぐに出てホール入り口へ行ってみる。なか(スメタナホール)を見てみたいが中はダメだという。今日の夜コンサートがあるからチケットを買わないか、と薦められた。昼の12時前まで買えば、全席100コルナ割引だという。よく見ると、全部小品か一作品のある一楽章のみを寄せ集めた、どうも観光客向けの特別編成オケのようであり、少々気にはなったがお断りして外に出た。
 そこから旧市街方向へ歩いて行く。新市街というのは、「旧」に対して「新」なのであって、実は「新」といっても14世紀、鎌倉時代に出来た街並なのである。だから石畳で狭い道が多く徒歩には適するが車での移動に向かず、一方通行だらけの街なのである。
 ちょっと歩くと、有名なエステート劇場があった。1787年10月29日に歌劇『ドン・ジョバンニ』が世界初演された場所である。中には入らず外から眺めた。もうちょっと歩くと、時計台やヤン・フス像で有名な広場に出た。
Muppetts1Muppets2
 プラハはマッペット、すなわち人形劇でも有名。道の脇に並ぶ店の中には何件か、マッペット専門店もあった。その中に、驚く事にマトリューシュカだけを、またはそれを多く扱っている店を数件見かけた。デュシャンは、「なんでロシアの人形をプラハのど真ん中で売っているのか理解出来ない。」と半ば吐き捨てるように言っていた。1968年のソ連侵攻、1989年のビロード革命の発端になったプラハの大学生に対する旧体制の機動隊による虐殺行為を知るものにとって、ロシア(ソ連)はまだ許せない国のようである。
 
 新市街も旧市街も歩いて移動出来る大きさで、そのまま旧市街の狭い街路を抜けてカレル橋に出た。
CastlewithDusan2ついにDusan初登場。小さくてわかりにくいでしょうが、大きくすると私の顔も大きくなるのでNGです。写真は、カレル橋の真ん中当たりで。後方がプラハ(フラッチャニ)城。城壁の中で一番高い尖塔を持つ建物は「聖ヴィート大聖堂」(この中には入りました)。その手前に見える建物が旧王宮です。橋が架かっている河は、もちろんブルタヴァ(モルダウ)。
確か時間は午前11時頃だったと思いますが、陰を見て頂くとわかるけど太陽の位置が低いのがおわかり頂けるでしょうか?北緯50度なんです。樺太中央とほぼ同じ。
CastleDoor このカレル橋を渡り、坂をず〜っと徒歩で歩き(ホテルから歩きづめなのでこの辺で少し疲れてきました)、城壁の下にたどり着いて、更に坂を上るとフラッチャニ城正門前に出ます。
正門前は、有名な護衛兵が凄い寒さの中、まるで人形のように静かに立っています。観光客は護衛兵と一緒に記念写真を撮るのですが、彼らはその間も厭がるでも喜ぶでもなくじっとしています。

GuardChange正午にはとても有名な「近衛兵の交替」がある。私はず〜っとビデオに撮っていたが、約20分に渡って儀式が行われれる。まず、城門内の建物の二階に楽隊が現れて演奏を始めると、1階から交替をする近衛兵約20名が整然と出て来て何か号令をかけながら整列し待つ。と、しばらくして城門外で仕事をしていた近衛兵約20名ばかりが整然と行進して城門内に入って来る。そこで、グループの長らしき兵隊がそれぞれ一人ずつでてきて何か大きな声で言葉を交わす(変わりなし、とか、御苦労様、とか言っているのだろうが?)。
GuardChangeMusic(左は2階の窓に並ぶ楽隊)
 城門の外から帰って来た衛兵の中で旗を持った兵士他3名が前に進み出て、次に後退するグループからも3名出て来てここで旗の引き継ぎが行われる。つづいて、城門を守っていた二人の兵士と後退するための二人の兵士が一人の上官らしき兵士に伴われて城門の外に行き、そこで先ほどまでじ〜〜〜っとしていた兵士が初めて動いて後退する。すると、その上官らしき兵士に伴われて交替を済ませた二人の兵士が戻って来て建物の中に入って行く。ひとしきりの号令の掛け合いの後、外から帰って来た軍団が建物の中に入って行くと、今度は最初に建物から出て来てじっと整列していた軍団が上官とともに城門の外に行進して出て行ってそれぞれの部署について警護にあたる。その間、行進や動きがあると気は必ず楽隊が演奏していた。
面白かったのだがとても寒く(零下8度位)、20分近くビデオカメラを構えていた右手は固まったように動かなくなっていた。とにかく何か暖かいものを、と我々は城壁内のカフェを探し私はホットワインを注文した。赤ワインを温めて中にレモンが一切れ入っているだけであるが結構身体が温まった。
 その後は、城壁内のこれまた有名な『黄金の小道』を見て歩く。ここは玄関の高さが日本人でも頭をぶつけるくらい低い小さな家が立ち並び、まるで小人の世界に迷い込んだようである。ここにカフカの家があった。青い壁で目立っていたが、カフカって確か凄い長身だったはず。どんな格好でここで仕事をしていたんだろう。

ここから少し歩いて下りながら城壁の外に出る。そして丘をブルタヴァの方へ下って行く。結構歩き疲れたのでトラムに乗る事を希望する。私とYS氏は昨日3日間券を買っていたので他の人は一日券を新たに買う。
トラムに乗ってDusanに指摘されたのだが、券を買って持っているだけではダメだったのだ。トラムやバスなどのなかに、自動検札機がありそこに買ったチケットを挿入して、日時のスタンプが押されてそこから初めて一日券、3日券が生きるのである。スタンプが押されていないチケットを持っていても「違反」として扱われる事もあるらしいから注意である。昨日買った仲間もスタンプ押してなかったので、知らんふりしてその券を今日スタンプすれば使えたのかも知れない。だってトラムもバスも地下鉄も、また改札はないし車掌の検札などもほとんどないのである。
 またカレル橋の袂に戻って来た。午後1時半くらいになっていたので昼食をとることにした。次はスメタナ記念館に行く事にしていたので、Dusanがスメタナ記念館の近くの穴場のような安くて上手いレストランを見つけて来てくれた。当然ピルゼン・ピヴォで乾杯。外はあんなに寒いのに建物の中は暖かくビールが上手い!

Smetana1 昼食後は直ぐ隣りのようなスメタナ記念館を見た。いろいろ興味深いものがあったが、常に係官が見張っていて写真を撮らないように注意しているのは少し目障りだった。日本人は注意されても無視してフラッシュをたいて写真をとるような無神経な観光客が多いからだろう。ちょっと悲しかった。
CastleKarelSmetana (後方にフラッチャニ城と丘、ブルタヴァ河、そして第2曲「ブルタヴァ」で有名な交響詩『我が祖国』を作曲したスメタナの像とその記念館)
半日だがかなり歩いた。Dusanは午後4時から用事があるのでここで一旦別れるという。我々は自由行動をする事にした。お土産を買いたい人、まだ見て回りたい人、バラバラに別れた。私は少し歩いてこれもブルタヴァの袂近くに建つ国民劇場を外から写真とヴィデオに納めた。
そしてトラムに乗りDusanのアパートへ戻った。息子のTomas19才が帰っていた。Dusanはアメリカに来る1992年の少し前、奥さんを亡くしてTomasと二人で暮らして来た。今はGFがいるような事を言っていたが。私は、コーヒー(当然Nescafe)に砂糖とミルクをたっぷり入れて部屋で荷物を整理しながら少しベッドに横になった。
 今晩の食事はどうするかは決めていなかった。Dusanが2つ候補を挙げてくれた。その中の近い方にした。Dusanのアパートから歩いて数分。ホテルからも近い。そこの女性オーナーシェフは何年か前にチェコ共和国大統領の晩餐会の食事を担当した有名人らしい。
 一日を我々のために費やして親切にしてくれた友人デュシャンを、我々が招待した事は言うまでもない。
T氏とH氏親娘の3名は、明日プラハを後にしてそのままウィーンをトランジットで帰国である。
私とYS氏は明日のアフラートゥス木管五重奏のコンサートの招待を受けているので、明日もプラハに泊まる。しかも明日は日中にフィンダ氏(スタニスラフ・フィンダ、プラハ交響楽団ピッコロ奏者、ピッコロ製作者、私のFinda PiccoloはNo.20)にお会いする事になっているのだ。明日もビッグイベントである。
(つづく)

プラハの観光名所については、またまたこの方の『プラハ紀行』が写真や説明も充実していて凄いですね。
http://www.nakash.jp/opera/2004praha/index.htm

(9日目の食事)
朝食:デュシャンの家で。デュシャンがベーコンと卵でスクランブルエッグを作ってくれた。あとはパンとコーヒー(当然Nescafe)。「卵はいくつ?」と聞くので、普段余り卵を食べない私は、「1個か2個」と答えたのだが、「今日は歩くんだから3個は食べなきゃ。」とデュシャン。上に書いたように半日歩き回った訳で、彼が正しかった。
昼食:デュシャンが見つけてくれた感じのいい、しかも安いレストラン。ピヴォはまた500mlグラス一杯60コルナ(=240円)だったので2杯飲んだ。食事の写真なし。
夕食:
PragueRestMain
デュシャンお勧めのレストランで彼を招待して6名で。T氏、H氏親娘最後の夜であった。
私のメイン料理は、『Secret of Prague』とか何とか名前がついていた。牛、豚、鳥肉のソテーをジャガイモで作ったパンケーキのようなもので包んである。何がSecretなんだろう。。。

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2006.01.20

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(5)(プラハ初日の夜)

良くこんなに書けるな〜、と友人にも言われた。
帰国後1週間。そろそろ記憶が曖昧になって来ているので、むしろ焦って書いている感がある。ろくに推敲もせず、だ〜〜っと言う感じで書きなぐれば2時間もかからない。

・八日目続き(プラハ初日)
さて、どこまで書いたのだっけ。
そうそう、カレル橋を途中まで渡っていたら、陽が落ちて暗くなり、と〜っても寒くなった。真ん中当たりまで歩いて行って、対岸の王宮がライトアップに浮かび上がる姿やその反対側にルドルフィヌム(芸術家の家)がデンと構える姿をヴィデオに納めたりした(デジカメではもう写らない)。
近くにお土産屋さんなどもあったが、とにかく半端ではない冷え込みなので何かあったかいものを飲もうということになった。既に5時半を過ぎて真っ暗になっていたと思う。7時にロマン(チェコフィル、フルート奏者)とルドルフィヌムで待ち合わせをしている。ホテルに帰ると直ぐ出て来なければならないので、近くでCafeを探す事にした。私の持っているガイドブックに、徒歩圏内にCafe Kafkaという、カフカ縁(ゆかり)のカフェがあると書いてある。
KafkaZucker2
少し迷いながら(6時を回っていた)、探し当てたCafe Kafkaには、見るからに大学生とおぼしき若い人が一杯いた。メニューをみると、日本のような「ブレンド」とか「コーヒー」という文字がなく、なんとNescafeと書いてある。そういえば、Dusanの家でも、コーヒー飲むか?と聞かれてyesと言ったらNescafeをまぜまぜしてくれたな〜。
私は少しでもアルコール分を入れたかったのでIrishを、fagottのT氏は「プラハ」で(!)ウィンナコーヒーを、YS氏とH氏はNescafeを、H氏お嬢はBlack teaを注文した。一番高い私のアイリッシュコーヒーで100コルナ(=400円)だったと記憶している。Nescafeは60コルナ(=240円)。インスタントでこんなに取るのか?!紅茶は、トワイニングのティーバッグで出て来た。物価から見るとちょっと割高感がある。
KafkaZucker1
 後でデュシャンに聞くと、普通の街の喫茶店はみんなこんな感じらしい。いれて時間のたったコーヒーや、出がらしの茶葉で紅茶を出していない事を示すために、ティーバッグで出したりするそうだ。共産圏時代の面影が残っているのかも知れない。コーヒーなどに入れる紙製のバッグのお砂糖の袋にモノクロでカフカの顔が描かれていたので、そのお砂糖をお土産に頂いて来た(写真は、Cafe Kafkaにおいてある砂糖の袋の表と裏)。

