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2006.01.23

『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(8)(プラハからウィーンへ)

・旅行第十一日目(2006月1月11日):ウィーンへ

 アフラートゥス五重奏団のコンサートから一夜明けた。職業柄寝付きがいいこと、どこでも寝れる事が私の特技の一つであるが、YS氏によると、ロマンに送られて帰って来て部屋でバスローブをまとってベッドに横になり何か話していたと思ったら寝息を立てていたそうである。自分が寝るときの姿なんて見た事無いが、確かに寝付きは良いらしい。
 朝、8時前に起床しシャワーを浴び、荷物を整理して朝食をとる。野菜とフルーツを多めに。
 ウイーンへのフライトは11:40であるが、初めての空港であるし迷う訳にも行かないので早めに行こうという事になり、9時にホテル前にタクシーを呼んでもらう事にした。
 フロントに電話すると、コンシェルジェに回すという。
「タクシーを一台、空港まで。但し、AAAのタクシーにしてくれ」
と指定した。コンシェルジェは、「ホテル側でもっと良いタクシーを用意出来ます」という。私は
「それは必要ない。AAAがいいとプラハの友人が教えてくれた。」と答える。コンシェルジェが、
「当方で用意する車にご不満でしょうか?メルセデスのE-Klasseで新車です。」という。私は、
「ホテルからドボジャーク記念館までの5分くらいの距離で400コルナも取られた。ホテルから空港までタクシーで20〜30分かかると聞いたが、AAAならその距離で400〜450コルナだと言われた。お宅の車は高すぎる。メルセデスである必要は無い!」と毅然とはねつけた。
 日本人はなめられている。ブランドに弱い物見遊山の海外旅行者(けっして物見遊山が悪い訳ではない、私だって結構このたびは物見遊山である)に「旦那、ベンツの新車でっせ!ええ車でんがなぁ〜」と薦めると多くの日本人旅行者が「おお、ベンツか、乗ってみるベェ〜」(ちなみにこの会話の方言に特に意味はありません)となりかねないのだろう。
 目的は確実に空港に行く事、できれば安い方が良い。その差額でお土産を買うかビールでも飲んだ方が賢いと思うんだ。
 9時にチェックアウトし、AAAのタクシーへ。確かに大きくないので、トランクに二人分のラッゲージが入らなかった(E-Klasseなら余裕で入っただろう)。YS氏に後ろに乗ってもらいラッゲージを一つ後部座席に乗せ私は助手席に乗った。空港まで25分位かかった。料金は450コルナ(=1800円)だった。

空港では、プラハーウィーンの「国際線」とはいえ、プロペラ機で40分の旅である。飛行時間から考えると山形ー羽田間よりも近いという事になる。スムーズにチェックインが済んだが、私のラッゲージは何故か25kgを少し超えてしまい、「Heavy」というタッグがつけられてしまった。
 この時点で、まだ10時前。お土産屋さんをウロウロしたら、可愛い操り人形があった。見ていたら何故か欲しくなってしまい、ピノキオとピエロの2体を求めてしまった。あとは見るべきものも無いので、早めにゲートをくぐり搭乗口へ進んだが、まだ一時間半近くある。 
 途中で『ピルスナー・ウルクエル』という看板を見つけた。これは飲まない訳にはいくまい。500mlのグラス一杯80コルナだったよう記憶している。街中よりはやはり高め。ビールを飲みながらガイドブックでウィーンの行きたいところを検討し、30分前に搭乗口前へ。バスでプロペラ機へ。
 お天気は寒いが快晴に近い。トラブルなく離陸。さようなら、プラハ。今度来れるのはいつだろう。

 プラハという街からは、周辺の大きな街としてはドイツのドレスデンやライプチッヒの方がウィーンよりも近い。雪景色の平原の上をまっすぐ南東に向かって30分位で飛行機は下降を始め40分で到着した。
 ウィーンだ!!!

