« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »

2005年11月

2005.11.30

健康に関するテレビ番組

 流行ですね。視聴率がとれるんでしょう。
 日曜の夜、元スパイダースのヴォーカル堺○章氏が司会進行を務める番組で『頭痛』の特集をしていました。昨晩は、世界的映画監督北○た○し氏が司会進行を務める番組で「クモ膜下出血」が取り上げられていました。両方の番組に仕事上で少々親しくして頂いている有名な先生方(N医大のK先生、J医大のS先生、F大のK先生など)が出演されていたので興味深く拝見しました。
 番組の内容としては、どっちの番組も「半分○、半分×」でした。素人への啓蒙として、なかなか工夫を凝らしたり鋭く突っ込んだ部分は評価できます。ただちょっとおかしい、あやうい、と思う部分や「おいおい!」という部分も少しあったのが気になりました。視聴者を釘付けにし他の番組へチャンネルを変えたりしないよう、一時間の番組の間「ひっぱら」なくてはならないでしょうし、ありきたりの内容ではすぐに飽きられて、来週の視聴率がとれないのかも知れないのでしょうから、仕方のない面もあるでしょう。
 頭痛の多くは、緊張型頭痛か偏頭痛、しかし何らかの症状(たとえば手足の痺れとか吐き気とか)を伴ったり2週間以上続くなど持続性の場合は、脳の病気を疑った方がいい。けして間違いではありません。ただ、そういう症状を伴わなければ「脳の病気はない」と言い切れるかと言うと、決してそんなことはありません。人間は皆それぞれ違うので、「ある特有のパターン」というのがあるとはしても、万人に当てはめる事は危険です。かといって、頭痛を何でもかんでも「脳の病気」に結びつけるのも愚かな事です。番組でとても大事な事を言っていたのは、頭痛の強度によらず、患者本人が「頭痛が起きた瞬間を意識できる」「いつ頭が痛くなったかがわかる」というのは、くも膜下出血を強く疑わせる大事な所見です。
 「前触れのない突然の吐き気」がクモ膜下出血を疑わせる大事な所見か?と言うと意見の分かれるところです。頭痛を伴わずに吐き気があったら、これはやはり腹部症状として消化器系の病気を疑うのが素直だと思います。吐き気に頭痛が伴う事が大事です。
『脳幹にある嘔吐中枢が出血によって刺激されて吐き気、嘔吐が生じる』
と図解しながら高度な事まで説明していました。ただ、「出血が同時に脳を刺激して頭痛が起きる」という表現は正しくありません。『脳』という組織自体には、「痛覚」を感じるセンサーがありません。つまり脳単独の異常では基本的に頭痛は起こりません。脳の組織そのものが異常になる病気である、パーキンソン病やアルツハイマー病や小さな脳梗塞には「頭痛」という症状は伴う必然性がありません。
「頭が痛い」と思うのは、脳の回りに走っている太い血管や脳を包んでいる髄膜という組織(それらは中枢神経ではなく、全身の血管や皮膚と同じ仲間です)に『痛覚受容体』というセンサーがついていて、それに何らかの刺激が加わる事で生じる症状です。ですから、クモ膜下出血の場合、脳の外を満たす脳脊髄液腔に出た血液が髄膜を刺激してそのセンサーが「痛覚刺激」を脳に伝えて初めて「痛み」を認識する訳です。脳腫瘍や大きな脳出血や大きな脳梗塞では、脳が浮腫んだり病変に押されて歪んだりすることによって、脳の回りを走っている太い血管が引っ張られたり、髄膜が押されたりしてセンサーが「痛覚刺激」を脳に伝えて「痛み」を認識します。
 「痛み」というのは、脳で認識されるものであって、痛みの発生している場所ではセンサーに対する単なる外的または内的な刺激でしかなく、受容体センサーが刺激を受けて電気的に興奮し、それが神経を伝わって脳に運ばれそこで初めて「痛い!」という意識に変容されるのです。ですから、目の回りや奥の筋肉、額や側頭部の筋肉、首筋から後頭部の筋肉が凝りや緊張で硬く痛くなった場合も、同じように痛覚刺激が脳に伝わって「痛い」と感じる事になる訳なので、「痛みの場所」とか「痛みの性状、程度」だけでは、「何が原因で痛くなっているのか」見分ける事は簡単な事では(脳外科以外の一般医師にとっても)ないのです。(だからこそ、頭痛外来が必要なのですが)
 ですから、いつ、何をしている時に痛くなったとか、痛みがどういう風に続いているかとか、どういう症状が伴ったかとか、そういう情報が大事になります。もちろん、クモ膜下出血の場合、出血量の少ない軽症から大量に破れてしまう重症まで、専門の我々でも驚く程の差があります。
「あれ?頭痛いな。風邪でも引いたかな?」と思うくらいで車の運転や仕事をしているクモ膜下出血患者さんもいれば、「うぁー!!痛い!!」と言ったかと思うと倒れ込んで昏睡になり間もなく呼吸も怪しくなってしまう患者さんもいます。「クモ膜下出血の半分が死亡する」という表現がありましたが、ちょっと誇張かもしれません。しかし、あまりに重症で病院に運ぶ間もなく亡くなられる方や、救急搬入されても心停止していて解剖もされず死亡原因がくも膜下出血と解明されずに亡くなってしまう方も相当数いると思われ、我々脳神経外科医のところになんとか来て下さってクモ膜下出血という診断を受け、重症で亡くなられてしまう患者さんの率およそ20〜30%よりも実際は高いであろうことは想像できます。ただ、我々が分類するクモ膜下出血の重症度5段階で軽症の方から1、2、3段階までの方で合併症などのない方は、適切な治療、手術を受ければかなりの確率で社会復帰が可能です。中には出血による脳の破壊のためや出血が原因で起こる脳の血管の攣縮(糸のように細くなる事)のために脳梗塞を起こして、重篤な後遺症を残す方も残念ながらいる事は事実です。しかし、私の少ない経験ではありますが、グレード3までの人で自宅に帰れなかった方は一人もいませんし、80才を超えた高齢の方以外皆独歩で自宅に帰り、グレード1、2の方はほとんどの方が復職して社会的にも元に戻っています。
ですから大事な事は、時期を逸しない適切な診断という事になります。テレビでやっていたまるで「絵に描いた餅の様な」(表現が不適格かな?)症例は、1)前触れのない吐き気、2)その後頭痛を意識、3)しばらくしてまた前触れのない吐き気、4)少し強い頭痛、5)どちらか一方の瞼の下垂(下がる事)、6)大破裂による死亡という経過をたどっていました。不幸にもあのようになる症例もあるかもしれません。でもほとんどクモ膜下出血は、もっとはっきりとした頭痛や嘔吐を伴い、とても一人で自宅に歩いて帰ったり、家事をしたり、趣味のフラワーアレンジメント(でしたっけ?)をしたりという様な余裕はないと思います。車で送られてようやく自宅に帰るか、吐き気と頭痛が強いためそのまま病院に連れて行かれるかだと思います。
ーー 