 ルドルフィヌムは近いはずだが歩いてどれくらいかかるかわからないので30分ちょっとで店を出た。ブルタヴァ河方向へ歩くとすぐにその威容が見えて来た。正面入り口ではなく、裏のpersonnel entranceに回った。
18:45、約束の時間には早かったがドアを開けて警備員に挨拶すると、「もう今日は終わりだ」という。いえ、チェコフィルのMr. Roman Novotnyとapointmentがある、と伝えるとチェコ語で何か言いながら通路奥のドアが並んでいる方を指差すので、礼を言ってそちらに向かった。ドアにもチェコ語が書かれてあるのでどこなのかわからずウロウロしていると、入り口で見ていた先ほどの警備員がチェコ語で何か言いながら、一つ手前だ、みたいな手振りをするので、「ここか?」と指差したら大きく頷いた。
AWQpractice
「コンコン」ノックしてドアを開けると、また短い通路が会って奥にまたドアがあった。かすかに音が聴こえて来た。
「コンコン」もう一度奥のドアをノックして開けると、ああ、いた〜、アフラートゥス木管五重奏団の懐かしい顔。
我々が入って行ったので、練習を中断して迎えてくれた。練習を中断させてしまった事を詫び、固い握手をし、どうぞ練習を続けてくれ、我々は外で待っている、というと、傍にあった椅子を彼らが並べてくれた。ここで聴いて待っていてくれ、というのだ。
ミュンヘン国際コンクールで一位になった、世界的木管五重奏の練習をわずか3m位の距離で聴けるなんて!
そこは舞台裏というか、『プラハの春』の会場としても有名なドボジャーク・ホールから見ると地下になっていて、練習室なのだ。10分ちょっと、彼らの練習風景を見せてもらった(写真)。時折、中断してはチェコ語で何かdisucussionしている。フルートのロマン(チェコフィル)がやはりリーダー格だ。ファッゴットのオンジェイ(チェコフィル)も木五の中ではベース担当として何か意見を言っている。クラリネットのボイト(プラハ室内楽団)と相談している。テンポの事だろうか。オーボエのヤナ(チェコフィル)は音で「こんな感じ?」と皆の同意を得たようだ。真ん中奥に座る、ホルンのラデック(通称バボちゃん、17才でベルフィルデビューし天才ホルン吹きといわれた、現ベルフィル首席)は微笑みながら皆の会話を聞いているだけ。そして、また同じフレーズを吹いて確認している。
彼らの2006年初のコンサートは、明後日1/10に予定されている。

 練習が終わって、「さあ、ビールだよ!」とロマン。あらためて皆に挨拶し固い握手を交わす。
オンジェイとヤナは昨年(H17年)11月のチェコフィル日本ツアーの際に、T氏、YS氏、それから今回のハンガリー演奏旅行に参加出来なかった我が団のホルン吹き(そうそう、オスカーというHNを使って昨日コメントをくれましたね)KS氏らとは会っている。私は仕事の都合で行けなかった。ロマンはその時、新宿のム○マ○のお仕事で飲み会には参加出来なかったらしい。だから私は、一昨年のチェコフィル日本ツアーの際に、みんなで西麻布の『権○』という、某国首相が某国大統領を連れて行って話題になった店でビールを飲み交わして以来である(参照:balaineの本家サイト、自慢部屋1−12〜14)。
 彼らの車とタクシーに分乗して出かける。ロマンは私に一緒に乗れ、という。
 ずいぶん遠かった記憶がある。ルドルフィヌムから河を渡って王宮よりも西の方へ車を10分位走らせたろうか。
AFQRestMenu(レストランのメニュ−表紙、字が読めるように少し大きくしました)
真っ暗闇の中に真っ白な大きな尖塔が目立つ教会らしいところへついた。ここは建設後1000年位経過したベネディクト派教会だという。ちょうど日曜の夜、何かミサをやっていた。しばし敷地内の歴史的建造物を案内されて、同じ敷地内にある(教会の経営ということ?)居酒屋風のレストランにはいった。
かしこまったレストランではなくてよかった、と皆思った。
「ビールでいい?」とロマンが聞く。もちろんである。
でもロマンはホットワインを飲むという。実は2日前から風邪をひいていてその日が一番具合が悪いのだ、と少し熱のあるような顔でいう。
それじゃあ、家に帰って静かに寝ていなくてはダメじゃないか、というと、明日休みだから、今日は我々と飲んであったかくして寝るから大丈夫だ、というのだ。我々を歓迎するためにきっと無理をしてくれたのだろう。
DuckCuttingRoman
AllTogetherinRestaurant
(鴨を切るロマン。集合写真。)
飲み物は、まずピルゼン・ピヴォ。つまりピルスナー・ビール。南チェコのボヘミア地方ピルゼンでは、アルカリ性の強い軟水が湧き出、ドイツのラガー酵母と出会って偶然生まれたものらしい。アルカリ飲量なので「身体にいいんだ!」と彼らも自分を納得させるように言っていた。旨いし安い。確か、500mlグラス一杯が60クローネ(コルナ)だから、200〜250円。同じPilsner Urquelといえども、樽に入れて蔵に貯蔵されて厳しく管理されているらしく、「そこの蔵の」ビールを飲みに来るのだそうである。だから同じメーカーの同じ名前のビールでも店によって微妙に味が違い、その好みが人によって別れるのだそうだ。
さあ、再会を祝して乾杯!え〜っと、チェコ語では「ナァズダラヴィー」。語感がとてもロシア語に似ている。
我々がハンガリーから来た事を知っている彼らは、「エゲシャゲ」「エゲシェゲ」とも言っていた(エゲシェグングレの省略版か)。料理についてはいつものように最後にまとめて書きます。
外は零下10度近い寒さであるが、中は暖かくビールと料理がおいしく、皆が親切で暖かく、楽しい時間があっという間に過ぎた。
RomanAKiRestr
JanaAkiRestr
RadekHanaAkiRestr


(写真は左から、ロマンと。初めての子供が昨年9月誕生。パパになったらちょっと親父くさくなった?風邪のせい?ヤナと。ヤナが結婚していて10才になる子供もいる事を初めて知った!、バボちゃんとその奥さんのハナと。天才ホルン吹きもプライベートはとっても気さくで楽な感じである。)

YS氏が「夢見たいだの〜」と庄内弁の感想をもらした。
H氏も「なんで自分がここにいるのか?って思う」とつぶやいた。
世界的プレーヤーだろうがなんだろうが、彼らは「友人」なのである。我々をフルート奏者、ファゴット奏者、ビオラ奏者として招待してくれているのではなく、日本で出会った友達として招き歓待してくれているのだ。
気取らない、フランクな、その中にも中央ヨーロッパの人らしい素朴さが見える彼らの心というのは本当に心地よいものであった。私も夢を見ているようだった。
そういえば、西麻布でロマンと「次は是非プラハでビールを飲もう」と誓いあったのだ。「ついにプラハに来てくれたな。一緒にビールが飲めて嬉しいよ。」というロマンの言葉がとても有り難かった。
 元々は神経内科医で今は脳外科医として、不随意運動症などに対する定位的脳手術の分野で手術をしているデュシャンは、日曜日なのだが4時頃から8時過ぎまで仕事だと行って病院に行っている。ロマンに「デュシャンも呼んでいいか?」と聞いたら、もちろんOKと。電話してロマンに代わって場所を伝えてもらった。40分位してデュシャンも登場。(よって上の集合写真にはデュシャンは写っていない)。それからも楽しく食事し談笑した。
DusanBed(デュシャンの家のベッド。大の大人が二人は寝れる彼のベッドを借りた)
23時頃となり、そろそろ家に帰りましょう、ということになった。H氏親娘と私はデュシャンと一緒にタクシーで彼らの泊まるホテルまで行き、そこから二人で歩いてデュシャンのアパートへ帰った。自由に使っていい、と彼からスペアキーを渡されたが、表通りからアパート入り口に入るドアと階段に入るドアと3階の通路(外に面している)に入るドアとデュシャンの家のドアと4枚のドアそれぞれの4つの鍵束を渡された。しかもどれもちょっと回すのにコツのいるような癖のある代物だった。まあ、なんとかなるだろう、と言って彼とスコッチを飲んで少し話しをし、寝た。

(つづく)

(第8日目の夜の食事)
夕食:ロマン達に連れて行ってもらった、ベネディクト派修道院の敷地内のパブ風レストラン。
食事は次々とこれでもか〜、と出て来た。
afqrestappet
AFQDumpling
AFQRestDuck左から、生ハム、パプリカなどの酢漬けのような要するにピクルスのプレート、いわゆる前菜ですね。続いて、豚肉と(多分)鶏肉を使ったdumpling、 漢字で書くと「点心」なんだけど。真ん中にあるソースをつけて食べる、お肉の蒸し物ですね。メインは、ハーフダックが一人に一つ!?鴨を半分に切って味付けして焼いたもの(上の写真にこの鴨を切って取り分けようとしてるロマンの姿が写っています)。赤いキャベツと白いキャベツの酢漬け、いわゆるザウアークラウト付き。
ビール、ワイン。特にチェコビールは「身体にいい!」ということでたくさん飲みました。

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2006.01.19

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(4)(プラハへ)