 まずはホテルにむかう。Airport Transport Serviceとかいう、何だかわからないがその場で予約して前払いするタクシー会社が空港内にあったので、そこに頼む事にした。「アストリアホテルまで二人」というと、31ユーロだ、とのこと。4300〜4400円相当だ。プラハに比べたら高いような気がしたが、物価も二倍くらいだしこんなもんかとカードで前払いし運転手について行くと、タクシー乗り場ではなく駐車場だった。メルセデスのE-Klasseだ。またか!と思ったが、ガイドブックにもウィーン中心部と空港はタクシーで30ユーロ位と書いてあるので特段高い訳ではなかった。
 空港から市中心部は予想したより遠かった(ま、成田に比べれば、ね、、、)。高速道路を140km/hくらいで飛ばして30分くらいかかった。アストリアホテルの着くと、日本人らしい人が「お疲れさまでした〜」と日本語で出迎えてくれたので、私はかえっていぶかってしまい「何者?」という感じで無視した。
 YS氏が教えてくれなかったのだが、この方が親切にも無償で我々のお世話をして下さるウィーン在住8年になる日本人(秋田出身)のT氏だったのである。仕事の合間を抜けて来て下さっているので挨拶もそこそこにまずチェックインして部屋へ行く。有名なオペラ座やザッハトルテのホテルザッハの隣りで便利なところにある五つ星ホテルだが、建物は古く、単なる良い古さだけではなく「老朽化」という感じのする部分もあった。

DoubleBed 部屋に入って少なからぬショックを受けた。大きなダブルベッドが一つ。デ〜〜ンとおかれている。ベルボーイに「ツインは無いのか?」と聞くと「ない」と答え、チップを要求する身振りをしてあげたらそそくさと出て行った。荷物を置いて(そういえば、この空の旅でラッゲージが壊れたのだがこの事に着いてはあとで触れる)、ロビーで待つT氏のもとへ急いだ。
 フロントに一応確かめてみる。
私「部屋はダブルベッドだった。ツインは無いのか?」
フロントのおばさま「あるけれど、あの部屋は角部屋で広くて一番いい部屋。あなた方に良いと思ってあそこにした。」という。更に「変えるなら今ならできるがどうするか?」と問う。
 あ〜、多分、男二人旅。ゲ○だと思われたのかも知れない。でも今から部屋を変更したり荷物を移動していては時間が少なくなる。その時点で2時前だが4時半には暗くなるのだ。その前に今日はベートーベンの遺言の家とシューベルトの生家とモーツァルト像とシュトラウス像は見て回りたい。
「あの部屋でいいよ!」と返事した(私たちはゲ○です、と宣言したようなものか、、、(笑))
YS氏もおどけて「今晩、私の人生が変わるかものぉ」などと言って喜んでいる。

T氏は市内交通網(トラム、地下鉄、バス共通)の24時間チケットまで用意して、上記名所への生き方を日本語で詳しくまとめた案内までつけて下さった(JAL関係の仕事をされているのでお手の物と言えばそうなのだが)。礼を言って急いでトラム乗り場を探す。ウィーンに来て、バタバタ歩いたり走ったりしたくはない。できれば優雅にワルツでも踊るように(?)歩きたい。しかしお上りさん二人。YS氏はウィーンは初めてではないのだが一人で行動した事はないようで、オペラハウス前のとラム乗り場でまず何に乗って行くのか迷った。
あとから考えると、トラムの番号と行く方向さえ覚えれば(そんなに数は無いから覚えるのも難しくはない)結構すいすい市内を移動出来るのだが、なにせ未知の土地で未知の乗り物である。不安を抱えながら乗って用意して頂いた24時間券をチェックインの器械に挿入する。グー、カチャンという感じでスタンプが押されて来た。ここから24時間有効なのである。
BeethovenPasc ベートーベンの遺言の家は簡単に見つかった。5階建ての建物の薄暗い階段を4階まで登って行く。エレベーターなどない。入り口で「拝観料」一人2ユーロを支払い説明書をもらう。写真は御法度と言われた。
 またスメタナ記念館のときのように、我々二人に係官が付いて来て、展示物に触れたり写真を撮ったりしないか監視されてしまった。欧米人にとって、アジア人、特に日本、中国、韓国、北朝鮮、台湾の人はまったく区別がつかないそうである。どこの国の観光客が悪い印象を残しているのか知らないが、刑事のようにつきまとう監視は少しく不快であった。
 ベートーベンが使ったと見られるピアノ、いろんな曲のスコアが綺麗に陳列されていた。あとはウィーンで関与した偉い人の肖像画とか、教科書かどこかで見た事のある有名な(細身の顔の方)ベートーベンの肖像画の原画が飾ってあった。そんなに見るべきものも無く、じっくり見ても15分もあれば十分だった。
 同じ建物の1階にMusic Shopがあったが、そこも単なる土産物屋さんで見るべきものも買うべきものも無かった。
SCHUBERTHouse2 次にトラムに乗り継いで向かったのは、シューベルトの生家。ここも簡単に見つけられた。また2ユーロの「拝観料」を払い中に入ると、またまた同じように「刑事さん」に尾行された。そんなに人相悪いかな〜〜〜?
 ここには、シューベルトの使っていたあの眼鏡が、レンズにヒビが入った状態で展示されていた。音楽教室などに飾ってある有名なシューベルトの絵もあったし、何だか親兄弟の肖像画もかけられていた。ここもやはり見るべきものは多くなく15分程度で終わった。