 ここに、少し似た様な例があります。実は横浜に住む私の母親です。4年前のある日、急に頭が痛くなって吐き気がして一回吐いた、という連絡が本人から私にありました。「病院に行った方がいいか?」と聞きます。意識ははっきりしていて自分で電話をかけてきました。私は、本人及び父親に近くの脳外科のある大きめの病院へ連絡してすぐに受診するように、と伝えました。その日、私は西日本の某都市で開かれる脳外科関連の学会に出席するため新幹線に乗っていました。「電話をしたら午前中の外来受付は終わったから、午後1時半過ぎに来てくれ、と言われた」と父が言います。時間は確か11時過ぎだったと思います。「クモ膜下出血が疑わしいから、1時間も2時間も待っていてはダメだ。私が電話して担当医にお願いするから番号を教えて!」と父から電話番号を聞き脳外科医と直接話しをしました。「わかりました。すぐにCTを撮りますからすぐ来て下さい。」と言われ、それを新幹線の中からまた父に電話連絡する、というもどかしい形ではありました。
 新幹線が目的地に着いた丁度直後くらいに、先ほどの脳外科医から私の携帯に直接電話がありました。「クモ膜下出血はないようです。ちょっと疑わしい所見もありますし、今からMRIとMRAやりますので結果が出たらまたお知らせします。」と言われました。もうこれはくも膜下出血だ、と思っていた私はそう聞いてホッとして、「な〜んだ、じゃ、ただの緊張性頭痛か何かか。」と納得し学会に参加していました。MRAの結果、「脳動脈瘤もなさそうだし大丈夫だと思いますが吐き気も続いていますし念のため入院して頂きます。」との連絡を受け、その情報を信じきった私は、「よろしくお願いします。」とお礼を述べました。
 入院後の検査の結果、頸椎に軽い変形もあり頚性の頭痛として整形外科にも見てもらい3日で自宅に退院しました。私は、学会参加後は大学病院での忙しい仕事があったので実家によって母を見舞う事もせず(単なる頭痛だと思っていましたから)横浜を素通りしました。それから2,3週たった頃でしょうか、父から「まだ頭痛を訴えているし何だか言う事がおかしい。ボケたのか?」という連絡があり、別の病院の脳外科か神経内科を受診するよう進めました。そこで病歴上、前医のCTとMRIで明らかな異常がなかったということから、別の病院の精神科を紹介され、そこを受診しても検査はなく話しを聞くだけで、「来週また来て下さい」と言われたとの事でした。父がかなりいぶかしく思っていたようですが、息子と同じ職業の脳外科医が「大丈夫」と言った言葉を信じていたようでした。それから間もなく、隣近所の人が来ても頓珍漢な事を言ったりするため、いよいよおかしい、ということになり、再度連絡を受けた私は、実家から車で30分以上かかるけれど昔から親しくしている信頼できる脳外科医のいる別の病院を紹介し、そこで入院精査をしてもらうことにしました。そこでもやはり、一番最初に受診した脳外科専門医が3人いる総合病院での検査で「シロ」だったことが重視され、吐き気が続くため内視鏡検査が予定されたようです。ところが軽い意識症害があるようなのでCTを撮ったところ立派な「水頭症」と診断されました。すなわち、遡る事1ヶ月くらい前に突然の頭痛と嘔吐で軽症のくも膜下出血を発症したものの、神経脱落症状もなく意識もよく、検査で異常が認められなかった(結果的に言えば誤診ですが)ため見過ごされ、出血のために脳脊髄液の循環と吸収が阻害されて水頭症が出現し、精神症状(ボケたと考えられた)まで出現して初めて正しい診断がついたのです。
 これは非常に運の良いケースです。1ヶ月、診断がつかずにウロウロしている間に、再破裂して重症の出血を来たし、死亡したり寝たきりになってしまった事も十分に考えられます。ラッキーでした。何故、最初に診断がつかなかったのか。私はCTもMRIも全て取り寄せてみせてもらいました。手術にも立ち会いました。確かに出血量が少なくCT上うっすらとしているだけでわかりにくい所見ではありましたが、「脳外科医」が「突然の頭痛と吐き気と嘔吐」と聞けば、強くくも膜下出血を疑う所見ではありました。更に、MRIではなかなか出血はわかりにくいのですが、MRAでは出血原因の脳動脈の瘤がわかる事が多いのですけど、それもよくわかりませんでした。理由は画像が汚かったからです。検査中、母がじっとしておれずに頭を動かしてしまったからかもしれませんが、一番大きな理由と言っていいのは、CTもMRIも一世代以上前の機種であったということです。携帯電話に例えれば、メガピクセルという画素が当たり前の「今の」機種より一つ、二つ前のボワ〜ンとした写真しか撮れない機種、という感じです。
 手術所見は立派なクモ膜下出血。一ヶ月経っていたため、既に赤味はなくややオレンジがかった黄色に変色した出血の名残が血管や脳の回りにへばりつている感じでした。手術は成功し、水頭症に対してのシャント手術も上手く働き、幸いほとんど後遺症なしで回復しましたが本当にラッキーでした。このように、典型的なクモ膜下出血の発症の仕方でクモ膜下出血を強く疑って脳外科専門医のいる病院に直接運び込んですぐにCT、MRIを撮ったにもかかわらず正しく診断されない場合すらあります。
 テレビ番組でさかんに「脳梗塞のシグナル」とか「クモ膜下出血のシグナル」という言葉を使っていましたが、予兆という意味のシグナルではないでしょう。あれは「典型的な症状」そのものです。そういう症状があったら、脳梗塞になるかも知れないと疑う、のではなく、「既に脳梗塞になっている」のです。「突然の頭痛」+「胃腸症状を伴わない突然の吐き気」はクモ膜下出血を強く疑い、信頼できる、医師のいる、設備のある脳神経外科の病院に直行すべきです。それでも100%診断されない場合もあるという事がある、という事も知っておく必要はあります。
 かなり『言い訳』めきますが、医者は人間なので100%ではありません。我々は100%を目指し日々努力しているつもりではあるし1%のミスも許されない立場ではあるけれど、法的には「許容範囲」というのがあります。同一に論じるのはおかしいかもしれませんが、医師国家試験は基本的には60%できれば合格です。逆に言うと、40%間違ったり知らなくても日本国は法的に「医師」と認定する資格を与えているのです。その辺を考えると、情報は鵜呑みにせず賢く立ち回って全てを医師任せにしない事も大事です。私も、同業の脳外科専門医の言う事を鵜呑みにしました。まさか「脳外科専門医」が正しい診断を下せない、なんて事は考えもしなかったのです。
 テレビ番組の情報も、上手に利用して、振り回されないよう、賢く知識を生かして頂きたいと思いました。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2005.11.28

