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2005.11.09

置賜の歴史編その2

(その2を書く気になっている自分に感動。。。)
 前回は、米沢と上杉が中心だったので、それ以外のことに少しずつ触れる。
 そもそも、なぜ「置賜地方」なのか。すでに続日本紀や延喜式には「ヲイタミ」という言葉が出ているらしい。元々は陸奥の国に属していたこの地方を、西暦712年に置賜と最上の二郡を出羽の国に付加したことになっている。京都の朝廷から陸路で見れば、今は太平洋側で(死語の表日本で)ある陸奥の国は「みちのおく」で、出羽の国より更に遠い奥の国、奥州であったのだ。
 出羽(でわ)の国とは、古来朝廷に鳥の立派な羽を貢ぎ物としていた事からついたらしい。白鳥が昔から渡って来たであろう事は11/7に書いたように想像に難くないし、鷹などの野鳥も豊富であったろう。「イズハノクニ」と本来は呼ばれていたらしい。930年代に書かれた和名類聚には、出羽を以天波(イテハ)、置賜を於伊太三(オイタミ)と訓じてある。
(しかし、オイタミ、置賜の言葉の由来は今日の時点ではわかりません)
 時は鎌倉に移り、源頼朝は奥州征伐に功績のあった頼朝の参謀ともいうべき鎌倉幕府官僚大江廣元(NHKの「義経」では松尾貴史さんが扮してます)に、現山形県の寒河江と長井の庄を与えた。廣元の子時廣が長井庄の地頭になり大江氏は以後長井姓を名乗った(私の仮のアパートがある長井市はこの長井の庄からついた名称でしょう)。
 室町時代になり、西暦1380年、伊達郡の領主(伊達家も元は頼朝の御家人で奥州征伐の功で伊達郡をもらったため伊達と名乗った)伊達宗遠が長井庄を侵略し長井氏は滅亡した。伊達氏は高畠城(米沢の北隣の町、今も高畠町という。ワイナリーがあり、「泣いた赤鬼」などで日本のアンデルセンと呼ばれている浜田広介の出身地、新幹線の駅もあります、そうSwing Girlsの舞台になった高校は旧高畠高校校舎でした)を本拠として置賜を鎮撫し、以後十七代(独眼竜)政宗まで十代、210年にわたって置賜地方を領した。伊達家十五代晴宗から米沢城を本拠とし、幼名梵天丸の伊達政宗貞山は米沢で生まれた。政宗は家督を継いだ後、華々しい活躍で領土を広げて行ったが、豊臣秀吉はその威力を恐れて岩出山移封とし、政宗は天正十九年(1591)米沢を離れる事になった。
 代わりに米沢に入ったのは蒲生氏郷(豊臣秀吉の家来、妻は織田信長の娘冬姫)の配下蒲生郷安であった。蒲生氏郷は伊勢12万石の城主から様々な戦功によって奥羽鎮護として会津92万石の大領を与えられ、米沢城三万八千石を蒲生郷安に支配させたのである。しかし、蒲生氏も御家騒動で1598年に秀吉から宇都宮移封を命ぜられ、その後に入ったのは蒲生氏郷の死後会津城主になっていた上杉景勝の執政直江兼続であった。今日の米沢の町づくりの基礎は、この兼続の手によってなされたとされている。そして、関ヶ原の戦いで西軍についた上杉は米沢に転封となり、昨日の上杉米沢に続く事になる。(フーッ!)
ーー
 ということで、有史以来徳川幕府滅亡までの米沢を中心とする置賜の歴史を概観した。
 日本全国どこにでもある事だと思うが、時の政権の思惑や身内の争いなどで領主がいろいろ変わるのである。山形県の中心、村山地方は元は14世紀から足利氏の一族斯波氏が羽州探題として山形城に入り、最上と名を変えた。一時伊達配下となって衰退したが、最上義光(よしあき)が57万石の大名として秀吉に使え山形を支配していた。義光の娘駒姫は絶世の美女と言われ、秀吉の子関白秀次が駒姫を側女にしたが、秀次が秀吉により切腹させられるとその家族、側女も全員打ち首に処された。最上義光は秀吉に駒姫の命乞いをしたが聞き入れられなかった。後に関ヶ原の戦いで義光は東軍について(当時会津の)上杉と闘ったのはこの時の恨みも一因と言われている。最上義光の死後、様々な御家騒動などを経て改易され最上家は大名から交代寄合に格下げとなった。山形城には一時、昨日の上杉の話しにも出て来た、徳川義光の異母兄弟である保科正之が入り納めたが、上杉が会津から米沢に移った際に、保科氏は会津に入り、その後松平と名を変え親藩としてその後徳川幕府滅亡まで会津を納めた。
 会津の白虎隊など、会津藩が江戸時代末期の様々なシーンに出て来る(蛤御門の変とか新撰組とか)理由は、山形から会津に移った保科正之に始まる、徳川家直系の血筋としての誇り、立場が大きく関わっている。であるから、米沢以上に福島県の会津地方は、未だに「薩長憎し」のような風土が根底に無言に流れている土地柄のように感じる(あくまで、薩長に近かった九州生まれの私の独断ですが、喜多方に住んでいた時に感じた事であり外れていないと思います)。余談に継ぐ余談ですが、私の母の話しによると母の曾祖父は日向高鍋藩のどこかの城の家老として薩摩藩と共に蛤御門の変に参戦し、宮崎県内に残る最も古いとされる写真を1864年に帰路の廣島で撮影したということです。
ーー
 ということで、無理矢理ですが、日向高鍋藩出身の名君上杉鷹山公と、現在置賜で働く高鍋藩縁の私が、ここで結びつく訳です。チャンチャン!
 こんな歴史の話しを何故書き始めたのか、それは明日以降のお楽しみ〜!

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コメント

先生の博識に脱帽!(^^)>
我が父祖は、薩摩。
同士ですね。

投稿: mayako | 2005.11.10 21:46

mayakoさん、いえ、いえ、私が博識なのではなく「ネットが博識」なんですよ〜。何でも簡単に辞書のように調べられますからね。v(^^
海音寺潮五郎さんは、山形が誇る作家藤沢周平と同じく、中学校の教師をしながら執筆活動をされていたんですね。藤沢周平が歴史の表舞台に出て来なかった人をフィクションで描いているのに対し、海音寺潮五郎さんはNHKの大河ドラマの原作が多いですね。
「同士」と呼んで頂き光栄ですが、東北はまだまだ薩摩憎しって人も残っていますよ〜。日向んもんからみたち、薩摩んコトバな、わからんとじゃけん。「人類みな兄弟」じゃなかと!?(^^)

投稿: balaine | 2005.11.11 09:04

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