Mozart2 来た道を戻るのだが、何番(1とか2とかDという番号が付いている)のトラムが来るのかは運次第のような感じ。
行きたい方向のトラムが来たら乗り込む。途中で乗り換えて、ブルク庭園のモーツァルト像を見に行った。想像よりも大きなstatueであった。正面の芝生にト音記号が記されていて、像の後ろ側に回ると、バイオリンを弾く父レオポルト、歌う(?)姉ナンネールとともにピアノの前に座る幼いアマデウス少年の有名な絵のレリーフが刻まれていた。 
 ここは、モーツァルトが呼吸をし作曲しピアノを弾き歌を歌い恋をし笑い泣き苦しみそして死を迎えた街なのだ。世の中は、生誕250年祭で盛り上がりつつあるようである。それはいい事だが、生誕記念商法でモーツァルト全集や書籍やその他が売れる事であろう。僕はどうもそういうのが気に入らない。「交響曲40番」なら誰の指揮でどこのオケとか「フルート協奏曲1番」なら誰のフルートでどこのオケで誰の指揮だとか、更にいつどこで録音されたものか、を吟味しないとなかには酷いものも稀だがある。

 この時点で4時半近く、空は薄暗くなり始めていた。そろそろ仕事が終わるT氏と16:30にオペラハウス前で待ち合わせをして、市立公園の有名なヨハン・シュトラウス像を見に行く事にした。ところがお目当てのトラムがなかなかこず、方向の違う「D」のトラムが3回続けて来たりして結局「超」寒い中を歩いて行く事になった。
Strauss1a市立公園には幾つか著名人の像があるのだが、シュトラウスだけ差別されていると言うか、「金像」なのだ。言葉からすると台湾人と思われるバイオリンを担いだ3名の音楽学生と思われる人達が写真を撮っていたので彼らが終わるのを待っていたところ、周りがだんだん暗くなって来た。私が写真を撮る頃にはご覧のようにフラッシュをたいても距離が離れていると人物の顔が分かりにくいくらいに暗くなった。それに対して、ヨハン様は金色(こんじき)に光り輝いておられた。
SchubertStatue
直ぐ近くにシューベルトの像(こちらは単に石造り)もあったので左のように写真を撮ったが、もう真っ暗になっていた。この時点でおよそ5時半頃。この公園には他にもブラームス像などもあるのだが、暗いし寒いので別の目的地に行く事にした。
 それはオーストリア国立図書館Oesterreichische Nationalbibliothekで、2005年11月から2006年1月まで遺作(未完成)となった、『レクイエム』の自筆譜が展示されているので、それを見に行こうとT氏の提案であった。ちなみに「オーストリア航空」の略号はOSであるが、これはオーストリアのドイツ読みOesterreichから来ている。高校生の時に街で金髪碧眼の美女に話しかけられ、Where are you from?と聞いてみたはいいが、相手が「I'm from エス、、、ヒ」とかいうので、そりゃ一体どこの国じゃと自分のhearing, comprehension力の低さを嘆いた事があった(エストニアとかそういう国は無い時代)。「エス」で始まる「白人」の住む国がまったく思い浮かばなかったのである。