診療報酬4%引き下げへ

 本日の新聞にタイトルの件が載っていた。読売新聞はトップ記事扱いである。
 中身をざっとみると、政府はとにかく社会保障費を抑制するためにまず医療費の抑制は不可欠、として、来年度診療報酬を4%下げる計画との事。しかし、この中身は、「医者の技術料」が3%引き下げで「薬価」が1%引き下げの予定なのだそうだ。やはり消費経済の中に巻き込まれた医療、そして政治的な力での駆け引きが見える。
 前から書いているように、無駄は減らすべきだ。下げるべきところが下げられてもやむを得まい。しかし、これが一律(そうでないと『不公平』だと考えるのが日本人らしい発想ですから)下げられるとなると憤慨せざるを得ない。「悪平等の不公平」とはこういう事をいうのだ。
 進歩している技術、診断能力の向上、安全性の向上、治癒率の向上など、医療ミス、医療過誤のセンセーショナルなニュースの陰に隠されてしまっているが、たとえば20年前の医療と現在の医療では全くレベルが違う。日本は世界一の長寿国であり、保健衛生を支えているのは、やはり世界一平均点が高いと言える現場の医療技術レベルなのだと私は考えている。それなのに、「デフレだから」、「社会保障費の抑制は不可欠だから」という理由で「医者(=医療の専門技術者)の技術料」をまず目の敵のように下げるのである。
 4%下げるのならどうして、内訳薬代が3%の引き下げ、にならないのだろうか?やはり製薬会社や消費経済社会に力を持つ団体へ遠慮しているようにしか見えない。「日医」は何をしているのか?年間10万円以上の会費を納めているのに。
 「日医」は政府案とは真っ向から対立して「5%の引き上げ」を要求しているとの事。そうだ!ものによっては下げてもいいが、ものによっては10%くらいあげてもいいのではないか、と現場の医療職側に立つ私は考えてしまう。
 日本国は今や多額の国債による借金国。これは社会保障費のために使われたのであろうか?違うでしょう。税金の無駄遣い、天下り官僚の目玉が飛び出るような給与や退職金、誰も使わないのにものすごく豪勢な郵政関係の保養施設、、、などなど数え上げれば切りがない。
 国民が一律に痛みを伴う、と唱っている。国民の医療費自己負担もあげられる計画である。だから医療側の負担として、医者の技術料をメインに診療報酬の引き下げはやむを得ない、というのが政府の見解らしい。それなら、国会議員の不当とも言える年金をあらためるように、その人が(ゴルフなんかして)そこにいなくても会社組織が成り立つような遊んでいる天下り職員のいる全国にた〜〜〜〜っくさんある政府・官僚に密接な○○関連組織を大改革していますか?彼らの既得権を守るための抵抗に負けていませんか?
 毎日の診療に忙しすぎて表立って文句も言わず、「仕方ネェな〜」とか「やってられないね〜」と愚痴をこぼしながら、患者の前では笑顔で「接客」と言われている勤務医の声など届くわけないですものね。何でも先の中医協の汚職絡みで、診療報酬(点数)は政府が決める、という事に変わったらしいので、いくら「日医」が「あげろ!」と言ったところで、『4%引き下げ』は間違いなく断行されるんじゃないですかね。なんでもっと金儲けてるところから取らないんだろう?公的病院だって、職員をギリギリの数で運営し、常備する薬剤の数を減らし、ベッド稼働率を上げるためもっと患者さんを入院させましょう、とか会議しているところも少なくなく、それでも「赤字経営」でヒーヒー言っているのに、そういう公的病院などの機関を更に苦しめるような制度を押し進めるのはなぜでしょう?
 「策」が乏しい、と思うのは私だけでしょうか。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005.11.27

音楽の意味

 大それた事を書くつもりはありません。
 『音楽』とは何ぞや?などと真剣に考えだすと、哲学になってしまいます。特に、器楽演奏や歌唱は、「瞬間芸」と言われ、基本的には絵画のように後に残ることのない、演奏された瞬間に消えるものです。踊りも同様ですね。
 しかし、消えた後に、それを聴いた人の心に残るものであり、残ったものがその人の気持ちを高めたり鎮めたり癒したり、大袈裟に言うと生きる気持ちを変えたりもします。『音楽療法』という言葉があり、学会があり、専門に研究する人がいて、実践されているのも事実です。私も脳の専門家の端くれでかつ音楽を愛する者の一人として非常に興味のある分野です。そこには「こころ=脳?」、「精神=脳?」という大きな未解決で未知な問題が横たわっています。
 さて、一昨日、テレビをつけたらたまたま越路吹雪さんの伝記的ドラマをやっていました。親友としてまたマネージャー的な働きで活躍した岩谷時子さんの事がかなり大きく取り上げられていました。岩谷さんの名前は、作詞家としては知ってはいましたが、歌謡曲をあまり聴かない私は詳しくは知りませんでした。越路吹雪さんの活躍にあれほど深くかかわり、エディット・ピアフの歌を『愛の讃歌』として訳詞したのも岩谷さんだという事を実は初めて知りました。ちょっと調べてみたら、ザ・ピーナッツ、加山雄三、坂本九、島倉千代子、郷ひろみ、などなど数えきれないぐらいのヒット曲を創り出していた人なのでした。酒田市民会館「希望ホール」の名の由来になった、酒田出身の歌手岸洋子さんのヒット曲『夜明けのうた』も岩谷さんの作詞です。なんて凄い人なのでしょう!(今頃、知った私が愚かなだけかな、、、)
 歌には、メロディーと歌詞があり、セットで「音楽」です。美しいメロディーに心和むだけではなく、やはり歌詞の持つ力は大きい。岩谷さんの書いた詞や訳詞で今までどれだけの人が勇気づけられたり元気づけられたり慰められたりしたのでしょう。まさに、偉大な音楽家、芸術家と言ってさしつかえない人だと思います。
 私が、岩谷時子という名前を鮮明に覚えているのは、先日亡くなられた本田美奈子さんの歌によってです。
38年という短い生涯に14枚ものアルバムを出した彼女ですが、あの『つばさ』という曲は丁度真ん中頃の8枚目のアルバム『JUNCTION』に登場以降、何枚かに収録されています。1994年発表の曲なので10年以上経った曲なのです。先日の『題名のない音楽会』の追悼特集番組でも「岩谷時子の世界」の収録が放映されていて、あの30秒近いノンブレスの絶唱『つばさ』から始まっていたのは印象的でした(関係ない話しですが、山形新幹線の名称は『つばさ』です)。
 その曲の作詞家が岩谷時子という名前だけは頭の中にあったのですが、それが上記のような名だたる歌手には繋がらずにいたのです。それを今回の越路吹雪さんのドラマで知る事が出来、「越路吹雪さんのようになるんだ!」と夢を語っていながら夭折した本田美奈子さんの事を思わずにはいられませんでした。彼女のCDは今注文が殺到して在庫が切れ入手困難なのだそうです。亡くなられてから、というのは残念です。2年前に出していたアルバム『Ave Maria』の全14曲中、岩谷さんの作詞、訳詞が半分の7曲あります。訳なしや原曲日本語やその他が6曲あって、残り1曲は唯一本田美奈子さん自身による作詞でした。それが『タイスの瞑想曲』。
 3週間前に亡くなられた本田美奈子さんを、越路吹雪さんのドラマで強く思い出し、あらためて哀悼の意を捧げ、本日の音ブログはその『タイスの瞑想曲』にしました。
 昨日の昼間、これもたまたまテレビを観たら『フジ子・ヘミングの軌跡』というドラマ(多分再放送)をやっていました。話しは知っていましたが、思わず引き込まれて食事もとらずに最後まで観てしまいました。その中で、苦労ばかりしていて陽の目を見ていなかった彼女が、病院の中か協会かどこかで、精神的ショックで失明した上に心を閉ざして無反応になっていた老人がたまたま自分の弾いたピアノを聴いて涙を流して感動した姿を見て、「富や名声のためではなく、たった一人でもいいから誰かの心に響く音楽を奏でよう」(言葉は私の記憶に基づきます)と思った瞬間が描かれていました。彼女の弾くピアノの音が、その「心を閉ざした」老人の心の中に入って行ってかけられたままの鍵を外し凍ったままの氷を溶かして、「感じる」「感動する」という心の動きを取り戻させたのです。
まさにこれが「音楽とは?」という命題への答えのような気がしました。
 私は、個人の趣味として、好きだから音楽をそれなりに真剣にやっています。でもプロとは違います。これで飯を喰っている訳ではないし責任がありません。そう、無責任な音楽、です。でも、聴く人の心に届くような音楽をやりたいと思っています。それですぐに『音楽療法』という、短絡的な考え方はしたくありません。誰か、という特定の人がいなくても、人の心を動かせる演奏をしたいと思っています。