・八日目(2006年1月8日):プラハ初日
 ハンガリー国ソルノーク市での演奏旅行とブタペスト観光を無事終えて、楽団員本隊は1/8ウィーン経由で帰国である。帰る事になればあっという間である。
 私を含む4名の団員とその家族一名はこれからプラハへ向かう。 
ButapestPragueTrain 通常は飛行機を使う距離であるが、ブタペスト東駅からわざわざ列車で行く旅にした。列車は、早朝6:50発。ヨーロッパの列車の旅は日本とはかなり事情が違うだろうからと、5:50ホテルロビー集合とした。そのため起床は5:15にMorning Callで目覚めた。タクシー2台に分乗し「東駅」へ。ターミナル駅なのでここを通過して行く列車はない。すべてここが始発かここが終着である。6:05には駅に着きなれない表示を確認しながら「プラハ行き、6:50」という列車を探した。4番線と書いてある。目の前にはホームが2つ。表示を見ると左の奥となっている。ゴロゴロ荷物を引っ張りながら左奥へ行くとそこにまたホームが2つ。まるで上野駅の常磐線始発ホームを探す様な感じである。
Train
列車はお世辞にも綺麗とは言えない。東欧の遺産の様なディーゼルエンジン機関車が引っ張る8両編成。我々はケチったので2等車。一コンパートメントに6人座り。総勢5名(含む女性一名)なので余裕はある。他の席はガラガラ。なので、喫煙出来る空のコンパートメントに移ってそこでのんびりする。
 そうだ、列車には食堂車がついていた。と興味津々覗いてみる。我々は一号車で、食堂は5号車にあるので4つも車両を渡って行かなければならない。9時ごろ行ってみると、シェフらしきまだ若い人とベテラン給仕らしき人が暇そうにしていた。
「予約はいるのか?」と聞くと、特別要らない、との答え。「12時頃に5名で予約したいが」というと、即オーケー。
「メニューを見せてくれ」中身はよくわからない。値段はハンガリーフォリンとユーロで表示されているがやや割高な印象。ベテラン給仕が「これがお勧め昼食コースメニュー」と言う。値段も手頃だしいろいろ聞くのも面倒なので、「よし。それを5人分。席はこことここを予約、いいか?」と英語で通じる。よかった。マジャール語は、エゲシェグングレ(乾杯!直訳は、我々の健康のために)位しかわからない。昼食については後記。
 列車の旅は6時間半だが、なかなか眺めが良くて楽しかった。ブダペストを出てハンガリーとスロヴァキアの国境近くまでは列車の左側にず〜っとドナウ河が見えていた。淋しい東欧、中欧の田舎町という景色が流れるように飛んで行く。スロヴァキアに入った頃からだったろうか。周囲は雪景色に変わった。
ThruTheWindow
 日本のように高い山がなくなだらかな丘陵と平原が続く雪景色は美しかった。北海道は富良野の冬のような感じであろうか。幾つかの駅に停車してすこしずつ乗客も増えて来たので自分のコンパートメントに戻った。時々写真を撮ったりヴィデオを撮ったりうとうとしたりしていたら、少し大きそうな駅に着いた。ブラチスラヴァだった。スロヴァキアの首都である。首都、といっても、東京駅だとか、ブダペストなどを想像しては行けない。駅に直ぐ北側に山があり、南側にビルが見えるものの「どこに町が?」という印象だった。欧米の線路、特にターミナルではなく「通過駅」は町の真ん中から外れたところにあるからかもしれないが、なんだかうら寂しい、豊かではない印象だった。人口は43万人となっている。
 しばらく走るとチェコとの国境に近づく。ハンガリー国内で、ハンガリー側とスロヴァキア側のビザのチェックと検印があったが、スロヴァキア内で、今度はスロヴァキア側とチェコ側のビザの検閲。そう、列車に乗って3つの国をまたいでいるのである。
 ビザの検閲が終わったので食堂車に向かう。食堂はガラガラに近い。
TrainRestaurant3
 まずはビールで乾杯(もう、ここはハンガリーではないからOK。それにチェコビールである!)。食事の事はいつものようにまとめて後記。
 胃袋を満たしほろ酔い加減で1号車に向かってしばらく休んでいたら、ドイツ語と英語でもうすぐプラハだという案内あり。みんな荷物をまとめだす。私は「そんなに急がなくていいんじゃないの?」と思っていたが皆に合わせて荷物を通路に運び出す。外を見ると南側に大きな河が見える。ブルタヴァ(モルダウ)なのか?!
 それから5分以上して列車が速度を緩めだす。プラハの駅も「通過駅」であり、ターミナルではないため市街地からは離れている様子。ゆっくりホームに入る。荷物をおろす。(ホームとステップの段差が大きい)。全員降りた事を確認。日本のように30秒で走り出す事はなく、しばらく(10分位?)列車は停まっていたようである。つまり、駅に着いてから荷物を運び出して十分間に合った訳であるが、まあ、日本人だからなあ、我々は。

 比較的大きな駅の構内をゴロゴロ荷物を押して行くが、改札がない。そういえばブダペスト東駅にも改札はなかった。ブダペストを出て割と早くに車掌のチェックが一回あった。。プラハ駅にも改札がない。これではただ乗りだって可能だ。そういえば、いくらケチったといはいえ、列車の料金は「往復」で一人日本円にして8000円。片道だけの切符の方が高いのだとの事。往復買って片道捨てる方が安いなんて。
 駅の構内を進んで行くと少し見覚えのあるチェコ人の顔があった。おお!デュシャンだ!
 彼とは1992年、私がピッツバーグ大学の脳神経外科に留学し研究をしていた時、私の直属の上司とデュシャンの上司が既知の仲ということで、彼が同じ研究室に2ヶ月間の短期留学をした時に出会った。1968年のソビエト連邦軍のチェコ侵攻、その後の弾圧を経て、1989年の暮れに起こった「80万人集会」。そして、非暴力的に、整然と、静かに行われた「柔かな」ものだったことから『ビロード革命』と呼ばれた自由世界への復帰。デュシャンと米国で初めて会ったのは、それからわずか2年半後のことであった。そしてそれから13年が過ぎた。
 お互い年は取ったが彼のちょっとアラン・ドロンに似た彫りの深い陰のある表情はすぐにわかった。再会を喜びあい抱き合って挨拶をする。彼の案内で(彼がいなかったら戸惑った事だろう)タクシー乗り場に行き、二人は彼の車で3人はタクシーで大荷物も分乗させて、Hotel Palace Prahaへ向かった。
 VaのH氏は娘さんを伴っているのでツイン一部屋。ファゴットのT氏とフルートのYS氏が一部屋。そして私はデュシャンのアパートにホームステイさせてもらう事になっている。幸い、彼のアパートからホテルも歩いて5分の距離。プラハは古い街並のため車での通行はかなり不便。一方通行が多くて、歩いて5分の距離を車で行こうと思うと一旦市街地の外に出るように走り10分位かけて別の方向から戻って来る様なことになる。

 まず、時間を決めてホテルのロビーに集合し、今日の観光は時間的に「ドボジャーク記念館」と「カレル橋」をちょっと見ようという事になった。わかる範囲でできるだけ歩いてみよう、トラムに乗ってみようという事になったが、最初だけはわからないので、ホテルのドアボーイが進めるままに、ホテルの前に横付けされていた「無印」のタクシーを使う事になった。
DvorakPiano(写真はドボジャークの弾いていた(?)ピアノ)
 これが失敗だった。メルセデスのE-classの新車。とてもピカピカの車である。おバカな日本人だから「お!ベンツだ!」などと喜んで乗ってしまった(一応、私もちっちゃなメルセデスオウナーではあるのですが、、、)。ホテルから5,6分くらいだったろうか?初めてだからどういう風に走ったのかよくわからないのだが、400コルナと言われたのでチップを弾んで(まだ十分な小銭がなかったので)450コルナ=1800円くらい払ってしまった。
 日本のタクシーならあのくらいの距離、あのくらいの時間乗ればそのくらい払っても全然おかしくないのだが、ここは大卒初任給が日本円にして10万円以下、物価半分以下のプラハなのだ。後で聞くと、普通のタクシー(ボディにAAAと書いてある)なら、通常200コルナで行くはずだという。
Dvorak9Symp1(写真は「新世界から」 の自筆スコア。どこの部分かわかりますか?)
日本人はドボジャークが好きだ。小学校の下校の音楽は「新世界から」の一節が使われている事が多い。あのオーボエの旋律に郷愁を覚えない日本人は少ない。「ドボジャーク記念館」は日本人慣れしているように感じた。受付の気さく感じの太ったおばちゃんが料金をたどたどしい英語でいう。チェコ語でなければ通じやすいのはドイツ語だ。ガイドブックの値段と違うので聞くと、2006年1月から新料金なのだ、という。これは信じるしかない。しかも写真取るなら+30コルナだという。それなら、5人のうち一人だけ写真を撮る事にして+30払い、後は基本料金(?)の一人40コルナで入る事にした。
 ドボジャーク記念館を見た事で少し落ち着きを取り戻した我々は地図を頼りにカレル橋まで行ってみようという事になった。何年か前にプラハに来たという経験者が一名混ざっているのだが、当時知り合いにつれ回してもらったらしく彼の記憶があまり当てにならない。記念館から徒歩で大通りまで出て、地下鉄の切符(トラム、地下鉄、バス共通券)をタバコ屋で買う。一日券80コルナ(=330円)、3日券220コルナ(=900円)だったので、2泊予定の3名は一日券を、3泊予定の私とYS氏は3日券を求めた。
 3日間、どの乗り物に何回乗り降りしても共通券で大丈夫なのだ(空港方面とか、ダメな路線もあるらしい)。この時点で時刻は午後4時を回っていたので次第に薄暗くなって来た。カレル橋近くでトラム降り、歩いてカレル橋を目指す。橋の袂近くにある「スメタナ記念館」は4時半までなので明日見る事にして、橋を途中まで渡ってみる。日が落ちて気温がグッと下がる。手袋、マフラーは必需品。帽子のない私はまたスエットパーカーの帽子部分を頭からすっぽりかぶって、目と鼻だけ外に出ている格好になったが、ビ=ン!という感じで冷える。
「うう〜!しばれるねぃ!」と北海道の人なら言うのだろう。

プラハでは書く事が多い。
今日はこの辺で終わりにする。

(明日につづく、、、)

(8日目の食事)
朝食:抜き(実は、1/6にソルノークを去る際にいろいろもらったバナナ、リンゴ、甘いパンなどが残っていたのでそれを少し食す)。
昼食:ブタペストープラハ間の大陸横断鉄道内食堂車にて。
TrainSoup
TrainMain
cafedessert左からハンガリー料理の定番スープ、グヤーシュ。結構美味しかった。赤い色はパプリカですがまったく辛くない奴です。メインは、多分子牛肉の煮込みとパスタ、それにサラダ!おお!!久しぶりに生野菜のサラダのプレートを見ました。でもドレッシングとかかかっていなくて、自分で塩コショウで味を整えるか、シチューのソースをつけるか、でした。
デザートは、箱に入ったチョコレート菓子。まあ、食堂車でケーキは焼けないから外から持ち込むのに簡便な形なんだろうけど。。。あとカプチーノ。飲み物は、チェコが誇るピルスナー・ウルクエル、白、赤ワイン。調子に乗って飲み物を頼む奴がいたので(笑)、当初の予定よりかかりました(5人で、チップ込みで145ユーロ=2万円くらい)。ハンガリーやチェコの物価、生活水準から日本での食事代にするとおよそ4、5万円の昼食になります。ボラレちゃったかな。。。
(夕食は明日の記事へ)

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2006.01.18

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(3)(ハンガリー5日目、6日目)

(独語:旅行記にコメントなんてつけにくいだろうけど、何か反応が欲しいナ〜、、、)

・第六日目(2006年1月6日):ハンガリー5日目
 今日でソルノークともお別れである。ホテルに2泊、ボルバーラの家に2泊させてもらった。
SzolnokSouvenir
左の写真の様にお土産をもらった。パーリンカが2本+スキットルの中身もパーリンカ。ウニクムのミニボトル。結局4つが酒である。(^^;;;;
 YS氏は、着物の帯、日本酒、自分の作ったお餅、和風な小銭入れなど「和」で攻めたお土産をたくさん持って来た。私は「かぶらない」ように考えて、日本がこれから世界に発信して行く新しい文化「カワイイ」の代表である、キティちゃんグッズを持って来た。実用的に、キティちゃん色一杯、ラメラメの小さな手帳やスケジュール帳、小さなシステム手帳、ミニホイッスル付き携帯ストラップなどである。受けたのかどうか反応は今一だった。キティちゃんを知らないのだから仕方ない。娘さんのレイカは喜んでいるように見えた。
 朝食を頂き荷物を片付け集合場所のホテル前に送ってもらった。ソルノークフィルは3月に来日する。酒田、遊佐、東京(豊島区文化会館、豊島公会堂?)で公演を行う予定である。ボルバーラもご主人のシャンドールも来日予定なのでまた会える。セカンドフルート&ピッコロのヨルディは来ない。残念だ。
 バスの前でフルートパート5人でまた記念写真。ボルバーラ、シャンドール、ヨルディと抱き合って挨拶。女性とは頬を左右交互にくっつけて挨拶する流儀にも慣れた。

バスは、10時過ぎにホテル前を出てブダペストへ向かった。約一時間半でブダペスト到着。まず今日から2泊するペスト地区にあるラマダホテルにチェックイン。昼食をとって、午後は主にバスで市内観光である。
dunacastle
dunamattiusバスから撮った、ドナウ川と川向こう(ブダ地区)の王宮およびマーチャーシュ教会。ブダペストの写真をふんだんに納めた観光レポートは下記URLに素晴らしいサイトがあります。
ブダペスト旅行記へ。

