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2005.11.08

置賜の歴史編その1

 日本は、戦後60年、明治維新後140年という今でもなお江戸時代を引きずっている。江戸時代はご存知のように大政奉還まで270年近く徳川幕府によって納められた。地方から見れば江戸によって強硬な支配が300年近く続いた訳で、100年やそこらでその名残は消えないのである。そこで、私の住む土地の歴史について少し整理してそのことによって、今の私を振り返りたいと思う。
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 今日は、現在私が勤務する地域の総称である「置賜」の歴史その1について語る。
 置賜地方最大の街は、米沢市。上杉の城下町として知られている。上杉氏は元をたどれば藤原氏、足利氏に繋がる由緒ある家柄で、本来は「関東」が地盤であった。しかし(詳細は省略しないと長くなる)、「越後の虎」と呼ばれた、当時長尾景虎を頼って関東から落ち延び、景虎を養子にとって上杉とし、景虎は上杉の名と家宝、関東管領職名を継いで名を政虎、更に輝虎と改めた後、出家して「上杉謙信」を名乗る事になる。
「米沢上杉家藩祖」の誕生である。謙信と信玄の「川中島の戦い」はつとに有名であるが、場所は長野県にある。しかし、現代、「川中島の戦い」は米沢で再現されている。
信玄が亡くなった後、反織田信長勢力の筆頭と目されていた謙信は、しかし、伝文によると「脳出血」で48才で亡くなっている。「人間50年、、、」の時代だからそんなに早死にでもなかろう。力を持っていたものが消えると残ったもの同士で骨肉の争いが起こるのは世の常。生涯独身で子のなかった謙信の養子の二人、景勝と景虎が争って景勝が勝利するものの越後を二分する戦いの中、勢力を失い、会津120万石の城主となるものの、「関ヶ原の戦い」で西軍についたため(米沢生まれでそこを所領にしていた伊達政宗が岩出山に転封された後に)、上杉景勝が「米沢30万石」に転封される事になった.
 更に、江戸時代に家督相続の失敗で15万石に減らされ、越後ー会津と100万石以上の守護代であった名残の一族郎党家来職人を引き連れて転封された先の米沢では困窮生活がすぐに始まった。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは ひとの 為さぬ成りけり」
で有名で江戸時代屈指の名君、藩政改革の祖、とされている上杉治憲(後の鷹山)は謙信を藩祖とし第一代景勝から数えて第9代藩主である。JFKやクリントン元大統領も「歴史上最も尊敬する日本人の一人」に挙げた程、世界的に有名な鷹山(ようざん)であるが、出身は宮崎の高鍋藩からの養子であった。
 ここで、また複雑で、きわどい江戸時代の血縁関係が出て来る。
 まず、30万石から15万石に減封されたのは、3代綱勝が嗣子を定めないまま急死したためで、本来なら「御家断絶御取潰し」となるところだったのを、綱勝の舅である会津藩主保科正之(実は徳川家光の実弟)の尽力によって綱勝の妹と高家の吉良義央の間に生まれた子綱憲が末期養子に認められ、存続したのである。
 吉良義央とは、年末には毎年のように「忠義の志士」赤穂浪士の討ち入りで打ち取られる「敵役」「憎まれ役」の人である。そう、吉良上野介は、第4代米沢藩主の父にあたることになる。そのため、赤穂浪士の討ち入りの際にも綱憲は必ず出てくるのである。「父である吉良義央を見殺しにはできない。浪士の討ち入りから守るか、否か」という決断を迫られるシーンで有名であろう。
そして、宮崎の鷹山。これがまた数奇な縁というか、母方の祖母、つまり高鍋藩主秋月種美の妻の母が、米沢藩4代藩主綱憲の娘であったのである。つまり鷹山にとって、吉良上野介は母方の祖母の父の父に当たる事に成る訳である。
 なんでこんな面倒くさい事を書いているかと言うと、最初に書いた通り、日本は未だに江戸時代を引きずっているという事を説明するためである。昭和も終わり平成の世、21世紀になっても米沢およびその周辺では、赤穂浪士の討ち入りを快く思わない人達がたくさんいるのだそうだ。12月になると必ずどこかのチャンネルで全国ネットで「忠義四十七士討入り」は「忠臣蔵」として全国ネットでドラマ化され放送されるが、米沢ではその番組は見ない人が多いというのだ。だって、米沢藩第4代藩主綱憲の父で、名君鷹山のおばあちゃんのおじいちゃんに当たる人が悪役にされているのだから。
 家臣6000人という100万石の体制を30万石、15万石となっても崩さず、それがために領地を返上しようとまでしていた米沢藩を復興させた鷹山公への置賜地方の人々の尊敬の念は今なお強く、越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって上杉への愛着は強く、平成の御代になってもその名残は感じる。
 藩祖謙信の遺骸を納めた甕は越後春日山(新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置され、現在では上杉廟所といって謙信以来代々の藩主のお墓が米沢にあり、米沢の人々の「上杉」に対する想いは強いものがあると感じる。その原因の一つに、こういった歴史を元にした学校教育がある。
 米沢市内の小学校では、教室や体育館の正面向かって左に藩祖謙信の絵、右に名君鷹山の絵が飾れている。鷹山が創設した藩校興譲館は、今は山形県立米沢興譲館高等学校として残り、この地域屈指の進学校である。そういった子供達に対する長年の教育が、この地方に暮らす人達に「米沢は、最上山形ではない。上杉である。」という、良く言えば誇り高い、悪く言えば排他的で自尊心の強い気風を残しているのかも知れない。
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 今回は、米沢と上杉の話しでした。次回は、あるのか???(^^;;;

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コメント

なるほど、と興味深く読みました。
中にいると分からないことも多いです。考えてみると確かに「最上や庄内とは違う」という意識が強かったように思います。
だからという訳ではないかもしれませんが、「外に出て戻らない若者が多い」とか「成功してからでないと地元では認めてもらえない」という話をよく聞きます。

投稿: 葉子 | 2005.11.08 20:25

私の祖父、 海音寺潮五郎は、上杉謙信が大好きで、
「天と地」では、謙信の男性的爽快さを描いています。

投稿: mayako | 2005.11.08 23:01

「天と地」じゃなく、「天と地と」でした。

投稿: mayako | 2005.11.08 23:05

葉子さん、米沢でのリサイタルまであと20日を切りましたね。地元で認められる事も大事ですけど、音楽は世界に響きますからね。頑張ってください。

mayakoさん、まあ〜なんと!海音寺潮五郎とな。。。ここに、また素晴らしい血筋の方がいらっしゃったのですね。うちの父なんて驚き喜ぶでしょう。
「天と地と」で謙信をやったのはへーちゃんこと石坂浩二でしたね。その原作者のお孫さんとは。。。(@@)
是非、上杉神社にいらしてくださいね(もう既にいらしているかな?)

投稿: balaine | 2005.11.09 09:48

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