 昨日の『伝国の杜』でのフルートリサイタル。素敵でした。プロですからテクニックは私なぞとは大違い。フォーレのファンタジーやタッファネルの「魔弾の射手」幻想曲などでは、「なんであんなに速く指が回るんだろう?(なんでって、そりゃ努力してるからだよね)」と思いながら聴いていました。「クラシック・りサイタル・シリーズ」といって、地元出身の若手音楽家を発掘し育てる事も目的の一つの演奏会でした。これまでに、ピアノ、バイオリンといずれも置賜地区出身の若い女性の音楽家の演奏が催され、昨日の宮川さんで3回目。考えると、日本は世界に誇るフルート王国(?)で、毎年凄い数の「器楽科フルート専攻」卒業生が出ています。そんな中で、たとえ実力があって人の心に届くような演奏が出来る人でも、「演奏だけでご飯が食べられる」音楽家はほんの一握り、というかほとんどいません。プロオケの団員になって定期的な仕事があって(低いけれど)安定したサラリーがあるか、音楽教室を開いてまたはフルート教室の教師になってある程度約束された収入を得るか、大学の教員(講師または非常勤講師)になるか、です。コンクールを目指しても、そんなにコンクールの数がある訳でもなく、年齢制限もあるし、書類選考から始まりなかなか厳しい狭い門のようです。コンクールで優勝でもすれば注目を浴び、CDデビューやリサイタルの話しが「向こう」から来る場合もあるようですが、ほとんどの場合、かなり有名な演奏家でも、リサイタルは自分でマネージメントからしなくてはなりません。時間とお金がかなりかかるようで「黒字」になんてならないようです。
 私の友人のプロオケフルーティストも10年程前には、隔年位のペースで3回程ソロリサイタルを開いていましたが、その後は家庭を持ち子供が出来、時間とゆとりとお金がなくなって、コンサートなんてできないようです。「お前は、(フルートを専攻したりせず)医者になって正解だよ!」と言われた事もあります。音楽というのは、純粋なレベルでは最初に書いたような、人の心を動かす芸術なのですが、「職業」とするとどうしても厄介な事になってしまわざるを得ません。昔の貴族社会のように王侯貴族や大商人などのパトロンがいて多額の寄付や援助でもしてくれない限りは、消費経済社会の中にある「ビジネス」の一つになってしまう訳です。そういう意味では、アマチュアの方が、より純粋に「音楽」を追求しやすい面がある事も否めないと思います。私の場合、音楽をすることで自分自身が一番癒されているのですけど。(^^

| | コメント (1) | トラックバック (3)

2005.11.26

フルートリサイタル

 先の日曜に定期演奏会を終えたばかりだが、今週のオケ練は休みではない!
ハンガリー行きを控えているためもある。しかし、私は今日は「さぼり」。さぼりというと聞こえが悪いが、米沢市の『伝国の杜』ホールで米沢市出身のフルート奏者宮川葉子さんのフルートリサイタルがあるので前々からこれを楽しみにしていた。
 ちなみに『伝国の杜』というホールは本格的な能舞台にも変わる特殊な装置を持っており、名前の由来は先日ブログに書いた、上杉家に因んでいる。名君鷹山公の『伝国の辞』というのが由来である。
ーー
 昨日の夜、テレビで「越路吹雪」の物語をやっていた。そこに出ていた岩谷時子さんの書いた詞はたくさんあるが、先日亡くなった本田美奈子さんの持ち歌『つばさ』も岩谷さんの作詞である。
 今日日中のテレビで、「ふじ子・ヘミング」の伝記的ドラマのスペシャル版をやっていた。
 故人となった越路吹雪さん、本田美奈子さんと、岩谷時子さん、ふじ子・ヘミングさんのことについては、明日書こうと考えている。

 さて、そろそろ出かけなくてはならない。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.11.25

デジカメ写真

 今回の定期演奏会で何枚か写真を撮った。そのデジカメに、埋もれたまま、まだパソコンにも取り込まれていない写真がいくつもあった。8月末から9月にかけて、いろいろな事が起きたため、パソコンへの取り込みをしていなかっただけの事。そんな写真からいくつか話題を取り上げる。
Guitartickets
 今日早速、8/27と8/29の記事に写真をつけた。主に「庄内国際ギターフェスティバル」の写真である。昨日の記事に載せた、タキシード姿とはまた違った作務衣姿のリラックスした福田さんの姿を見る事が出来る。福田さん、ギリア、鈴木、大萩そして村治の蒼々たるギタリストがサインをしたギターの写真も載せたので、興味のある方は、左側の「August 2005」というのをクリックして8月の中から8/27, 29の記事を見て頂きたい。左の写真は、そのフェスティバルのチケット。
SoGakuDo
 10/1付け転勤の話しを聞いた3日後には、三島で日本脳神経外科学会のオーケストラ団の夏季特別練習兼研究会が催されたので、それに出席する途上、丁度上野でやっていた『芸祭』(東京芸術大学学園祭?でいいのか?)に顔を出してみた。三島行きの新幹線の時間まで余裕がなかったので、最初から音楽学部の方だけ、キチンと演奏を聴く余裕もなく雰囲気を感じるくらいだろうと諦めてはいた。そんな中で、パーカッションのデモンストレーションがおもしろかった。GeiSai2
学生とはいえ、そこは流石の芸大生。非常にレベルの高いティンパニ、大太鼓、小太鼓、マリンバなどの演奏を楽しむ事が出来た。写真の女の子、確かな技術を披露してくれた上、はつらつとして可愛かった。(^^;;;
GeiSai1
笛科の屋台前も通ったが人が一杯だったのと学生の雰囲気に圧倒されたのと、一人で行って誰も知り合いもいなかったのでただ通り過ぎて来た。写真は、屋台前に簡易ステージを作ってオペラのアリアを歌う声楽家学生。
whirotomojpg
 9/20のクリスティアン・アルミンク指揮、新日本フィルの酒田公演(小澤幹雄MC、とよた真帆ナレーションで、チャイコの『クルミ割り人形』と交響曲第6番『悲愴』演奏)の時、フルートの荒川さんとその御家族とともに一緒に食事をする機会を持つ事が出来た。小沢征爾と新日の組み合せで来た、昨年の12月以来の再会であった。左はその席上での写真。荒川ファミリーを囲んで全部で10名という小宴会で楽しかった。
 引っ越し直前に横浜の両親が急遽遊びに来た。そこで庄内の旨いものを食わせるところを連れ回した。『アル・ケッチャーノ』というその名は東京にも知られたイタリアンにも行った(ここには6月の同級生庄内ツアーの時も連れて行き岩ガキや月山筍を始め、地の旬のものを堪能してもらった)。
Kagamiyama
同じ櫛引町内に、昭和の大横綱大鵬と共に一時代を築いた、横綱柏戸(元鏡山親方)の記念館があるので両親を連れて行った。小学生の頃、時々九州場所(当時そう読んでいたかどうかは怪しいが)に連れて行ってもらった。大人気の大鵬に比べて、華やかさは劣るものの地味な実力を持った柏戸が私の大のお気に入りだった。大人になって、まさかその出身地の近くに住んだり、実のお兄さんが握る地物の寿司を食べる事になるなんて考えもしなかった。東京の鏡山部屋の練習所が移築されたようなその記念館にはちゃんと相撲がとれる立派な土俵があった。左の写真である。
横綱柏戸記念館
http://www.tsuruokakanko.com/repo/m02.html

 明日は米沢出身のフルート奏者宮川さんの地元でのリサイタル。楽しみだ。
http://roo.to/perigee/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.11.24