これらの建造物の説明を受けながら、有名な鎖橋やエリザベート(シシー)橋、自由橋、国会議事堂など観光スポットをササッと見る。このドナウ河畔の美しい光景はユネスコの世界遺産に登録されている。次に、ペスト地区の中心部で少し町の中を歩く。ガイドとつるんでいるのであろうが、日本語を喋るスタッフのいるお土産屋さんなどを紹介されるが、私は隣りのタバコ屋さんによって絵はがきを数枚求めた。ただ、こういう「普通の」お店ではユーロが使えず、ハンガリー通貨フォリンとしか受け付けてくれなかった。
 お土産屋さんでは「カロチャ刺繍」の小物やテーブル掛けなどを数点購入。
 間違っても酒、特にパーリンカは買わない。
BudapestMarket
 通りを歩いて行くと「中央市場」があった。ここは広い建物の中にたくさんの店が入っていて、主に生鮮食料品(肉、野菜、チーズ)や酒を扱っている店が多い。地下にはスーパーもあった。魚屋もあったし中華アジア料理材料店もあった。興味があったので覗いてみたが、お箸と箸置きのセットが竹の蓋付きの箱に収められて売られていた。インスタント麺もあったが、たいていはシンガポール、タイ辺りで売られている安い辛い麺類のようだった。醤油は世界の定番「キッコーマン」がおいてあった。ここでフォアグラペースト缶詰を自分用の土産にした。
 夜は、国立オペラハウスでオペラ鑑賞。OperaCeiling左の写真はオペラハウス入ってすぐ上の天井。
 本日の出し物は、ワーグナー作『ラインの黄金』。
はっきりいいまして私はオペラ初心者です。というより、生まれて初めてモノホンのオペラをブダペストで見る事になってしまいました。あらすじは遠い記憶くらいにありましたが、ドイツ語がわからないし、舞台上のスクリーンに電光掲示されるマジャール語はもっとわからない。予習しておけば良かったかな〜?まったく予備知識なしに「芸術」として楽しもうと思っていたのですが、わからないからつまらない、つまらないから眠くなる、、、で途中3回程意識を失ったと思います。劇が始まる前に隣りの女性に「もしいびきかきそうだったら起こしてね」と耳打ちしてあったのですが、一回だけ膝を軽く叩かれJCS100から3くらいまでに意識が回復しました。またすぐにJCS10くらいにレベル落ちましたが。(笑)
ButapestOpera折角の「オペラデビュー」なのでタキシードを着てみました。オペラハウスを入ってすぐのクローク前でパチり(フラッシュを焚かなければ写真は撮っていいようですが、ダメだ!と言っている係員みたいな人もいました)。
 まあ、伝説の話しを劇に仕立てている訳で、伝説を知らないから全くわからないのです。日本の歌舞伎の様なものだろうと思っていたのですが、演出家によって一部あらすじまで変わってしまうくらい、同じ『ラインゴールド』と言ってもいろいろあるようです。今回の演出には、緑色のレーザー光線が使われたり、工事現場(?)ではオケ以外の録音音源で「カッコン、ガッタン、バッタン」というような奇妙な音がスピーカーを通して流されていました。
 歌舞伎だって「過去」の芸術ではなく時代ともに変わるものでしょうし、ただ「伝統」を受け継ぐだけのものではないと思います。ただ、衣服、所作、流儀、などなどかなり伝統を守り抜く芸術だと思うのです。ところがオペラというのは、要するに生オケ付き映画風演劇という感じで、時代考証はあるかもしれないけれど、現代の世相や問題を取り込んだりしているようです。
こんな事をいうと異論反論ありそうですが、忙しい脳外科医にオペラは似合いません。短くても2時間半から3時間。長いものになると5時間も6時間も劇を見続ける(途中で休みがあるとしても)なんて耐えられません。当日の『ラインゴールド』も「あるんじゃないか?」と期待していたintermissionがなく、カーテンコールまで含めると2時間45分、そう約3時間も立てないのです。ヨーロッパでも屈指のオペラハウスと言っても作りは古く一階フロア席は木の椅子。バルコニー席ならフカフカのクッション付きの椅子がおいてありました。木の小さな椅子では体格の小さい日本人だって苦しかった。身体の大きなヨーロッパ人が耐えられるのが不思議だった。
オペラを見ている間に「エコノミークラス症候群」になりそうでした。こういう難行苦行の様なものに耐えられるヨーロッパの芸術愛好家を私は単純に「偉い!」と思ってしまいました。まだまだ修行が足りません。。。

 その夜、やはりオペラに疲れたVa奏者が私とYS氏の部屋に来て鬱憤をはらすかのように遅くまで飲んでしまいました。気がついたら部屋の時計が午前2時50分を回っていて、おお〜、そろそろ寝ますか?って感じで寝ました。

(5日目の食事)
朝食:ボルボーラの自宅で、パン、ハム、チーズ、コーヒー+パーリンカ(笑)の食事。
昼食:ラマダホテル1階テラスレストランにて、スープ、メイン(鳥だった)、パン、デザート、コーヒー、ドリンクの食事。写真なし。
夕食:ラマダホテルテラスレストランにて、軽食(サンドイッチの様なもの)。オペラに出かける時間がタイトであったため。写真なし。


・七日目(2006年1月7日):ハンガリー6日目(=ハンガリー最終日)
 夜更かしをしたせいで、目覚めは非常にさわやかの正反対。どんよりしたまま、朝食。
 今日は一日ブダペスト観光。バスによる30名位の団体おのぼりさんツアーである。
ButapestChurchAll
 まず聖イシュトバーン教会(英語だとStephenになる)へ。素晴らしい建物。イシュトバーンは建国の祖とされていて、それが祀られて教会になっている訳である。西暦896年ハンガリー民族が定住し1000年に建国。時代が近いのは平安末期。この教会は建国1000年を狙って19世紀から建て始められたとのこと。キリスト教を保護し国に広めた初代国王として、キリスト教布教に功績のあった聖人とされたわけであるが、本当に「聖人」だったんだろうか?と天の邪鬼の私には疑問がわいたが、疲れているので余計な事は考えない事にした。
RtHandStephen
RtHandStephen2
驚いたのは、イシュトバーンの死後50年くらいたってから墓が掘り起こされ、その右手が保存された。『聖なる右手』というミイラの一部を祀った訳である。その後、ハンガリーが蒙古、トルコ軍、オーストリア、ドイツなど諸外国に侵入支配されるたびにどこかに隠されて守られて来た歴史があるらしい。ハンガリーには山がほとんどなく、一番高い山で1000mちょっと。可愛らしいものである。後はほとんどが平原なので、外から攻め入るのはよういであったようだ。しかし、ミイラを守り、ミイラを祀っているのか。。。日本の寺と変わりないんだな、と思う。写真は、右手のミイラが入っている祭壇とその説明の写真。

GundelDoor
Gundel
 その後、ペスト地区でまた日本語が話せるスタッフのいる店でお買い物。試しに小さなトカーイワインのスィートの小瓶を買ってみる(持って帰って飲むんだろうか)。また絵はがきを購入。
 ついで、バスで「英雄広場」へ。大使館などが建ち並ぶ市の中心的道路の先にハンガリーの英雄14人の像が立ち並ぶ広場がある。そこで説明、記念写真などをとり近くに昔万博をやった時に作った古いハンガリーの建物のレプリカがあるところをチラっとみて昼食へ。昼食は、ハンガリー国内はもとより世界的に名声のあるレストラン『グンデル』へ。(ちなみに昨年10月の学会の際に、横浜の某ホテルに宿泊したらそこで『グンデル』で使用するお皿などを販売するフェアをやっていてちょっとびっくりしました)。
ここの昼食は、ソルノークフィルのオゴリだったようです(ソルノークフィルから数名が案内のためについて来てました。あの強面?で優しいオーボエのイームレも。)(^^

昼食後は、バスでペスト地区から橋を渡ってブダ地区へ。先ほどの通りには、リスト音楽院などもあるらしく、時間的余裕のない今回の旅では訪れる事が出来ませんでした。ちなみに、ガイドが言うには、「リスト」というハンガリー語は「小麦粉」という意味もあるらしく、デパートに行って「リストのCDは?」って聞いたりすると小麦粉が出て来るかもしれません、なんてギャグを言っていました。
 ブダ地区は、ブダペスト観光のハイライトというか、丘陵地に王宮がそびえ立つ(昨日のバスからドナウ川越しの写真参照)歴史的建造物が見られる場所。王宮の真ん中の青銅のドームは第二次世界大戦の爆撃で吹き飛ばされたとの説明。そこここに、先の大戦、特にナチスドイツへの反発の言葉が聞かれるのは当然であろう。
 王宮の周りのぐるりと歩いて回り、マーチャーシュ教会へ。ここも立派な教会である。St. Matthiusがマジャール語ではマーチャーシュになるらしい。中を見て外に出ると4時半近くになり、もう空は薄暗い。この辺りはビデオは撮ったがあまり写真がない(近影しか写らないので)。で、下記のサイトにとても素敵な写真が豊富にあります。興味のある人は是非どうぞ!
ブダペストの観光名所写真へ。

 一旦ホテルで休憩。買物の時間が少なかったので明日帰国する事になる本隊のメンバーの多くはお土産を買いに出かけたようだ。私は部屋で小一時間休んだ。
 夜は、天皇皇后両陛下がブダペストにいらしたおりに料理を担当したシェフのいるブダ地区のレルトランで公式Fairwell Party。(店の名前は思い出したら書きます)
 マエストロ井崎もピアニスト藤井も参加され楽しい会になった。一昨日のコンサートの録音がすでにCDにされていて我々に記念の品としてソルノークフィルからプレゼントされた。しかも演奏会風景の写真がジャケット表紙に、中身は演奏曲目、CDにまで英語と日本語で記載されていた。マエストロ井崎と藤井亜紀さんからサインを頂いたのは言うまでもない。
 会が終わって立ち去る我々のバスにマエストロが乗り込んで来て「いがった、いがった」(庄内弁でよかった、よかった)と言っていたのは印象に残った。この席では判明した事であったが、マエストロはなんと私と同郷の福岡市生まれであった。しかも風格漂うその外見からは私より1、2才年上と思っていたのになんと3つも年下だった。まあ、音楽に年はあまり関係ないが。またいつか共演させて頂きたいと思う。

 その夜も、VaのH氏が我々の部屋に来た。ファゴットのT氏とその夫人も来られ、皆で酒を飲んだ。我々は明日朝は早く、列車でプラハに向かう別行動となる。起床してすぐに出かけられるように荷造りし、今日は睡眠導入剤を服用して寝た。

(6日目の食事)
朝食:ラマダホテルにて。フルーツとサラダ、トマトジュースとオレンジジュースとコーヒー。身体が生もの、特に生の野菜を欲している。ここ5日間程、生の野菜をほとんど摂っていない。
昼食:上記のように銘店「グンデル」。
GundelSoup
GundelMain
GundelCakeスープは、レンズ豆のシチューっぽいやつ。名前がわからないけど抜群に旨かった。この旨さにやられて、当日「レンズ豆」を購入した団員がいた。豆の問題ではないと思うのだが。。。メインは魚。白身の魚のムニエルがバルサミコソースのサラダの上にのっているもの。最後にデザートとコーヒー。グンデルのパンケーキではなくパリッとしたカラメルをまとった淡い味のチーズケーキのようだった。
 ン?いつもに比べて量が少ない。日本人の昼食に丁度いい量。日本人が大挙来るので好みがわかっているのだろうか。とにかく「量」で勝負ではなく「味」で勝負で良かった。
夕食:Fairwell Partyにて。
FPartySoup
FPartyMain
スープは「これぞハンガリー料理!」というグヤーシュ。これがなければ始まらない。(辛くない)パプリカがふんだんに使用されている。野菜もたっぷり。ハンガリーの人はこういった煮た野菜を摂るから生の野菜を摂る機会が少ないのかな?メインは鶏肉とコーンのシチューっぽいの。これも名前がわからない。飲み物はふんだんにはなかった。ハンガリーの人にはもの足らなかったのではないか。うちの主催だったからか。。。

