『ハンガリー演奏旅行&プラハ、ウィーンの旅』(6)(プラハ2日目)
・旅行第九日目(2006年1月9日):プラハ2日目
ブダペストからプラハへの列車の旅とプラハ初日の話しで2日もかかってしまった。
さて、プラハ2日目は主に観光である。月曜日なのだが、デュシャンが私(我々)のために休みを取ってくれ、朝から市内を案内してくれるという。
9時にホテルのロビーで、と昨日約束したはずなのに酒のせいでみんな忘れたのか、9時にホテルに行ったがまだこれから朝食だという。仕方なく40分程デュシャンと待ちぼうけを喰らわされた。
パレスプラハの目の前には、絵画のミュッシャ(ムハ)のmuseumがあったが、そこはおいておいて、まず新市街、旧市街を歩いていく。市内一の目抜き通り「ヴァーツラフ広場」の通りを歩く。1989.11.26「レトナ広場」での「80万人集会」につづき、11.27この通りというか広場に50万人のプラハ市民が集結し「ゼネスト」に入って『ビロード革命』が起こったその場所である。
そこからしばらく歩くと、有名な「火薬塔」が見えた。デュシャンが英語で"Gun Powder Tower"と言っていた。まんまである。その隣りに有名な市民会館、別名『スメタナホール』がある。建物全体がアール・ヌーヴォー調で建った当初は批判も浴びたそうである。ホール入り口脇のカフェが天井も高く雰囲気もいいのだ、とデュシャンが我々を連れて行く。中に入って壁や天井を見るがすぐに出てホール入り口へ行ってみる。なか(スメタナホール)を見てみたいが中はダメだという。今日の夜コンサートがあるからチケットを買わないか、と薦められた。昼の12時前まで買えば、全席100コルナ割引だという。よく見ると、全部小品か一作品のある一楽章のみを寄せ集めた、どうも観光客向けの特別編成オケのようであり、少々気にはなったがお断りして外に出た。
そこから旧市街方向へ歩いて行く。新市街というのは、「旧」に対して「新」なのであって、実は「新」といっても14世紀、鎌倉時代に出来た街並なのである。だから石畳で狭い道が多く徒歩には適するが車での移動に向かず、一方通行だらけの街なのである。
ちょっと歩くと、有名なエステート劇場があった。1787年10月29日に歌劇『ドン・ジョバンニ』が世界初演された場所である。中には入らず外から眺めた。もうちょっと歩くと、時計台やヤン・フス像で有名な広場に出た。
プラハはマッペット、すなわち人形劇でも有名。道の脇に並ぶ店の中には何件か、マッペット専門店もあった。その中に、驚く事にマトリューシュカだけを、またはそれを多く扱っている店を数件見かけた。デュシャンは、「なんでロシアの人形をプラハのど真ん中で売っているのか理解出来ない。」と半ば吐き捨てるように言っていた。1968年のソ連侵攻、1989年のビロード革命の発端になったプラハの大学生に対する旧体制の機動隊による虐殺行為を知るものにとって、ロシア(ソ連)はまだ許せない国のようである。
新市街も旧市街も歩いて移動出来る大きさで、そのまま旧市街の狭い街路を抜けてカレル橋に出た。
ついにDusan初登場。小さくてわかりにくいでしょうが、大きくすると私の顔も大きくなるのでNGです。写真は、カレル橋の真ん中当たりで。後方がプラハ(フラッチャニ)城。城壁の中で一番高い尖塔を持つ建物は「聖ヴィート大聖堂」(この中には入りました)。その手前に見える建物が旧王宮です。橋が架かっている河は、もちろんブルタヴァ(モルダウ)。
確か時間は午前11時頃だったと思いますが、陰を見て頂くとわかるけど太陽の位置が低いのがおわかり頂けるでしょうか?北緯50度なんです。樺太中央とほぼ同じ。
このカレル橋を渡り、坂をず〜っと徒歩で歩き(ホテルから歩きづめなのでこの辺で少し疲れてきました)、城壁の下にたどり着いて、更に坂を上るとフラッチャニ城正門前に出ます。
正門前は、有名な護衛兵が凄い寒さの中、まるで人形のように静かに立っています。観光客は護衛兵と一緒に記念写真を撮るのですが、彼らはその間も厭がるでも喜ぶでもなくじっとしています。
正午にはとても有名な「近衛兵の交替」がある。私はず〜っとビデオに撮っていたが、約20分に渡って儀式が行われれる。まず、城門内の建物の二階に楽隊が現れて演奏を始めると、1階から交替をする近衛兵約20名が整然と出て来て何か号令をかけながら整列し待つ。と、しばらくして城門外で仕事をしていた近衛兵約20名ばかりが整然と行進して城門内に入って来る。そこで、グループの長らしき兵隊がそれぞれ一人ずつでてきて何か大きな声で言葉を交わす(変わりなし、とか、御苦労様、とか言っているのだろうが?)。
(左は2階の窓に並ぶ楽隊)
城門の外から帰って来た衛兵の中で旗を持った兵士他3名が前に進み出て、次に後退するグループからも3名出て来てここで旗の引き継ぎが行われる。つづいて、城門を守っていた二人の兵士と後退するための二人の兵士が一人の上官らしき兵士に伴われて城門の外に行き、そこで先ほどまでじ〜〜〜っとしていた兵士が初めて動いて後退する。すると、その上官らしき兵士に伴われて交替を済ませた二人の兵士が戻って来て建物の中に入って行く。ひとしきりの号令の掛け合いの後、外から帰って来た軍団が建物の中に入って行くと、今度は最初に建物から出て来てじっと整列していた軍団が上官とともに城門の外に行進して出て行ってそれぞれの部署について警護にあたる。その間、行進や動きがあると気は必ず楽隊が演奏していた。