充実感と、、、その3

昨日は『勤労感謝の日』。
最近とにかく出かけてばかりいたので、昨日は自宅でのんびり過ごす事にした。ネットにも触りたい誘惑を吹っ切り、読みかけてたまっている本数冊に目を通し、「音ログ」用の録音をして(本日、早速一曲アップしました)、今朝までまったく外に出ずに家の中に籠って過ごした。三食、家で食べたのは久しぶりだ(食と言っても朝はパンだけだが)。
ーー
 「充実感と、、、」のその後に続く言葉は、多少揺れている。「虚脱感」もある。「感激」もあった。「感謝」もある。様々な想いがあるので一つの言葉に絞れないので「、、、」にしてある。
 さて、いよいよ11/20(日)午後2時、開演のときがやって来た。12時半過ぎからホール入り口に人が並び始めた。森山某のチケットを求めた列ではない。「え〜?こんな早くから我々のコンサートに並んでくれてるんだ?!」と不思議な気持ちになった。中には福田さんの熱烈なファンもいらっしゃるのかも知れない。できるだけ前の方で、福田さんの演奏を、ということかもしれない。何でも県外から来てくださった方も居た由。
GP051120
 「希望ホール」は昨年出来たばかりの新しい音響のいいホールで、満席1300を越す(写真はゲネプロの様子)。来月のハロプロ+あややの公演や、上記森山直太郎のコンサートなら満席になるのであろう。一地方都市のアマチュアオケのチケットなどは、なかなか売れない。強いコネを持っている団員で一人50枚以上さばく人もいるが、去年20枚以上売った私も今年は直前に地元にいないので10枚を越すのがやっとだった。「席が半分埋まるか?」という悲観的な予想をしている団員もいた。
 いよいよ開演。一曲目のベルリオーズ作曲「ローマの謝肉祭」、私は降り板なので、タキシードのまま遠慮気味に3階席へ行ってみた。ぐるりと見渡すと7割近く埋まっているように見える(公式入場者数は800に満たなかったそうであるが)。ここのホールは天井が高く、2階3階席の方がオケの音が均一に聴こえる(逆に、固まって聴こえて来る感じでライブの臨場感に乏しいのでやはり1階がいい、という人もいる)。出だし、ちょっと皆怖がっているような、探っているような感じも受けたが、中間部のテンポが早くなった辺りから次第にノリノリ。いい演奏だった。10分足らずの曲であり、観客もまだ乗ってない感じは否めない。
 2曲目。いよいよマエストロ登場。
MaestroFukuda
「今日はフォーマルに決めてみました」と福田さん。かっこいい!(写真隣りカットされているのは私)
ギターリサイタルのときは、よく青いシャツで演奏されるが本日はタキシード。スピーカーなどのステージのセッティングもスムーズに終わった。スムーズ過ぎて、わたしはステージに遅れて出てしまった。ゲネプロの時は8分もかかったので、1st Vn.の椅子の移動やその他を素早く!と言われていたのだ。「5分くらいはかかるだろうから」と3階席から余裕でバックステージに来てみると、既にみんなステージにあがっている。3分位ではいったようだ。まだ、打楽器奏者が入っているタイミングだったので凄く遅れた訳ではないが、ちょっと失敗!
 福田さん、続いて工藤さんが登場。一瞬の静けさの後、福田さんのギターとコントラバスの通奏低音のような出だしで始まった。第一楽章、フルートからピッコロに持ち替えてすぐにオクターブの跳躍ばかりのスタカートでpの音の連続。フルートのアムブシュアとピッコロのそれではやはり違いがある。最初の第3レジスター(フルートの第4)のG(ソの音)が出ると少しホッとする。福田さんのぐいぐいとオケを引っ張るような情熱的な演奏に、我々も必死でついて行く。昨日のリハ、今朝のゲネプロ、そして本番と全て少しずつ違う弾き方をされている。Ad libという奴か!前半部のピッコロとオーボエが同じ旋律を刻むところで私の音一人になった。「あれ?」間違ったか?オーボエがなぜか2、3小節遅れて入る。おいおい、間違ってるよ。そのまま気づかずに2、3小節吹いている。1st flute奏者が「違うぞ!」と小声で伝える。オーボエ奏者も間違ったことに気づいてはいたのだろうがフレーズを途中で停めては、いかにも「間違った!」という感じなのでちょっと吹いて正しい小節に戻って来た。ホッとする。第一楽章中間の激しい部分にさしかかる。ここは、フルートとピッコロの持ち替えが忙しい上に、フルートもピッコロも第3レジスターのAやHという高音がある。1小節だけの休符の間にササッとピッコロに持ち替えて音も落とさずに出せた。少しホッとする。第一楽章終盤。ピッコロで早いアルペジオとまた跳躍。なんとかプスッとならずに音を出せた。再びフルートに持ち替えて、第3レジスターのHとAが連続する最後の部分。何とかできた。第一楽章終了。少しホッとした。
 さあ、第2楽章。今日はコールアングレ(イングリッシュホルン)の音程も素晴らしい!福田さんのギターソロとコールアングレの叙情的な旋律がゆっくり進んで行く。美しい。しかし、次第にドキドキ。2nd fluteが口火を切る、スピードの全くがらっと変わる中間部が近づく。指揮者の指揮棒の動きと楽譜に集中して休符を数え、構え、さあ、ここだ!急いで滑らないよう、音をクリアに、3連符の緊張感とスピード感を出せるように、そして続く人達に音楽を渡せるように。出来はよくわからないが上手く行ったような気がする。第2楽章、最後の弦の不協和音的な、宇宙空間を思わせるようなpppの音で終わる。
 第3楽章。Attacaではなく、ゆっくり待って入る。福田さん、昨日のリハの時のスピード。早いよ〜。中間部のピッコロは、素早いオクターブの跳躍によるフレーズが2回、短調と長調である。「調性を感じられるように吹いて」と練習の時に工藤さんに言われていたが、こんなに早いと音を落とさずに吹くので必死。出来は、今一。ちょっとプスってしまった。中間部、ピッコロはトリルでの3連符の連続。結構目立つ部分。なんとか上手く行ったようだ。そしてクライマックスを迎え美しく終わる。
 拍手、拍手。福田さんは、多分、3、4回カーテンコールあり花束贈呈ありで、ソリストによるソロのアンコールになった。8月の国際ギターフェスティバルで4本のギター(福田進一、村治佳織、鈴木大介、大萩康治、なんて贅沢なカルテット!)によって世界初演された『最上川舟歌による幻想曲』のソロ版を直前に考えてくださったようで、アコースティック・ギター一本での美しい響きを大ホール一杯に満たしてくださった。やんやの拍手。終わってしまうのが勿体ない。しかし、予定通り15分のintermission。
 さあ、後半、メインはブラームス作曲「交響曲第4番」。40分に及ぶ大曲である。1、2、3楽章と大きな穴もなく、進んで行く。オケ全員が魂を込めて演奏しているのがわかる。こういう感じというのは、上手い下手の問題ではなく観客にも伝わるはずである。個人的には3楽章のピッコロのところで、緊張で指が硬くなって回らなかった感じであるが、実際はどう聴こえたのだろう?少し不安。そして、ついに第4楽章。中間に有名なフルートのソロ、通称『大ソロ』と呼ばれるところがある。ここは1stの独壇場。私は1st奏者の緊張と気迫を隣で感じながら、「よし!頑張れ!」と心の中で念じるしかなかった。緊張した音ではあったが綺麗に演奏していた。自分の事のようにホッとした。
 そして、終楽章のクライマックス。全員渾身の演奏。ブラボーこそ聴かれなかったが、一段と拍手が大きかったように思ったのは気のせいだろうか。
 アンコールは、ブラームス作曲「ハンガリア舞曲」。私もノリノリで吹いた。そして終わった。
 今年の2月にファミリーコンサートをやって、その後から秋の定期へ向けて、おおよそ8ヶ月半の準備練習の上のコンサートが終わった。そこそこの演奏はできたかなという『充足感』はあるのであるが、「あ〜、終わっちゃった!」という虚無感というか虚脱感というか、心残りというか、そんな感じがまだ続いている。我々地方のアマオケは、皆いろんな仕事や家庭を持ち、練習時間の制約や人数の不足や運営資金の貧しさを何とか乗り越えてやっている。特に、うちのようなアマオケは、作曲家の三枝成章さんがいみじくも行ったように「存続している事が不思議なオケ」である。農業従事者の率も高く、台風など農作物に影響が出るときは当然集まりも悪い。私も急患で呼ばれたり、緊急手術をする合間を縫ってという感じでやってきた。10月からは片道2時間かかる遠方に転勤になって、でもそれまで7ヶ月やって来た事を無駄にしたくなくて、自分なりに頑張ったと思う。そういった諸々の思いが演奏につまるのである(実際、弾いている最中はそんな事を考えている余裕は全くないが)。
 終演後、市内のレストランで「懇親会兼打ち上げ」が行われた。マエストロ福田&工藤両氏もご出席。みんな演奏が終わってホッとして楽しい酒を飲んだ。席上、元N響ビオラ奏者で鶴岡市出身で現在東京に住んでいらっしゃるW先生からいろいろ為になる話しを聞いた。特に、強く印象に残っているのは、ブラ4のフルートの大ソロのところ。あれは、生涯で4つしか交響曲を書かなかったブラームスが、想いを寄せていたクララ・シューマンに自分の思いを伝えようか、伝えようか、伝えようか、いややめようとした部分なのだ、と。「言おうかな、言おうかな、、、やっぱりやめておこう」という感じでは確かにある。中年(50才前後だから壮年?)男の煮え切らない哀愁なのだ、と。すご〜くよくわかる解説だった。もし私がこの『大ソロ』を吹くチャンスがあったら、この日のW先生の言葉を噛み締めながら吹いてみたいものだ、と思った。
 プロのオケというのは、コンサートが毎週いくつもある。それが仕事なのだから当たり前といえばそれまでだが、週に2,3件あるときもある。明日帰国するチェコフィルなんかは、短期間に詰め込まれているため、移動日もいれて18日間に12公演もするのである。我々のように年に一回のコンサートで燃え尽きる(?)ようなわけには行かない。すぐに次の日の公演があるのである。そして疲れていても体調を崩していても、均質なクオリティの高い音楽を観客に届ける責務のようなものがある。もちろん体調など壊さないように「自己管理」するのも仕事のうち。なんだか地方巡業に駆け回る、プロ野球選手のような感じである。それがプロなのだ。
 昨夕、家でのんびりしていたら携帯が鳴った。チェコフィルの公演を聴きに行ったはずのオケ仲間からだった。出ると「ハ〜イ!○○」とロマン・ノボトニーの声。昨日は新宿のム○マ○ショップで何か仕事があったようだ。更に、夜にはファゴットのオンジェイにオーボエのヤナとも話しをする事が出来た。去年の今頃は彼らと西麻布で盛り上がったのだった。来年1月のハンガリー、チェコ旅行があるため今回私は見合わせたのだった。
 「プラハで会えるのを楽しみにしてるよ!」と彼らに言われ、私も同じ言葉を返した。
 それよりハンガリー演奏旅行の練習しなくっちゃ!(^^;;;