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2006.01.17

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(2)(ハンガリー3日目、4日目)

(文中の写真をクリックすると少し大きくなります。データ量を減らすため解像度を下げてあります。)

さて、昨日に続いて旅行記を書く。
・第四日目(1月4日):ハンガリー3日目
 昨日のリハで練習不足が露呈した事もあり、少しでも練習量を増やすため開始時間が30分繰り上がって9時半となった。よって9時にバスでホテルを出発する。 
 今日のリハでは、アンコールの練習も行った。
 ソルノークのVn.の方が日本の『さくらさくら』をアレンジした曲とブラームスの「ハンガリー舞曲第6番」、更にこちらが用意していた服部公一の「(あ!曲名忘れた!)」です。
 モーツァルトの練習はあっさり終わり、ベートーベンを1時間半弱、ショパンを一時間の練習でした。ピアノはほぼ完璧ですが、マエストロが結構テンポを揺らすというか、たっぷりゆったり歌い上げる様なタクトに弦も管もついて行くのに必死。私は今日もボロボロ。それでも通してトップを吹かせてもらいました。
「なんであいつがトップ吹いてるんだ?!」
ってソルノークフィルの人に思われていないかな〜?なんてかなり弱気になってました。バルボーラは「昨日よりずっといい!明日はもっといい!」と流暢ではない英語で励ましてくれます。こうなったら頑張るしかない!と心を決めました。自分で選択したんですから逃げ出しては男がすたります。。。(オケという集団においてそういう問題ではないのだが)

BorbalaApartSzolnokTown1
 今日からフルートパートのYS氏と私はバルボーラの家にホームステイです。左の写真はバルボーラのアパート(3階に入り口があり中が2階建て構造)を外からみたものと、台所から見たソルノーク中心部方向(高い建物があるところ)です。
お昼は、バルボーラ、ご主人のシャンドール、娘さんのレイカに我々男二人とフルートパートの女性一人(こちらはホームステイが終わって今日からホテル)の6名で、シャンドールさんに連れて行かれたレストランで食事を御馳走になりました。
BorbolaClass1
 午後4時から、バルボーラが、「バルトーク音楽学校」でフルートのクラスのレッスンをするというので、授業参観ならぬ飛び入り練習参加となりました。本当はそんな時間があったらショパンをさらいたかったのですがこれも友好のためです。生徒は全員女の子。推定6才から18才くらいまでが一緒に合奏をしていました。フルートパートの我々3名も混ざってアンサンブル。楽しかったです。
 
TentDrink
 夜は、またパーティです。
 レッスンが伸びて、ホテル前バスへの集合に遅れたので、我々はシャンドールの車で直接会場まで送ってもらいました。とっても寒い(零下5〜8度くらい)のですが、パーリンカを飲んであったまるという感じです。今日は子牛の丸丸煮込み料理だと聞きました。テントの中でパーリンカをあおって、準備の出来た会場に入って行きます。
party14dinner
 ハンガリーの民族衣装を着ているのはソルノークフィルの偉い人(?)。うちの娘たちも(全員は写っていませんが3名)ハンガリーのお酒娘にコスプレしています。ソルノークと遊佐の友好関係に大きな役割を果たしている我が団員の偉い人(?)も写っていますね。
ソルノークの歓迎は本当に素晴らしいものでした。周到に計画され準備され実施された上、何より心がこもっていました。我々を喜ばせよう、楽しませようという熱意が感じられ、我々訪問団からは自然に感謝の言葉が出て来るのでした。
TiszaDance
 食事が終わると、昨日の子供たちのダンスの大人版、などとは簡単に呼べない「ティサ民族舞踊団」の踊り。凄いです。男性は手で自分の太ももや履いたブーツを叩きながら凄い音を出し、女性は「ハッ、イヤ、イヤ!」ではないけれど、何かマジャール語で叫びながらひたすらくるくる回って踊り続けます。
 最後に大拍手の後、会場の我々も踊るよう促され、酒の勢いで多くの人が参加。私も当然参加。しかしこれがキツかった。さっきの彼らの踊りに比べれば赤ん坊用みたいな単純な動きですが、これを2分も続けていると息が切れてきます。何分踊ったでしょうか。「エアロビみたいだね〜。」と日本人は皆ハーハー言っています。情けないものです。
 田舎の人間は運動しません。歩きません。人の家に行くのに、ドア・トゥ・ドアで車を使います。地下鉄などに乗ってる都会の人の方がよっぽど歩いています。5分くらい踊っただけでもうふらふらでした。
 さあ、明日は本番です。

(4日目の食事)
朝食:ホテルでコンチネンタルブレックファスト的。トマトとフルートを多めに取るよう気をつけた。
昼食:シャンドール、バルボーラ夫妻にレストランに連れて行かれた。「魚が好きか?」と聞かれた。日本人は魚が大好きだと思っているらしい。確かに好きだけど、新鮮な海の魚が好き。しかし海のないハンガリー人はよほどの事がない限り、川の魚を食べるようである。それもフライなどである。やんわりご遠慮申し上げ、我々3人は、豚、鳥、子牛肉を頂いた。スープ、メイン、デザート。これも量が多かった。
PartyVeal
夕食(パーティ):上記の歓迎パーティで食べたもの。お酒はトカーイワイン、パーリンカ、ウニクム、ビール、何でもござれ。食事にメインは子牛の丸々煮込み、らしい。これにスープ、アペリティフ、デザートがやはりあった。美味しかった。お酒もたくさん飲んだ。

 一つ蘊蓄。ハンガリー人はビールが嫌いではないが、会の始めに乾杯をする時には絶対にビールは使わない。シャンパン、ワイン、パーリンカはOK。昔、ドイツ軍かどこかに攻められてハンガリー人の偉い人達がどこかで集めて処刑されたすぐ後に、ビールで乾杯された事を恨んでいて、決してビールでの乾杯はしないらしい。
ハンガリーに行く方はご注意を。


・第五日目(1月5日):ハンガリー4日目、コンサート本番当日!
 最初の計画では、この日の午前中は買物など市内観光をして午後3時から最終リハ(ほぼ=ゲネプロ)の予定であったが、昨日までの練習であまりに心もとないという事になり、全員一致で午前10時から練習となった。
 アンコールピース3曲を通し、モーツァルトをしっかり一時間以上やり、ベートーベンを細かく強弱のコントラストを徹底するようにたっぷり1時間半くらいやって、午後1時に練習終了。午後はショパンだけ、というマエストロの考えである。
BorbalaCookng
 お昼ご飯はボルバーラの手料理。フルートパートの女性も誘ってアパートへ行き御馳走になった。写真は手料理をサーブするボルバーラと脇で手伝うご主人シャンドールさん。
ちょっと慌ただしいが、午後3時からの練習に再度出かける。YS氏はショパンは降り番なので昼からパーリンカ、ビールをたくさん飲んで酔っぱらったのでバルボーラの家で寝ているという。うらやましい。。。
 ショパンは、たくさん問題が残っているが、今更細かい事はマエストロも言わない。ただタクトについて、ピアノを引き立て、「落ちない」ように、という感じか。結構最後は弦に細かい注文を付けていた。私の笛はまだ緊張と責任感(?)のようなプレッシャーにひょろひょろ負けている感じで、音が鳴っていないと自分でもわかる。情けない!
 でももう後は本番だ。
 16:40。マエストロが英語で「ピアニストはこの練習に大変満足された。時間がまだあるがこれで終わりにしましょう!」と早めに終わる事になった。

 一端、バルボーラの家に帰り、18:00過ぎに出かけるまで休む事になる。YS氏は寝ていたらしく、赤い顔をしてまだフラフラしている。約一時間、私は誰とも口をきかずショパンの楽譜を見ながらiPodで持って来た2種類のショパン(一つはアルトゥール・ルビンシュタイン、もう一つはクリスチァン・チンマーマン)を聴いて集中するよう努めた。私はタキシードに着替えた。バルボーラは主婦でもあり着替えが遅れて18:20頃家を出る。
 会場18:30、開演19:00である。のんびりしているというか余裕があるというか。
 18:30頃着いたが、会場はまだガラガラ。団員もまだ揃っていない。
PreConcertFlutePartフルートパートが全員揃ったのは10分前。演奏終了後はごちゃごちゃするので、開演直前の会場で皆で写真(ちょっと手ぶれ)を撮る。日本ではちょっと考えられない。
バックステ−ジというか会場となりの部屋で気になる部分を必死にさらっていたら、私の悲愴な顔を見たのだろう。ファゴットを吹くシャンドール(ボルバーラの旦那とは別の人)が、ニコニコ笑いながらそんなの気にするな、忘れろ、忘れろ、と手を振って気を使ってくれた。

 いよいよ本番。
 ソルノーク市長は当然としても、在ハンガリー日本国全権大使(通訳の言った通り)まで来賓としていらしている。ピアノのすぐ前にお座りだったがどうだったのだろうか?ピアノは良く聴こえただろうし、美しい藤井亜紀さんは間近でよく見えただろうがオケがあまり聴こえない場所ではなかっただろうか。 
 え〜、本番中のビデオはありますが、写真はありません。終演直後の笑顔の写真もありますが、あまりにアップなので公開出来ません。(笑)
 演奏については、脳の手術をするより緊張したということ。でも、会場広しと言えどこの中に脳の手術の経験がある人間はおそらく俺だけだろうから、とそういう風に考えてのまれないように緊張しすぎないように集中するようにした。
ショパンが終わってすぐにボルバーラが私の右膝を叩いて満面の笑みで祝福してくれた。
ソルノークフィル団員の中心的存在でマエストロも頼りにしているオーボエのイームレ(ショパンでは私の左隣り)が、いつもは結構難しい顔をしていて、更にオーボエにとってtacetの多い(2楽章は丸々tacet)ショパンではじっと目を閉じてちょっと怖い顔をしているのだが、ベートーベンの前のintermissionのバックステージで私の顔を見て笑顔で「あー!マエストロ!」と握手してくれた。嬉しかった。。。

PartyAllTogether 終演は21時過ぎ。アンコールがあってバックステージに戻って正気に戻って時計を見たら21:20だった様な記憶がある。一旦、ボルバーラの家に帰り荷物を置いて普通の服に着替え、再度「打上げパーティ」。これで4日連続毎夜のパーティとなった。
22時頃からビュッフェスタイルの着席の食事だが、もう飲んだり、踊ったり、写真を撮ったり、ビデオを撮ったり、あっちに行ったりこっちに来たりと広い会場をウロウロしていたので、何を食べて何を飲んだか覚えていない。最後の方に参加者の半分ぐらいが繋がってムカデ踊りのように会場を練り歩いたりして(マエストロも藤井亜紀さんも参加していた、ノリのよい素敵な方達だった)結構疲れたので、その後にコカコーラを飲んだ事は覚えている。
 ボルバーラの家に帰ってちょっと落ち着いたら(シャンドールにまたパーリンカを飲まされた)深夜の1時だったのを覚えている。
 明日は、お別れだ。

