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2005.11.11

歴史と人(まとめ?)

歴史の話しを書き始める前に、一つ情報を。
今度の日曜日に「題名のない音楽会21」で故本田美奈子さんの追悼特集番組を放送するようです。
http://www.tv-asahi.co.jp/daimei/
本田さんの凄さを知っていた人も知らなかった人も是非ご覧ください。m(_)m

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 さて、何故に歴史の話しを書き始めたのか。その理由の一つは、私が歴史が好きだからであるが、新しく住む事になった土地の歴史を学び直したかったからである。これまで、なんとなくは聞いて知っていたけれど、改めて調べ直してみると、「ホォウ〜!」(フォー!ではありませぬ)という事がたくさんあった。
 で、続けます。
 前任地の庄内は庄内で、最近密かな藤沢周平ブームがあるようだが、徳川300年の間、変わらず知行を続けた酒井家というのがある。酒井家は、徳川家康の四天王の一人、酒井忠次の流れをくむ譜代名門の家柄である。それが故か、会津松平が京都守護職なら、鶴岡酒井は江戸市中見廻組を務め、江戸時代末期に薩摩藩邸焼き討ちに加担し、この事件が逆に官軍の江戸総攻撃の口実を与えたと言われている。
 酒井家が庄内に入る前は、昨日書いた最上氏が、関ヶ原で東軍についたため山形県のほぼ全部を納めていた。一時120万石とも言われていたのだが、しかし最上氏が3代で改易となって山形が4藩に分けられ、庄内に酒井家が入って来た訳である。鶴ヶ岡城(現鶴岡市)に藩庁を置き、酒田亀ケ崎城を枝城とした。庄内平野は今も昔も米どころであり肥沃な土地が広がっていた。更に、酒田は北前船で栄え、「日本永代蔵」にも描かれた豪商「鐙屋」や「本間様には及びもせねど、、、」で有名な日本一の大地主「本間家」をバックに比較的豊かな藩であった。
 川越松平家が将軍の子供を養子にもらったことをきっかけに、財政逼迫を改善させるために豊かな庄内に目を付け、「三方領地替え」を企んだ事は有名な話し。先日、たまたま見た教育テレビ「高校日本史」でこの「三方領地替え」をやっていた。敬愛する藩主が変わる事を避けたいと談合した結果、庄内藩領民は生命をかけて江戸へ出向き幕府に領地替え取り下げを直訴することになる。江戸城の周辺で幕閣の籠に向かって嘆願している庄内領民の絵がテレビで紹介されていたが、暴動を起こさずその動きは統制がとれていたと賞賛されていた。しかし、幕府の命を拒否し農民が一揆的な行動を起こしたのであるから、本来ならば死罪である。従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛され、幕府はこの命令を撤回したのであった。 当時の酒井家と領民の良好な関係が伺い知れる。それが今の世の「だだちゃ豆」に繋がっているのかも知れない(一説には、酒井の殿様が枝豆が大好きで「今日はどこのだだちゃ(お父さんまたは主人)の枝豆か?」と楽しみにしていたことからついた名らしい)。
 江戸末期、戊辰戦争の際、庄内藩酒井家は、会津藩松平家とともに「奥羽越列藩同盟」の中心的存在となった。ご存知のように、戊辰戦争と言えば、薩長土肥を中心とする官軍が連戦連勝をあげたようなイメージがあるが、実は負け戦の多かった中において庄内藩だけは「無敗」であったらしい。本間家の財力をバックに新式銃を大量に揃え新政府軍を圧倒していたということである。それでも諸藩が降伏する中、無敗のまま、恭順降伏をせざるを得なかった。この際、新政府軍の先鋒であった黒田清隆に対し、庄内藩家老をはじめとする家来が「我々全員腹を切るので藩主だけは助けてくれ」と命乞いしたと言われている。これを伝え聞いた西郷隆盛が感激し全員を許し、更にやはり本間家を中心に莫大な献金(加えて敬愛する殿様を呼び戻すために領民が多額の献金を行ったらしい)を新政府に行った結果、(会津藩は取り潰されたのに対し)庄内藩は取り潰しにならず藩主も復権した(今でも酒井の殿様は鶴岡に住んでいて、先年亡くなられた第17代当主酒井忠明(ただあきら)さんは私も一時主治医になった事があるが、地元民からは「殿様」と呼ばれていたらしい)。酒井家が存続した事を恩義に感じた旧庄内藩士は、西郷隆盛が野に下り西南戦争が起きると遠く九州まで参戦して西郷軍に入り討ち死にした。鶴岡の市庁舎の横に大きな横置きの石碑がある。それには「敬天愛人」と大きく彫られている。西郷に感服し学んだ旧庄内藩士が西郷の教えを残した書物に「南洲翁遺訓」というのがあるが、その中に出て来る中心的な言葉である。さらに、驚く事に、鶴岡や酒田には「南洲神社」といって西郷隆盛を祀る神社まであるのである。
戊辰戦争の引き金になった、江戸薩摩藩邸焼討ちに中心的な役割を果たした江戸市中見廻組の庄内藩と官軍総本山薩摩の西郷の人と人の交流が今の世に続き、鹿児島と庄内の小中学生が今でも交流を続けているそうである。
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 さて、ほろりとするような「いい話し」で終わりたいが、「私」のブログとしてはその目的を果たしていない。
 私が山形県内でいろいろな土地(村山地区、新庄最上地区、庄内地区、そして今の置賜地区)で仕事をするようになって、当然土地の事を知らない訳にはいかない。それは単に好奇心とか知的興味というだけではなく、その土地に暮らす「ひと」を知るために重要な事である。脳神経外科医はメスで頭を開く(野蛮な?)外科医であるが、一医師として一患者に向き合うためには、その人の社会的・家庭的・教育的環境を知っていた方がよい。「人を見ずして病気を診る」の愚に陥るを避けるがためである。そういった背景には、やはり「歴史」が大きくものを言うであろう事には頷首されるはずである。
 どこの地方にも歴史と人がある。山形県が「一つの県」としてまとまりがない、というのは昔から良く言われている。冬季長野オリンピックの前に日本で候補地が4つあがった際にも、山形の人は「どうせ、山形でオリンピックなんてできるわけねぇべ〜」と冷ややかに見ていたらしいし、実際に投票の際「山形蔵王」には一票も入らなかったそうである。候補地としてのアピールに力を入れなかっただけでなく、自分たちが自分たちに票を入れなかったということになる。なんでこうなるのか?と私も県外出身者ながら「住めば都」であり口惜しく思っていた事がある。だんだんわかって来たのは、明治維新、廃藩置県の時、現山形県はもともと4つに分かれていたということである。庄内県(酒田県→鶴岡県)、最上(新庄)県、山形県、置賜県であるが、維新に際し混迷に混迷、混乱に混乱を重ねて、現在の山形県になったらしい。その当時は、やはり上杉米沢と酒井鶴岡が名門であり、それに大地主本間の酒田があり、その昔は最上家のいた現在の県庁所在地である村山地方山形市はむしろ力のない土地であった。米沢(置賜)が福島に、庄内が新潟と秋田に分断されるという話しもあったらしいが、結局当時は小藩の寄せ集めになっていた現山形市周辺地区が、政府の威令も届きやすく、鶴岡と米沢の中間に位置するという事もあって、県庁所在地に決められたらしい。初代県令三島通庸は鶴岡県令から抜擢された旧薩摩藩士であった。
 そういう訳だから、山形県内の4地区の中、特に庄内、置賜の2地方には「山形なにするものぞ」というか「俺たちは山形じゃない。庄内だ!/米沢だ!」みたいなところが感じられる。独自の文化があり独自の言葉がある。県内の地域差で方言が違うところは他にもあるだろうが、こんなに違いのある県は珍しいのではないだろうか?
「ありがとう」は、庄内では「もっけだのぉ」、置賜では「おしょしなっす」、村山(山形)地方では「ありがどさま(ありがとさまっす)」、
その場を去る際の「それじゃあね」は庄内では「しぇばの」、村山では「んだば」とか、置賜では「?(知りません、誰か教えて)」、
「私の家にお出でください(来てください)(いらっしゃい)」は置賜では「うちさござっとごやぃん〜」、村山では「おらいんぢさきてけらっしぇ」、庄内では「?(なんて言うかな?)」、
とにかく、同じ県内なのに、語尾だけでなく使う単語まで違ったりする土地柄なのである。言葉は文化であるから、それを使う人々もやはり違う。それを理解しないで接しないと困る事もある。人間と人間だから、真心を持って正面から相対すれば結局は理解してもらえるのであるが、「初対面」の時などはお互い余り良くない第一印象を持ってしまう事もある。文化はその土地に長くしみ込んでいる歴史に基づく。だから歴史を知り、言葉を理解しなければ、その土地で医師として人に相対することが表面的なものになってしまうおそれがある、と考えている。