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.11.22

充実感と、、、その2

(前日より続きます)
11/19の月山新道の天気がどうだったか。「百聞は一見にしかず」です。
丁度、掟破りにも(?)同じ庄内地区で我々と同じ11/20昼間にコンサートをやった仙台フィル(こちらはれっきとしたプロです)のチューバ奏者のブログをご紹介します。たくさん写真があって面白いブログです。どうぞ、その日私が運転して、まずはラーメン屋「味龍」を目指した月山新道の雪を下記よりご覧ください。
http://tetsuya-tuba.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post_1a10.html
ーー
 さて、11/19の19時。空路会場入りした、マエストロが到着。ついに夢のような共演が実現。実は、10年前に我がアマオケは福田さんとアランフェスをやっているので二度目になる。当時のメンバーもまだ相当数残っている。「初めて〜」と言っているのは私以外はまだ20代から30代前半の若いメンバーが多い。しかも8月に『庄内国際ギターフェスティバル』の音楽監督として陣頭指揮を執られたし、そのプレコンサートと称して約一年前から数回に分けていらしたので、ギターフェスタのボランティアをやったオケ団員など顔なじみの者も多く、福田さんにとってもリラックスしてリハが行えたようであった。
(福田進一氏のブログに書かれています)
http://cadenza-f.seesaa.net/article/9555752.html
 ステージに福田さんが愛用する、マイクとスピーカーのセッティングがされた。「エクリプスTD」というもので、福田さんの公式web(http://www.cadenza-fukuda.com/)のNotesからもそのレポートが読める。
http://www.eclipse-td.com/report/special/fukuda/index.html
 アコースティック・ギターは音量が小さく、1300名超の大ホールにフルオーケストラバックでは聴こえづらい。それを補うためにスピーカーがよく使われるのだそうである。マエストロの両脇やや後方で、コンサートミストレスと指揮者の前という位置関係に、客席向けて置かれた小型のスピーカー(直径25cm位)から、後方に座る我々オケにも音が聴こえて来る。
『ジャンジャカジャン、ジャンジャカジャン、、、、』
ああ、、、、
もう最初の「ジャン」から魅了されてしまう。一週間前の松尾さんの音色も素敵だったが、なんというのだろう、福田さんの音には魔力がある。聴いた瞬間に魔法をかけられてしまうのだ。オケも福田さんと初合わせの緊張よりも、その魔法の力を持つ音楽に魅惑されてしまう。楽譜を追いながらも「音」にとらえられて少しウワノソラになったため、一カ所入りを落とした。「やばいやばい!本番では注意しよ〜」って感じである。幸い、その部分は、もう一度練習して頂けた。基本的には、福田さんのテンポなので指揮者の工藤さんはそれに合わせて振る。福田さんがちょっと気になったところを繰り返す。ファゴット、コールアングレ、そしてギターで同じようなフレーズを繰り返す部分のリズム、特に3連符について注文があった。音を受け渡していって最後のギターにつなげるように吹いて欲しい、ということ。とても勉強になる。今回、手に入れられず準備しなかったが、オケはやはりフルスコアを買ってちゃんと勉強しなければだめだ。
 第2楽章のコールアングレのソロをギターが伴奏する部分では、後ろを振り返りながら「誰が吹いてるの?」という顔をされ弾いていた。見知った顔がいると安心されたように笑顔を見せながら良いムードでリハはすすむ。第2楽章で、最初の哀愁漂うAdagioとはテンポも雰囲気もガラッと変わる中間部分の出だしは2nd flute。緊張した。スピード感や流れを私が壊してしまいかねない。焦って滑らないよう、7連続3連符によるスピードの変化を強調できるように、そしてオーボエ、1st fluteその他がその旋律、リズムを引き継いで行ってバ〜ン!と弾け、一瞬の静けさの後ギタ−のCadenzaになる。ちょっと遅かったか?指揮者も福田さんも何も注文つけないのでいいのかな〜?
 第3楽章。一転、早い。福田さんのスピードはこれまで練習した事のない早さ。「1,2,3,1,2,1,2,1,2,1,2,3,,」でどんどん進んで行く。ちょっと音が「プスッ」となったところもあったがトリル的な音の連続する中間部もなんとかこなせた。21時までの練習予定であったが、20時過ぎに終了!今更前日にたくさんやっても仕方がないということかな?福田さんにとって「アランフェス」はもう100回近くオケとやっているそうである。すばやく我々オケの癖のようなものもつかまれたのであろう。いや、ただ早く美味しいお酒がのみたかっただけかな?(^^