(4日目の食事)
朝食:普通にブレッド類数種。甘〜〜いお菓子のパンの化け物みたいに大きい奴。ハム、チーズのスライスを自分でパンを半分に切ってサンドイッチというかハンバーガー様に中に挟んで食べる。ジュース、コーヒー。そしてパーリンカ!!!シャンドールがインスタントコーヒーが嫌いで、いちいち濃いコーヒーを入れてくれる。これは私好みだった。
昼食:ボルバーラが前日から準備していてくれたもの。
BorbalaSoup
BorbalaMain
BorbalaMain2BorbalaDessert


スープは、鶏肉と野菜が入った美味しい味付け。好みでパプリカの粉(辛くないのと辛いのと2種類ある)をかけて食べる。メインの一つは、豚ひき肉の入ったロールキャベツ。上にはヨーグルトがかかる。これも味付けが良く美味しい。ボルボーラはフルートだけでなく料理も素晴らしい。メインの2つ目は、前日から煮込んで鍋の半分まで煮詰まったと説明してくれた鹿肉のシチュー。階下の隣人が鉄砲で仕留めて来たと説明された。それにライスとパンを添えて。お皿はヘレンドではなかったが趣味のいいものだった。
デザートは3種類のケーキ。全部ボルバーラ作。2種類のロールケーキはクリスマスによく食べるものらしい。ン?クリスマスからまだ残っているってこと?それとも新たに焼いてくれたのかな、そうに違いない。もう一つはブランデーケーキみたいなものだった。これにシャンドールが入れてくれた濃いコーヒー。昼食でこれだけ食べるのである。まあ、今日の夜は本番が終わるまで食べられないのだし。。。
夕食:上記のように打ち上げパーティでの食事。

(つづく)

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2006.01.16

ついにスタート!『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(1)(ハンガリー初日、2日目)

残念ながらリアルタイムの旅日記をブログにアップ出来なかったので(ハンガリーのネットワーク環境とiModeの相性のせい)、今日から少しずつ記録していきます。

・旅行第一日目(2006年1月1日)
 元日の朝まで働き、それから荷造りの完成に取りかかった。なんとか機内持ち込みのバッグ1個と預けるにラッゲージ一個にまとめる。楽器と楽譜は当然機内持ち込みである。
 StartShinkansen
山形新幹線赤湯駅の西口側に無料駐車場があるのでそこに車を置いて行く。ただし、年末から続く大雪で、駐車スペースもめちゃくちゃになっている。駐車場の線が見えないとか言うレベルではなく、雪の塊の上に斜めに停めざるを得ない感じである。写真は、ホームから乗り込む新幹線を撮影。除雪車で脇にどけられた雪の高さがわかるでしょうか?
 但し、天気は快晴に近い晴れ!美しい青空に見送られてまず横浜に向かう。
 元日に両親と一緒に実家にいるのは22年ぶり。医学部6年生の正月以来である。久しぶりに父親と酒を飲む。
(1日目の食事)
朝食:自宅で何食べたか思い出せない。
昼食:自宅で何食べたか思い出せない。
夕食:実家ですき焼き&おせちの一部。

・第二日目(1月2日):ハンガリー初日
 いよいよ出発。成田エクスプレス9号、戸塚発7:13で成田空港第二ターミナルには9:00に到着。
 スムーズにゲートを抜け、エスカレーターで3階の出国カウンターへ。まだ他の団員(前日成田泊)は到着していないが一足早くチェックインを済ませ買物をし国際電話対応のドコモの携帯電話レンタルサービスを予約していたので、同じ3階にあるカウンターで電話機一式を受け取る。
NaritaAirport
 総勢30名強の「団体様」御出発!
大きな楽器、チェロやバスは現地調達。ビオラは自前。管楽器も自前。一番大きいのはファゴットかな〜。
フルートは普通の旅行鞄に入るし、私はピッコロも入れたが余裕である。

エコノミークラスは辛いが仕方ない。
RainbowShito
途中窓から差し込んだ光で団員の袖に「虹」で浮かび上がった。これからの旅行の安全と成功を祈念して写真に収める。
飛行機はスケジュール通り、偏西風を向かい風に約12時間でウィーン国際空港へ到着。
現地時間、1月2日16:40頃。すぐにブタペスト行きのプロペラ機へトランジット。
ところがウィーンは大寒波の余波がまだ続いていて雪が降っており、飛行機は翼の雪や氷を溶かして飛び立てるようになるまで待機となり予定よりかなり遅れて18時頃飛び立つ。ウィーンーブタペスト間は40分。あっという間にブタペスト国際空港へ到着。
自ら「私は遊佐人です」と名乗るハンガリー人(当然日本語ペラペラ)たちやソルノークフィルのメンバーに出迎えを受ける。2度目、3度目以上の人達は知り合いを見つけ抱き合って再会を喜びあっている。初めての私は少し取り残された感じを受ける。
 預けた荷物のうち、一人の荷物がいつまでたっても出て来ない。そのためソルノーク行きのバスに乗り込んだまま小一時間待つ事になってしまった。結局荷物はなく、クレイムを出してバスは出発。この遅れのためソルノーク到着は21時近くになってしまった。

 バスがホテル(といっても3階建ての可愛らしい建物)の前に着くや、花火が打ち上げられる。多くの市民、ソルノク交響楽団関係者が、待っていて下さった。早速、歓迎会が始まる。我々は荷物を置く間も与えられず、まずシャンパンで乾杯。すぐにパーリンカ責めである。
 ソルノクの友好協会代表や指揮者や、今回我々を指導して下さるMaestro IzakiやピアニストFujii Aki氏の紹介や挨拶。我々の団長の挨拶。すべて日本語ペラペラのハンガリー人(今や六本木で働いている?)のシピが通訳をしてくれる。
 我が団は、大きく2つにわかれ、前半の2日ホームステイをするグループと後半の2日ホームステイをするグループになっている。私は後半組。つまり今日明日はホテル泊である。それはそれで快適。
 時差ボケを克服するため、日本から持参した睡眠薬を服用する。お陰で夜中に一回も目が覚めず、さわやかな朝を迎えた。
(2日目の食事)
朝食:実家でパンなど。
昼食:機内食
夕食(?):機内食
夕食2:歓迎パーティ会場。立食形式。しかしふんだんな食べ物があった。美味しかったので疲れていなかったらもっと食べたかったが、成田を出てからここまで既に17,8時間くらい経っていたのである。

・第三日目(1月3日):ハンガリー2日目
 朝7時は、日本時間で午後3時である。
 朝食からウニクムを振る舞われる。これはハーブのリキュールの様なもの。まあ、日本で言えば『養○酒』である。少し苦みと甘味のある「びみょー」な味。でも50度のパーリンカを朝から飲むよりはまし。
 今日はリハ初日。10時開始なので9時半にホテルをバスで出発。
HallSteps 演奏会場は本来は市役所の一部らしい。音楽ホールは今新しく建設中で今年の秋に出来上がるとか。しかし、なかなかいい感じの、木が豊富に使われた響きの良さそうなホール。左は、玄関からホールにあがる階段部分。

CityHall2
 ホールの中はこんな感じ。広くはないが綺麗である。ピアノコンチェルトがあるためピアノが最初から真ん中にで〜〜ん!と置かれているのでホールが更に狭くはなっているが、2階にも椅子を置いて席を作るらしい。
 いよいよ練習開始。まずはモーツァルト作曲歌劇『魔笛』から序曲。直前に行われたフルートパート会議で、我が団一人の女性フルート奏者がトップを吹く事になった。通常は不要だが私も2ndフルートの「アシ」でのる。
まあ、いるだけ、の様なものですけどね。(^^
いることが大事、という訳です。v(^^
FirstReha3
 続いて、本番では3曲目、メインのベートーベン作曲交響曲第五番c-moll。これも私は、2ndの「アシ」という、本来要らないパートでのる。要するに全曲ステージにいる事が大切。そのためにソルノークに来たのだから。そう出なければ、アンコールの時にステージにいないという悲しい状態になってしまうのだ。
FirstReha1
 最後は、ショパン作曲ピアノ協奏曲第一番e-moll。
 これは、直前のパート会議で、大胆不敵(厚顔無恥)にもトップを希望して、すんなり通ってしまった。
 力んでしまった。トップを吹きたい、と希望した以上は、ソルノークのプロも「うん、なるほど。彼ならね。」と思ってもらいたい。思われたい。雑念だらけになった。しかも練習不足は明らか。
 元々ショパンのトップを希望していたが、最終調整では私がのるのはショパンの2ndのみとなっていた。無理して元旦の朝まで働いて同僚に無理を言ってハンガリーまで来て、途中100小節以上のtacetが数カ所ある様な「2番」では面白くない。ただそういうエゴである。しかし、私は直前の急患が多い年末に、1番と2番両方を練習し、その他にも一応「運命」と「魔笛」序曲にも目を通していた。散漫な練習であったと言わざるを得ない。しかも、年末の病院や大学医局の催し物や、フルートの発表会などもあり、オケでの練習に一回しか出ていなかった(大体、11月20日にあった定期演奏会から年末まで練習日は4回しかなかったのだ。
 無謀というより、単なる無茶である。しかもピアノコンチェルト。主役はピアノ。それを支えるオケの一部として流れにのらなければならない、オーボエとともに木管の中心となるフルートは流れを作らなければならない。
 練習不足、実力不足はすぐに露呈した。楽譜を追うのに精一杯でマエストロの棒について行けない。あげくに間違うし転ぶし落ちる。最悪である。
「今日はトップを吹くけど明日はセカンドだな〜」と自分でも半分諦めていた。しかし、横でサポートしてくれていた、フルートのトップ奏者バルボーラが「明日はもっと上手く行くわよ!」と励ましてくれた。彼女は私のホームステイ先のホスト(女性だからホステス、か)なのである。
 練習は午後1時で終わり。後はなし!
 なんとも「これでいいのか?」って感じであるが、後はいろいろ歓迎行事が予定されている。
まずはホテルに帰って1時半頃から昼食。これが量が多かった(後記)。
 5時にホテル出発で、隣りの町、ミクロシュなんたら(後で書き直します)に向かった。
「コダーイ音楽学校」を表敬訪問。そこで子供たちの演奏やダンスを見た。
DanceChildren
これは、幼児クラスのダンス。ハンガリーの伝統芸能を幼児のときから楽しみながら教えているのである。小中学生から高校大学生レベルまでダンスの教育があり、更にプロのダンスチーム「ティサ民族舞踊団」がある。
(参照:http://www.clair.or.jp/j/simai/jirei/yamagata.html)

(3日目の食事)
朝食:ホテルでパン、サラダ、ハム、チーズなど。ウニクムだけが日本と違う。
昼食:ホテルで。LunchSoup
まず、鶏肉と野菜がどかっと入ったスープが出て来たがこれが旨い!美味しい!みんなすぐに食べ終わる。
嬉しい事にお代わりがあるという。皆迷わず2杯目を食べる。うま〜〜!
パーリンカにビールにワイン。どれでも何でもどうぞ、と来る。調子に乗る。
あれ?何?
LunchMain
これがメインディッシュ。一人に一つずつ、豚肉と鶏肉と魚と超大きなマッシュルームのフライが一つずつにお芋にライスに。。。なんと。。。
歓待は有り難いが日本人がお昼に食べる量ではない。

夕食:学校の一室で立食パーティ。ここにもパーリンカ、ウニクムなどの酒の他、ビールやワインがふんだんにある。有名なトカーイワインのドライもスィートもある。食べ物もふんだんにある。とても食べきれない量である。
この人達はいつもこんなに食べるのか?それとも我々が歓待するために大量に用意してくれているのか?
わからない。日本人に大食いは多くないのだが、もしかしてソルノーク出身の力士がいるらしく、誤った情報を与えているか?それともアメリカで行われるホットドッグ大食い競争で優勝している日本人を見て、「日本人はたくさん食べる」と信じているのだろうか?
(つづく)

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写真整理中

中央ヨーロッパの旅から戻って丸2日。
時差ぼけはあまりない様な気がするが、夜中の3時4時まで目が冴えるのだから、やはり時差ぼけか(向こうではまだ夜の7時8時なのだから)。

脳の方は、職業柄、夜中に叩き起こされて急患室に来たり、夜から緊急手術になって朝まで働いたり、ほとんど一睡もせずに翌朝を迎えるという事もそれほど稀な事ではないので、あまり「時差ぼけ」と感じないのであるが、『第二の脳』とも言われる小腸などの消化器系の機能がまだ時差によるズレを回復していない様な気がする。
食事を摂る時間というのは大事なのだ。食事によって、交感神経、副交感神経の機能に優位性の差が出て来るのだが、これが一日の中でバランスを保ってあるリズムに従う事によって体調も安定するものと考えられる。
ところが食事をする時間帯、特に一日の中でリズムが急に変わると、小腸ひいては副交感神経系がついて行けなくなり、ひいては交感神経系のバランスも崩れるのではないかと思う。今はそんな感じがする。

撮って来た写真はデジカメのみで280枚を超えていた。
まずはパソコンに取り込んで一つずつ整理しているところである。
差し障りのない写真を選んでブログに公開するまでにはもう少し時間が必要である。
一杯自慢したい写真があるのだけど。。。

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2006.01.13

帰国致しました!