MozartRequiem さて、歴史を感じさせる重厚な作りの図書館には、これまた映画『マイフェア・レディ』のエンリー・イギンズ(Henry Higgins)教授の自宅の本棚を30倍くらい大きく高くしたような古色蒼然たる本が並ぶ本棚の間の広い通路を進んで行くと「特別展示」の『レクイエム』コーナーがあった。ビデオ、写真の撮影は許可されたがフラッシュをたかない事と、細部を移さない事が指示された。陳列棚の中には、モーツァルトの自筆譜に弟子のズュースマイヤーが加筆した部分とズュースマイヤーが加筆していないモーツァルト自筆による「作業譜」の二冊が並べて置いてあった。それにしてもモーツァルトのスコアは本当に綺麗である。全くと言っていい程の書き直しや訂正や書き込みがないのである。まるで、何回か書き直した後の「清書」のようで印刷物のようにすら見えるのにこれが「自筆譜」なのだ。
 国立図書館の展示に付いては次のサイトを参照して下さい。
http://www.fiveone.com/visionworks-news/articles/20051128nationalbibliothek.shtml

 国立図書館を後にしてしばしウィーンの市街地を歩き、モーツァルトの葬儀が行われたと言われている「聖シュテファン大聖堂」を見て地下鉄乗り場へ向かった。地下鉄に乗ってハイリゲンシュタットを目指す。ベートーベンの住んでいた場所、「ハイリゲンシュタットの遺書」や『田園』を作曲するモチーフになったかも知れない「ベートーベンの散歩道」のあるところですが、行った目的は違います。もう真っ暗な夜、とっても冷える。必要なのはお酒と食事です。バスに乗って「ホイリゲ」を目指します。ここで、我々は今日昼食を摂っていない事に初めて気がつきました。朝、プラハのホテルで食べてからそれまでの間に口にしたのは空港で飲んだピルスナーと飛行機の中で飲んだコーヒーだけでした。
Heulige
ベートーベンが住んでいたという家を横目に見ながら、「早く暖かい室内へ」と足早に目指すホイリゲへ。
そこは、人数こそ少なかったけれど、お店のおじさんやおばさんの笑顔などとても暖かいお店であった。ホイリゲはドイツ語のホイヤー=今年という言葉から派生したらしいが、つまり今年の新酒、2006年になった今となっては2004年に収穫されて2005年に出来た新酒を飲んでいる事になる。だからボージョレー・ヌーボーとはまた違う。ワインは1リットルの大きいジョッキに入って運ばれて来た。それを男3人で2本飲んだ。更に、ハム、鳥のソテー、ソーセージ、芋を焼いたもの、サラダ、様々な「お惣菜」をカウンターで注文する。
「このハムを2切れとこの鳥を一つとこの肉を一切れ、、、」というような感じである。
昼食抜きで寒いウィーンを歩き疲れた身体に程よくワインが回って、帰りの地下鉄では居眠りしそうであった。地下鉄はオペラハウス前で下車。ホテルまでは歩いて数分である。
 さあ、その晩、YS氏の人生は変わったのであろうか。。。
(つづく)

ウィーンに関するサイトはたくさんあります。たとえば、これなんかは?
http://language.tiu.ac.jp/wien/1/h3.htm

(11日目の食事)
朝食:ホテルパレスプラハ2階のバイキング。美味しかった。サラダをたくさん取った。
昼食:気がついたら抜き。
夕食:上記、ホイリゲにてお惣菜とワインのみ。美味しかったしリーズナブルなお値段でした。

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