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コメント

西郷どんと庄内藩は、深い関係があるんですね!(*_*)
それにしても、ここまで患者さんの背景を
きちんと把握して診療に当たる先生は素晴らしい!

投稿: mayako | 2005.11.11 18:07

す、凄い・・・。先生って、こんなの書ける人だったんですね。やっぱ医者にしておくのはもったいないです(笑)。

投稿: 元脳外 | 2005.11.11 18:16

mayakoさん、いえ、そんな、大したものでは。。。ただこういう話しが好きなだけです。「敬天愛人」の碑を鶴岡で見つけ、庄内藩士が西南戦争で戦死した話しを初めて聞いた時には、当時の庄内藩士の心を思って目頭が熱くなりました。

元脳外さん、お久しぶりです。今は東京でしたか?
う〜ん、医者にしておくのでなければ何にしていただけますか?杉○大○議員みたいに僕も比例代表に立候補すれば良かったかな〜。(^^;;;;

投稿: balaine | 2005.11.11 18:39

はじめまして、げんちゃです。
最近地元の歴史に興味を持ち始めました。
ブログを拝読し、感銘を受けました。
ところで、その場を去る際の「それじゃあね」は庄内では「しぇばの」、村山では「んだば」とか、置賜では「?(知りません、誰か教えて)」、について、
げんちゃは、「ほんじゃ」又は「ほんじゃば」、「ほんじゃな」といいます。

ほんじゃば

投稿: げんちゃ | 2009.10.20 16:33

げんちゃさん、こんにちは。コメント、どぉもっす!
置賜の人だったんでしょうかの?
「ほんじゃば」ですか。。。置賜には半年暮らしただけですさげ、あんまし聞がなかったかもの。

庄内弁で「うちにいらっしゃい」は、「うっつさぁ、来でけでくいの〜(来でけろの〜)」でしょうかね。まだよくわかんねんだの。

せばの!

投稿: balaine | 2009.10.20 21:01

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