(独り言・あー、ドコモのNからFにもどって大変。゛のきーや大文字小文字のキーも違うので間違ってばかりです)

皆様、お蔭様で先程無事に成田空港に着きました。ウィーンから11時間20分位で予定より早めに着きました。
これから成田エクスプレスと山形新幹線を使って戻ります。先程職場の上司に無事に着いた旨報告し今日病院に顔を出すべきかを伺ったところ、時差ボケもあるだろうからゆっくり休めと言われました。明日は病院に行って患者さんの顔をみないと不安です。暮れにオペした方やクモ膜下出血のオペ後で水頭症が落ち着くかシャントが必要になるかの判断が必要な時期に不在にしたので元気な顔を自分の目で確かめるまでは心配です。

夢のような12日間でした。
ヨーロッパでプロオケに交じって、プロの指揮者にプロのピアニストとショパンのピアノ協奏曲のトップを吹かせてもらって感激しました。
ハンガリーの人々の素朴な暖かさに触れて感激しました。
プラハでチェコ人の脳外科医に13年ぶりに再会して感激しました。
世界的な名オーケストラであるチェコフィルの友人にもてなされ、プラハを案内され、コンサートに招待され、打ち上げにも招かれプレゼントまでもらって感激しました。
フルートのロマンからプラハ交響楽団のピッコロ奏者であるスタニスラフ・フィンダ氏を紹介してもらいこれまた食事まで招待され、銀座の山野で二年前に買ったNo.20(日本では最初の方)の楽器を見てもらい吹いてチェックしてもらい、更に市民ホールの楽屋で30分ほどピッコロの奏法について師事?し、直々にスメタナホール(プラハの春音楽祭で使うホール)を案内してもらい、更に車でステイ先の友人のアパートまでわざわざ送って頂きました。奥様の志保子さんも素敵な方で大変親切にして頂き感激しました。
ウィーンでは、最終的に男二人旅になったフルートパートの仲間の知人でウィーンに住んで八人になる日本人に親切に案内して頂き感激しました。
、、、

夢のような時間でした。なんで自分が今ここにいるのだろう?自分の左にロマン・ノボトニーがいて色々気を使ってくれて、右にオーボエのヤナ・ブロジェコバが微笑んでいて、向かいにファゴットのオンジェイが笑っていて、右奥には17才でベルフィルにエキストラで招かれ「天才ホルン吹き」といわれた「バボちゃん」ことラデック・ハボラックが私の名前を呼び掛け、その隣には「どうやったらそんなに芯がしっかりした丸い音が出るの?」と感嘆するプラハ室内管弦楽団のクラリネット奏者のボイトがビールを飲みながら「カンパーイ!」と言っている、、、
漫画『のだめカンタービレ』でさえこのような夢の世界を描けるだろうか?!
しかも、プラハの1000年以上前に建てられたベネディクト派協会の敷地内のレストランで。チェコ人はビールには本当にこだわりがあって、自分の好きなブランドではなく、醸造場所や保管し提供レストランで選んでいるのだ。日本でいうなら、サッポロの生は札幌のビール工場直営のレストランで飲まなければ銀座のビアホールでは味が変わる、という感じなのかもしれない。

とにかく「感激」続きの旅で、「こころのリハビリ」に時間がかかるかも知れない。
間違えながら書いていたら、東京駅に着いてしまった。これから大雪の積もった山形に戻るといきなり現実に引き戻されるのたろうが、氷点下8℃とか10℃というプラハやウィーンのからりとして骨の中まで染み込むような寒さが懐かしくなるだろう。
本当に人の縁とは不思議なものである。
『一期無会』ならむ。

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2006.01.12

旅行日程最終日

今はオーストリア時間で1月11日の午後11時過ぎです。ウィーン郊外のホイリゲからホテルに戻ったところです。

ここ三日は歩きに歩いたので足が棒とはこのようなことをいうのでしょうか!
ホイリゲではたっぷりのワインの他どれも美味しい食事を堪能しました。
今日は午後一時前にウィーン国際空港につきホテルには二時前にチェックインしました。オペラハウス横のあれです。
まずは「お上りさん」コースよろしく、トラムと徒歩でベートーベンハウス、シューベルトの生家、モーツァルト像にシュトラウス像をみて回りました。
目玉は二ヵ月間だけ公開されているモーツァルトのレクイエムの直筆譜が展示されている国立図書館に行きました。よく言われているように、何回も書きなおしがあるベートーベンの楽譜に比べてオケのスコアがどこにも修正のないきれいなまま展示されていました。
さて明日は朝ムジークフェライン周辺を歩いてみてそれで終わり。1315発の飛行機で日本に向かいます。
本当に音楽三昧の素敵な旅でした。
無事成田に着くようお祈りです。出羽!

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2006.01.10

プラハ最終日

今はチェコ時間で1月10日の早朝4時過ぎです。また目が覚めてしまいました。
オケ仲間の「タビの親父」さんや皆さんからのコメントは読んでいます。ありがとうございます。
レスを付けたいのですがどうも携帯からではコメントが書けないようなのです。ですから、新しい記事としてレスを兼ねて書いてみます。

すでに書いたようにハンガリーの人達、特にソルノークの人々の歓迎にはビックリです。
単に食事やパリンカを始めとする酒の量が凄いということではありません。我々を歓迎しよう!という心が熱く感じられますし色々な企画と心使いに感謝の気持ちが自然に湧いてきます。と同時に「3月の日本での歓迎は大丈夫かいな?」と心配になります。
20年にわたるソルノークと遊佐町あるいは酒田市との交流、特に人と人の個人的繋がりがあってこその今回の歓迎であることはいろんな局面で伝わってきます。私のようにまだ新米の部類に入る団員でさえ感激しているのですが、この感動と感謝を日本にちゃんと持ちかえられるのかどうか。
また、同じ感動を味わっていない留守番組との温度差が出そうで心配です。
一番大事なことはきちんと練習をして日本での演奏会を成功させることですが、酒田、遊佐そして東京の3ヶ所で計画されている演奏会とそれに付随するもてなしがどのようにしたらできるのか、アマオケである我々には厳しいものがあると思います。まず皆仕事を持っている訳ですし、農業従事者の多いうちのオケで3月の上旬から中旬というのはきつい時季だと思います。土砕き(という呼び方でいいの?)、種蒔きなど一年の農業の始まりの大事な時期にあたります。サラリーマンには決算の忙しい時期です。中心になって企画運営をする人が重要です。ある程度以上の個人的負担は必要でしょうが、ごく少数になると思われる実動部隊だけに大きな責任と負担がかからないように皆で知恵を出すことが肝要だと思います。
ま、この辺のことは帰国してから、ですね。

今回の演奏会のCDを聴いてみました。うーん、、、という感じです。
言い訳はいろいろあるでしょう。二つのオケがたったの三日間で溶け合うなんてプロでも容易な事ではありません。アマオケである我々には練習や集まりに制限や限界もあったでしょう。しかし、自分のことを置いておいて考えるに、今回の演奏会ツアーに参加したのは我々団員のベストメンバーではないのも問題です。普段の練習が不足していたりもともと実力のあまりない団員もツアーに参加しています。大きな目的が『国際交流』ですから、交流をきちんとできたのならそれでも全然構わないとは思います。ただ参加したメンバーは私も含めもっと練習をしてくるべきでした。様々な状況や条件の中で、ツアーに参加したくてもできなかった人、どうしても仕事で休暇がとれなかった人には大変申し訳ない言い方かも知れませんが、本当にもうちょっと無理をしてでも来れなかったのか、ツアーに参加するために無理をしたり工夫することを避けてしまったのではないか、ちょっと考えて欲しいと思います。
演奏会のビデオを観てもCDを聴いても、あの感激が甦るとともに恥ずかしい気持ちが一杯湧いてきます。弦の音程がずれているのは間違いなく我々団員の音でしょう。まあ、ここだけの話、『運命』の出だし、あの「ジャジャジャジャーン」で飛び出したのはうちの団員ではありませんでしたが。
参加者が決まってから、管楽器では三つの曲のどれに乗るのか、希望のアンケートがありました。私は個人的にショパンに思い入れがあり、他の2曲、『魔笛』の「序曲」と『運命』は乗らなくてもいいから、ショパンは是非に!という思いを込めて、Pコンのトップを希望していました。しかし、調整されて返ってきた暫定的な乗り番は、Pコンのセカンドでした。なので事前の個人練習もセカンドをやっていました。でもTacetが多くてつまらないのでトップもちょっと齧っていました。オケ練習の時に笛は私一人しか参加しなかった時があって、トップを吹いてみたら気持ち良くて出来そうな「錯覚」をしました。
ソルノークの笛の二人と初めて会って簡単なパート会議を開いた時に、うちの笛の他の二人は希望がすんなり通りました。私は、折角元日の朝まで働いて少し無理をしてハンガリーまで来たのだし、と勇気というよりいつもの厚顔無恥で「ショパンのトップを」と言ってみたところ、すんなりOKが出て、内心「えぇ?いいの?」と思いながらも「よし!頑張るぞ!」という気持ちに切り替えました。
しかしここからが大変でした。練習不足は歴然です。歓待につぐ歓待で今更さらえません。初日の練習ですぐに馬脚を現しました。とても恥ずかしかったです。指揮のマエストロ井崎正浩、ピアニスト藤井亜紀さんにはもちろん他の演奏者、特にソルノークフィルの笛の二人に申し訳ない気持ちになりました。都合三回のリハで間違えずに吹けたのは一回もなく、周りの木管奏者からも苦笑をかっていました。音楽を創るレベルには程遠く、楽譜をなぞって間違えずに吹くことで精一杯という「学芸会」レベルになっていました。
ビデオを観ると、本番で隣に座ってアシストしてくれたソルノークのバルボラが、もう自分が吹いているように身体を揺らし気持ちを込めながらアインザッツをいれてくれました。CDを聴くとピッチがずれていてちょっと気持ちが悪いのですが私の笛もそこそこ、と思いました。
本番ではかなり集中しました。練習不足、実力不足は気合いで補うしかないと思ったからです。立ち見も出た程の超満員の聴衆(在ハンガリー日本大使やソルノーク市長を含め)の中に、脳の手術が出来る人がいるだろうか?いや、俺以外に人の脳に触ったり、脳の中の出血や腫瘍を取り除いた経験のある人はいないだろう、そういうスペシャルな仕事をこなしているんだから、、、
変な事を考えていたんですね、と言われるかも知れませんがそれ位必死だったのです。気持ちを落ち着けた後、破裂脳動脈瘤にクリップをかける時の自分をイメージし静かに集中しました。その結果、二ヶ所ミスしましたが大過なく(と勝手に思っている)演奏できたと思います。「高名の木登り」じゃありませんが、最後の小節の第三レジスターのGisをGを出してしまい大失敗!練習でも間違えたことなかったのに、「なんでこんなとこで間違えるんだ?!」と自分で自分を殴りたくなりました。Tuttiなので目立ちはしませんでしたが。
隣のバルボラが満面の笑みで私の右膝を叩きながら私の演奏を讃えてくれました。Tacetが多いためか私の左隣で目を閉じて眉間に三本位縦ジワをいれて難しい顔をしているオーボエ奏者のイムレも控え室で笑顔で私に歩み寄ってきて「マエストロ!」と言いながら握手して讃えてくれました。まあ、練習があまりにヒドカッタので心配してたけど「なんだお前、笛吹けるんじゃないか!」という事だったと思っていますが。