 というわけで、練習最終日、最終リハが終了し、福田さんと工藤さんを交えて食事に出かける事になった。ギターフェスタで活躍した、福田さんとはもはや旧知の仲(?)のメンバーやオケスタッフが中心であったが、私もそこに混ぜてもらった。昨日の『充実感と、、、その1』にも書いたように、その夜はオケメンバーの家に泊めてもらう事になっていたのだが、その人は楽団指揮者の一人でもあり福田さんとは永い付き合いがあり、彼の家に私の車で帰る事になっており、私も是非福田さんと一緒にお酒を飲みたかった。次の日があるので弾けられないけれど(車で帰るためウーロン茶で我慢した参加者が半分以上)、とても楽しい時間だった。福田さんはサービス精神の旺盛な方で、何か会話が途切れそうな雰囲気になると、率先して楽しい話題を提供してくださる。音楽家にありがちな、気難しさや近寄りがたさとは無縁の方である。だから、「ふつうのおっちゃん」と勘違いしてしまいがちになるが、単なる言葉面(づら)上のマエストロではなく本当に巨匠的な方であると思う。凡人が「気さく」と感じるその態度は、言葉を変えれば「オープン」なのである。なんにでも興味を持ち、好きな事は追求し、心を開いて誰でも何でも受け入れ、そして自分と音楽を磨いていかれているんだな〜と感じながらお話しを伺っていた。でも酔いが回るにつれ、「単なる酔っぱらいのおっちゃん的」発言もありますます親しみがわき、敬愛する心が芽生えた。ここには書けないような(?)楽しい話しもしてくださった。指揮の工藤さんも、「近寄りがたい」というよりは「親近感」の湧くタイプだけれど、そんなにペラペラおしゃべりをする方ではなく慎重に考えて話しをするタイプのように勝手に思っているのだけれど、この日は福田さんの隣でとてもニコニコして楽しそうであった。いつもよりも饒舌な感じもした(参加者がみんな見知った顔の仲間であるからでもあり、酒田生まれの工藤さんにとって故郷の友でもあるからだろうが)。あっという間に楽しい時間が過ぎて、「まあ、明日がありますから、、、」とその日は23時前に帰った。
 帰りは、私のために酒も飲まずに我慢してくれたオケメンバーが私の車を運転してくれて、風の町、風車の町まで帰った。すぐに床につけばいいのだけれど、明日の本番を控えて少々高ぶる気持ちもあるし、楽しく飲んで来た余韻も残る。少し飲みながら、一年も立ってようやく出来上がって来た去年の定期演奏会のDVDをみたりした。
「シャブリエの出だしってどんなんだっけ?」「?、、、」
という感じで、もう忘れている。曲が始まると、「ああ、そうだそうだ!」って。大丈夫かな?こんなに忘れやすくて。
 このブログは今年の1月に始めたので、昨年の定期については触れていない。昨年のソリストは、バイオリンの漆原啓子さん。この方も、我がオケとは数回の共演をなさっている。オケメンバーの中には携帯の番号を知っている者も複数名いて、ある時、何かの演奏会の打ち上げの流れで溜まり場の喫茶店「山茶花」でビールかコーヒーを飲んでいたら、「ちょっと啓子さんに電話してみよう」とか酔っぱらった勢いで言い出して、面識の乏しい(というか、定期で彼女が演奏されたラロのスペイン交響曲(バイオリン協奏曲)でピッコロを吹いたというだけの関係)わたしも電話に出された事がある。
私:「あ、こんばんは、なんだか夜分にすみません。○○さんに電話にでなさいと言われたもので」(ああ、なさけない会話内容)
漆原さん:「いえいえ、私、○○フィルの皆さん、☆だ〜い好き☆なんですよ!」?
私:「ありがとうございます。それじゃ、益々のご活躍をお祈りしております」(おいおい、なんだよ、この会話、、、)
 私が漆原さんに関して昨年の定期でよく覚えているのは、ラロが終わってアンコール曲をソロで弾かれた時、途中の高音がそのストラディバリから放たれた矢の様にホールの3階席の一番奥の奥に「ピュ〜ン」と飛んで行ったように「見えた」事が一つ。もう一つは、終演後の懇親会の席上、バイオリンを会場に持って来られなかったようなので、「あれ?漆原さん、ストラドは?」と聞くと「あら、ホテルの部屋に置いて来たわよ。」とあっけらかんと仰るのである。なんでも持って来ると邪魔になるし、ベッドの上にポ〜ンと置いて来たというのだ。時価2億円以上すると言われる名器ストラドを、である。
 こういうレベルの人にとって、楽器は、もちろん大事ではあるがあくまで自分を表現する「道具」なのだろう。何億円だとか、そういう金額的な価値はあまり感じていらっしゃらないのかも知れない。もし、数万円の楽器の方がいい音がするなら(そんな事はない訳だが)、そちらを選ばれるのであろう。
 さて、話しが脱線しすぎた。明日(11/20)は10時音出しだから9時半頃に会場に行きましょう、という事になって私は寝床をお借りした。(その団員のブログです、http://tabinooyazi.blog28.fc2.com/)
 一宿一飯の恩義は小さなものではないが、一つの目的が御家族の一人を見舞うというか診察すると言うか顔を見ることであった。翌朝、7時半過ぎに目覚めるともう皆起きていた。私が起きて来るのを待っていてくれたらしい。外来で会って2ヶ月半から3ヶ月ぶりくらいであろうか。なんでも近所の人も、手術した医者がその人の家に泊まりに来るというので、前の日夜に遊びに来ていたそうである。物珍しいのかな?医学的にも行政的にも「高齢者」という範疇に入ってしまうので多少足下がフラフラはしていたが顔つきというか表情と言うか目の光がしっかりしていたので私の方が安心した。家人(=オケメンバー)に「あまり大事にしすぎないように、適当に外に連れ出したりボンヤリさせずに刺激を与えてください」とお願いした。
 9時過ぎ、別れを惜しみつつその家をお暇した。
 さあ、本番前のゲネプロだ。天気はよくないし、仙台フィルは来ているし、前売りチケットは売れていないし、客席が半分埋まるのだろうか?という皆の不安もあったが、この際もうどうしようもない。予定通り10時からゲネプロが始まった。福田さんの「アランフェス」は2曲目。1曲目と2曲目の間にソリストの椅子や譜面台、そしてスピーカーのセッティングがある。ソリスティックな部分やカデンツァでは昨日のリハとはまた違った弾き方やフレーズの組み立てをされる。二度と同じ事はやらない、という感じである。無事に協奏曲が終わり、メインのブラームス。これも最終的な確認と指揮者からの「ここは」という注文位でスムーズに終わり、丁度お昼過ぎ。午後2時の開演まで昼食と休憩となった。
 本番の事とその後の打ち上げの話しはまた明日、ということで続きます。