面白かったのだがとても寒く(零下8度位)、20分近くビデオカメラを構えていた右手は固まったように動かなくなっていた。とにかく何か暖かいものを、と我々は城壁内のカフェを探し私はホットワインを注文した。赤ワインを温めて中にレモンが一切れ入っているだけであるが結構身体が温まった。
その後は、城壁内のこれまた有名な『黄金の小道』を見て歩く。ここは玄関の高さが日本人でも頭をぶつけるくらい低い小さな家が立ち並び、まるで小人の世界に迷い込んだようである。ここにカフカの家があった。青い壁で目立っていたが、カフカって確か凄い長身だったはず。どんな格好でここで仕事をしていたんだろう。
ここから少し歩いて下りながら城壁の外に出る。そして丘をブルタヴァの方へ下って行く。結構歩き疲れたのでトラムに乗る事を希望する。私とYS氏は昨日3日間券を買っていたので他の人は一日券を新たに買う。
トラムに乗ってDusanに指摘されたのだが、券を買って持っているだけではダメだったのだ。トラムやバスなどのなかに、自動検札機がありそこに買ったチケットを挿入して、日時のスタンプが押されてそこから初めて一日券、3日券が生きるのである。スタンプが押されていないチケットを持っていても「違反」として扱われる事もあるらしいから注意である。昨日買った仲間もスタンプ押してなかったので、知らんふりしてその券を今日スタンプすれば使えたのかも知れない。だってトラムもバスも地下鉄も、また改札はないし車掌の検札などもほとんどないのである。
またカレル橋の袂に戻って来た。午後1時半くらいになっていたので昼食をとることにした。次はスメタナ記念館に行く事にしていたので、Dusanがスメタナ記念館の近くの穴場のような安くて上手いレストランを見つけて来てくれた。当然ピルゼン・ピヴォで乾杯。外はあんなに寒いのに建物の中は暖かくビールが上手い!
昼食後は直ぐ隣りのようなスメタナ記念館を見た。いろいろ興味深いものがあったが、常に係官が見張っていて写真を撮らないように注意しているのは少し目障りだった。日本人は注意されても無視してフラッシュをたいて写真をとるような無神経な観光客が多いからだろう。ちょっと悲しかった。
(後方にフラッチャニ城と丘、ブルタヴァ河、そして第2曲「ブルタヴァ」で有名な交響詩『我が祖国』を作曲したスメタナの像とその記念館)
半日だがかなり歩いた。Dusanは午後4時から用事があるのでここで一旦別れるという。我々は自由行動をする事にした。お土産を買いたい人、まだ見て回りたい人、バラバラに別れた。私は少し歩いてこれもブルタヴァの袂近くに建つ国民劇場を外から写真とヴィデオに納めた。
そしてトラムに乗りDusanのアパートへ戻った。息子のTomas19才が帰っていた。Dusanはアメリカに来る1992年の少し前、奥さんを亡くしてTomasと二人で暮らして来た。今はGFがいるような事を言っていたが。私は、コーヒー(当然Nescafe)に砂糖とミルクをたっぷり入れて部屋で荷物を整理しながら少しベッドに横になった。
今晩の食事はどうするかは決めていなかった。Dusanが2つ候補を挙げてくれた。その中の近い方にした。Dusanのアパートから歩いて数分。ホテルからも近い。そこの女性オーナーシェフは何年か前にチェコ共和国大統領の晩餐会の食事を担当した有名人らしい。
一日を我々のために費やして親切にしてくれた友人デュシャンを、我々が招待した事は言うまでもない。
T氏とH氏親娘の3名は、明日プラハを後にしてそのままウィーンをトランジットで帰国である。
私とYS氏は明日のアフラートゥス木管五重奏のコンサートの招待を受けているので、明日もプラハに泊まる。しかも明日は日中にフィンダ氏(スタニスラフ・フィンダ、プラハ交響楽団ピッコロ奏者、ピッコロ製作者、私のFinda PiccoloはNo.20)にお会いする事になっているのだ。明日もビッグイベントである。
(つづく)
プラハの観光名所については、またまたこの方の『プラハ紀行』が写真や説明も充実していて凄いですね。
http://www.nakash.jp/opera/2004praha/index.htm
(9日目の食事)
朝食:デュシャンの家で。デュシャンがベーコンと卵でスクランブルエッグを作ってくれた。あとはパンとコーヒー(当然Nescafe)。「卵はいくつ?」と聞くので、普段余り卵を食べない私は、「1個か2個」と答えたのだが、「今日は歩くんだから3個は食べなきゃ。」とデュシャン。上に書いたように半日歩き回った訳で、彼が正しかった。
昼食:デュシャンが見つけてくれた感じのいい、しかも安いレストラン。ピヴォはまた500mlグラス一杯60コルナ(=240円)だったので2杯飲んだ。食事の写真なし。
夕食:
デュシャンお勧めのレストランで彼を招待して6名で。T氏、H氏親娘最後の夜であった。
私のメイン料理は、『Secret of Prague』とか何とか名前がついていた。牛、豚、鳥肉のソテーをジャガイモで作ったパンケーキのようなもので包んである。何がSecretなんだろう。。。
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