こんなところが現時点の感想です。
今日の夜はスークホールで『アフラートゥス木管五重奏団』のコンサートです。チェコフィルのフルート奏者ロマン・ノボトニーに招待されているのです。日本で二回、プラハで一回飲んだ仲で、ロマンやオーボエのヤナはもう友人です。幸せな事です。今日もルドルフィノムでのコンサート後にまた飲むことになっています。
昼には私の吹いているピッコロを創った「プラハ交響楽団」ピッコロ奏者のフィンダ氏と奥様でフルート奏者のシホコさんと食事をすることになっています。とても楽しみです。これもロマンの手配のお陰です。

いやー、携帯電話でこれだけ書くのは二時間かかります。
明日はウィーンです。
また報告します。

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写真アップテスト

プラハは音楽の都、ドボジャークやスメタナの記念館も回ってきました。
写真アップできるかな?200601100057000.jpg

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プラハより愛をこめて(2 )

今はチェコ時間で1月9日の午後五時過ぎです。

五日目。1/6。
朝10時にバスでソルノークからブタペストに向かいました。ホストファミリーと熱い抱擁で別れを惜しみ再会を約束しました。
ブタペストではまずホテルにチェックインして観光に出かけ、夜はワーグナーのオペラ鑑賞に国立オペラハウスに行きました。
やっと演奏会が終わった安心感からホテルの部屋で五人で夜中の三時まで飲んでしまいました。
六日目。1/7。
終日ブタペスト市内観光。夜はソルノークフィル関係者八人と指揮者井崎正浩さん、ピアニスト藤井亜紀さんを交えて「さよならパーティ」が催されました。二日前の演奏会のCDができていて驚きました。
ハンガリーの人達、特にソルノークの人々の歓迎と遇しに感激し驚きました。
七日目。1/8。
朝0650発の列車に乗るため五時半に起きて六時にホテルを後にしました。(道中紀行はまたあらためて書きます)
1325にブタペストの駅に到着。十年以上の付き合いのあるチェコ人の友達が迎えてくれました。
夜はチェコフィルのフルート奏者ロマン・ノボトニーやオーボエ奏者のヤナ・ブロジェコバさんたちと食事に出かけまたまた歓待を受け感激しました。食事に出かける前に、ルドルフィノムでのリハを少し聴くこともできて幸せでした。
夜は私だけ別行動でチェコ人の友達のアパルトマンに泊めてもらいました。
八日目。1/9。
終日市内観光。歩き疲れました。
(明日に続きます)

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2006.01.09

経過報告

時差ボケはとっくに治まったと思っていたのですが、夜中の四時前に目が覚めました。
ウェブへの書き込みが成功してうれしいです。

帰国後に追加しますが、覚え書き的にこれまでの主なイベントを書いておきます。

まず1/2の1140に成田を発ち、約12時間のフライトもトラブルなく現地時間の1/2の1540頃ウィーン国際空港に到着。
トランジットのブタペスト行き飛行機はかつてのYS11を思い起こさせるような双発のプロペラ機でした。雪が激しくなり翼の氷を溶かすのか積もった雪を払うのか特殊車両が近づいてきてジェット水流?で吹き飛ばす作業と滑走路除雪で30分近く遅れて、ブタペストには1800頃着きました。
ブタペストで入国手続きを終え今度はバスで移動です。ところか機内預けの荷物が一個、いつまで待っても出てこず、結局1900過ぎに出発し目的地ソルノークには2040頃到着しました。
ソルノークフィル側で歓迎会が用意されており、まずはバスが着くや否や花火で出迎えられ、その後旧交を暖めあったりホームステイをするホストファミリィの紹介やらなんやらであっと言う間に2300頃となり、初日はホテル泊組の私はまずは床に着きました。睡眠導入剤はこの日から大活躍しました。
二日目。1/3。
朝食後10時から13時までリハ。Pコンのソリスト藤井亜紀さんも登場。詳しくは帰国後に!
午後はソルノークの隣町にある『コダーイ音楽学校』を訪問。子供達や教員の歓迎のパフォーマンスを観賞し歓迎会。終わってホテルに戻ったのはまたも2300頃。
三日目。1/4。
昨日の初リハで練習不足が露呈。三時間の間に休憩をたっぷりとるので実質二時間しかないため、練習開始を930に30分繰り上げ。
1300過ぎに練習終了。今日から二日間お世話になるホストファミリィに連れられまず市内のレストランへ。美味しい食事をたっぷりご馳走になりお家へ案内され荷物を運び込みました。
フルートのトップでホームステイ先のホストであるバルボラがフルートを教えている市内の『バルトーク音楽学校』へ行き初見でアンサンブルに参加したり楽しい時間を過ごす。
1800からまた歓迎パーティ。美味しい料理にたくさんのお酒、民族舞踊を始めふんだんな催し物攻め。私はしかし翌日の本番を考えてまったく酔えず。
これまた終了してホストファミリィの家に戻ったら2230。そこでまたパリンカなどお酒を頂き、と言うか飲まされ、2330過ぎ就寝。
四日目。1/5。本番当日。
本当は午前中はお買物などに当てるフリータイムだったのだが、マエストロ、ソリスト、オケの一致した意見で1000から練習。昼食はホストファミリィの家で。パリンカなど各種お酒を振る舞われるもまったく酔えず。
1500から1700までショパンのPコンのみの練習。私のフルートを筆頭にオケが足を引っ張る。それでもなんとか終了。一旦着替えに家に戻りタキシードを着て1820出発。
本番は1900から2100までたっぷり。これも詳しくは帰国後に。書ききれない程のエピソードあり。
終演後着替えに戻り「打ち上げ」。また大量の酒に料理に催し物。終わって帰宅がほぼ2400。
ホストファミリィ宅でもまたパリンカなど飲んで0100就寝。
ここまで何度も途中で眠りに落ちながら書いてきたので一旦送信します。
続き(1/6以後)はまた!

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国際携帯電話からのテスト

テストです。ウィーン国際空港です。これからブタペスト経由でソルノークに向かいます。予報通り雪です!

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国際携帯電話からのテスト

(1/2の四時頃の送信分です。帰国後に書きなおす予定です。)
テストです。ウィーン国際空港です。これからブタペスト経由でソルノークに向かいます。予報通り雪です!

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プラハより愛をこめて

今はチェコ時間で一月九日の零時すぎです。
携帯からブログをかいています。残念なことにハンガリーではiModeが使えないネットワークエリアで、ウェブにメールが送れませんでした。
ここプラハではメールが送れるのでブログの書き込みができるはずです。
もし成功したら自分でも読めるのですが、コメントへの返事はかけないと思います。
ではまずテストを兼ねてこの文を送ってみます。

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2006.01.02

第一日・出発です

戸塚駅発7:13の成田エクスプレスに乗っています。9:04に成田空港に着き11:40発のオーストリア航空でいよいよ出発です。ソルノークで指揮をしてくださる井崎正浩氏は、日本でも数々の指揮をしていらっしゃいますが、なんと3年前に戸塚区民オケが20周年記念で「第九」をみなとみらいホールでやった時の指揮者であることが昨日実家に泊まって初めてわかりました。この時、私の父がテノールで「戸塚区民第九を歌う会」の一員として参加しており、私はビデオではありますがこの演奏を聴いていたのです。
新年早々なんだか嬉しくなる話でした。
(つづく)

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2006.01.01

携帯からのアッブテストです

東京へ向かう新幹線の中です。米沢を過ぎました。今使っているドコモのFOMAは国際通信サービスに対応していないので明日成田空港でN901iGをレンタルします。
フリーダイヤルで申し込むと一日500円以上かかるのですが、パソコンからネットか携帯からiModeで予約すると一日105円になります。さあ、ちゃんとアッブできるのかどいか?!

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謹賀新年

皆様、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ(いつまで続けられるかわかりませんが)よろしくお願い致します。m(_)m

すでにお知らせしておりますように、私は所属するアマオケの『国際交流演奏会』という地元の市と市教育委員会からサポートを受けた旅行に明日から参ります。
成田発が明日の午前中なので、本日中に横浜の実家に行きます。成田エクスプレス一本で成田入り出来るので便利なのです。そのため今朝まで働いておりました。年末など関係なく病気は発生します。一例緊急手術が必要か?という方も来られましたが、保存的治療で改善しておりホッとしました。

実は、医者になって22年。お正月を実家で両親と過ごすのは初めてだということに先ほど気づきました。
考えなくてもわかることですが、両親もそれなりに年老いております。医学部の学生時代には当然のようにお正月は実家におりましたが、医者になってからは正月をゆっくり過ごす事はあまりなく、もちろん正月に旅行などした事もありませんでした。正月を実家で両親と過ごす事に感謝の念など持った事はありませんでした。
最近の大きな事故や事件をみればこそ、正月に実家に行ける幸せというのを噛み締めたいと思っています。

我々医師に盆も正月もないというのは本当で、そのような職業を選択したのだしこれを苦痛と思った事も嫌だと思った事もありませんが、一般の人達とはかなり違った正月の過ごし方をしているのが医療人なのです。医師だけではなく、看護師も放射線技師も検査技師も、その他守衛さんやお掃除のおばさんやエネルギーセンターを管理する人達や、大勢の人がお正月から働いています。
 病気は時、場所を選ばず発生する訳で、病気になられた患者さんが一番大変ではあるけれど、よくよく考えてみれば、いかに「仕事だから」とはいえ、これだけ大勢の人がいるからこそ、病院が運営され急患が発生しても対応出来る訳です。お正月に働いている医師は当然としても、その他のスタッフがいなければ医師だけの力で診療は出来ません。私自身がこれらの人達に感謝の心を持つ事を改めて思うとともに、不幸にも病に倒れた方やその御家族の方も、すこしだけお正月から病院で忙しく働いている人達に思いを馳せてもらってもいいのではないかな〜、と医者の立場から思いました。

 どんな立場の人であれ、周囲に対する感謝の心、相手に対する思いやりの心、これを今年はしっかりと持ちたいと、新年に当たって考えています。

 さて、日本時間で明後日1/3にハンガリーのソルノークに着くまでは国際通信対応携帯電話にも触れないので、ここに記事がいつアップ出来るのか、本当に出来るのか、自分でもわかりません。でも可能なら、簡単にでも演奏旅行の実況中継をしたいと思っています。乞う(少しだけ、、、)ご期待!

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