 そうそう、この日の10時過ぎに、綺麗な花とメッセージカードが楽屋の私宛に届けられた。そのカードを見て
「あ!T君だ!」と小さな叫びを発した私に、届けてくれた人がまだその辺にいるかもしれませんよ、というので玄関に走った。そこには大勢の人が並んでいて、その患者さんの姿を見いだせない。車いすに乗ってお母さんと一緒のはずだ。見渡してもそんな人はいない。ホールを飛び出し探すと、丁度車いすをバンに積み込むお母さんの姿が見えた。駆け寄るとT君が満面の笑顔で出迎えてくれた。T君は、当時中学2年生だった一年と1ヶ月程前、自転車に乗っていて車に10m以上跳ね飛ばされて私の居た病院に緊急搬入されて来た。CTでは脳挫傷はあるがそれほど出血量は多くなく全体的に腫れている。いわゆる『瀰漫性軸索損傷』diffuse axonal injuryという状態で、ほぼ昏睡であった。瞳孔も開いていた。挿管して人工呼吸器で補助し大量の抗浮腫剤を点滴して全身管理をし、呼吸器がすぐに離脱できないようであったので気管切開をして治療をした。両親には「助けられないかも知れない。助かっても大きな後遺症を残して、生きているだけの植物状態かも知れない。」という説明をしたくらいであった。
 時間はかかったが驚異的な回復をして、自分でご飯を食べ、車いすで生活できるくらいにまでなった。しかし、頭部外傷とともに頸椎骨折、気管外傷があったため、気管切開部を耳鼻咽喉科に依頼しても閉鎖する事が出来ずまだチューブがはいったままである。中学生としての学習と治療が両方受けられるところを探して山形市内の病院に今年の夏休み明けから転院/転校したのだった。筆談などで、転院する前に私のフルートを聴かせるという約束をしていたのだが、それを果たせないでいて更に私が転勤になってしまった。でも彼の親が私の出るコンサートの事を覚えていて聴きに来てくれる事になったのであるが、T君の兄弟の都合でその日の午後はどうしてもコンサートに来れないということで、わざわざ午前中にお花とメッセージを届けてくれたのだ。彼を捜しに出た時に私は手にピッコロを持っていてそのまま走ったので、バンの後部座席に座る彼を見つけた時ピッコロを持ったままであった。声を発する事の出来ないT君は無音で大声で笑った。握手をした。そしてピッコロの音を少しだけ聴かせた。来年は本当に聴きに来てね!と約束して別れた。元気そうで良かった。新しい学校で困っていないか心配だったがうまく適合しているようだ。気管損傷部が治って声で話しが出来るようになってもらいたい。脳挫傷の後遺症は皆無ではないが、学校の勉強(小学校程度らしいが)もできるようになっている。カードには小学校低学年か幼稚園生のような文字と内容でメッセージが綴られていたが、一生懸命書いてくれたのだと思うととても嬉しくて勇気づけられた。 
 ちなみに、彼を捜しに出た時にホール入り口にたくさんの人が並んでいたのは、我々の演奏会を聴きに来たのではなく、その日そのホールで発売になった森山直太郎のチケットを求めての長蛇の列だったらしい。
 ということで続きは明日以降。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005.11.21

充実感と、、、その1

 昨日、オケの定期演奏会が終わった。ここに報告するということは「成功だった」と自ら思っている訳か。。。
 金曜の夕方から昨日の夜にかけていろんなことがあり、いくつも記事が書けそうだ。順を追って少しずつ書いて行く事にする(もしかすると本当に数日にわけるかも)。
ーー
11/18(金)、仕事を夕方前に切り上げさせてもらった。どうも雲行きが怪しい、というより確実に山は雪のようである。ノーマルタイヤをスタッドレスに履き替える。普段の夏タイヤは後輪が245mmもあるので荒々しい運転をしていると勘違いされそうである。スタッドレスは195mmでR16なので極めてノーマルな乗り心地に戻る。カーブでちょっとフニャフニャする感じは否めない。
 そして午後4時30分頃こちらを出発。二日分の着替え、タキシード、蝶ネクタイなどの小物、ステージ用の靴、もちろん大切な楽器、楽譜、譜面台、フルート&ピッコロ立て、その他。。。高速道路が月山道路に繋がる辺りにさしかかると雪がちらついており路面は軽いシャーベット状になっている。ナビの画面には「チェーン規制」の文字。そして月山新道に入ると路面に圧雪!無謀にもノーマルタイヤのままの車(予測していなかっただけか?)が時速30km以下でトロトロ走っている。それを横目にくねくねした山岳道路を登って行くとミニバンと普通乗用車の衝突した事故!すでに警察も来ていたので事故直後ではないらしい。最初の2km近い長いトンネルの手前の『チェーン装着所』という路肩に数台の車が停まって立ち往生状態。こちらはそんな方々に親切にしている時間的余裕がない。練習前にお腹いっぱいにすると管楽器は演奏がしづらくなるので、コンビニのおにぎりを二個食べながらお茶を飲みながらスピードを出さないようにのんびり運転し、18:45に市民会館に到着。練習開始は19時である。本番2日前だし、さすがに今日は集まりがいいか、と思ったら、なんと管楽器はまあ9割ぐらいの出席なのに対し、弦の少ない事。特に2nd Vn.は2、3人しか来ていない!
 楽団指揮者の指揮でブラームスの4番の第一楽章から始める。我々の世界で「したぶり」という言葉がある。本番の指揮者が客演の場合、楽団の指揮者が練習指揮を務める訳である。本番の指揮者には本番の指揮者の考えがあるから、「したぶり」は演奏の指導と言っても「表現的な事」よりも「縦を合わせる」といって、複数楽器のある小節での入りやリズムやたとえば3連符があればその音を合わせる事に重点をおくものである。表情の付け方であるとか、「ここはfでも抑えめに」と言ったとしても本番の指揮者がagitatoにといえば全く違う訳である。「音を飛ばすように」と楽団指揮者が言っていたところも客演指揮の工藤さんは「重い音で」と「表現された」。質の違うことだから、全く正反対という訳ではないが演奏するこちらは多少、いやかなり考え方や捉え方が変わる。
 楽譜というものは作曲家の意志がそこに現されている訳であるが、たいていは必要最低限のことばかりであとは演奏者がどのように作曲家の意図を汲み取りその上で自分なりに解釈して表現するか、ということになる。決してそんな「めんどくさい」「かしこまった」ことではなく、結局人間の「心」の解釈と表現の問題である。だからこそ、洋の東西や過去現在を問わず、同じ曲が何千回、何万回と演奏され、違う奏者によって何度も演奏されても飽きがこない訳である。
 私は指揮をした事がないし指揮法も勉強していないので勝手な解釈かも知れないが、「したぶり」はpやfやcrescendoやrit.などの表現記号に注意してそれをまず忠実に演奏するような下地を作るものだと思う。特に、音程には神経質になるべきであろう。うちの楽団指揮者も、いくつかの楽器を抽出して楽譜を分解するように音程のチェックを注意していた。アマチュアオケはたいてい音程が悪い。音程をとる訓練が出来ていないのとアンサンブルの経験が少ないのと自分に必死で回りを聞いている余裕がないのと、その他いろいろだ。私は全部あてはまる。それでも、最低フルート同士で音がずれないように、と心がける。1stが少し音がうわずっていても、「俺は知らね!」と自分だけ弦に合わせて「正しい」といって吹いたりすると、フルート2本でのアンサンブルが崩れてしまい結局オケ全体のアンサンブルが壊れてしまいかねない。だから自分の能力の及ぶ範囲で2ndである私は1stに合わせるよう努力した。残念ながら「絶対音感」のない私であるが「相対音感」はそこそこある(はず?)。いくつかの部分を最終チェックをするように4楽章までたっぷり時間をかけて練習した。なによりも普段は狭い練習室(50人も入るとギリギリで椅子と椅子の間も通りにくいような場所)とか響きのない研修室みたいなところでやって来て、本番2日前に初めて残響1.9秒のホールである。フルートパートのリーダーからは「金曜日は無理して練習に来なくてもいいですよ」と言われていたが、自分で自分の音の響きや他の楽器の響きを確認しておきたかった。ホールの真後ろの壁(反響板)の影響で、打楽器や金管の音がガンガン聴こえる。はっきり言ってうるさい。弦の音が聞こえにくい。数が少ないせいもあるが、ホールの客席の方に飛んで行くので後ろに座る我々には聴こえにくい。響きを作るように吹いていると、休符の部分まで音がかぶって来てぼやけてしまう。バチッと切るべきところは切らないと行けない。タンギング、アクセント、伸ばし、全て一から見直す必要があるくらいである。
 そうして2時間の予定の前々日練習(初の本番ホールでの)のうち、1時間40分がブラームスに費やされた。続いて、序曲のベルリオーズであるがこれはブラームスとは全く別の二人がフルートのノリ番(うちは4人いるので分担している)。そこで私は片付けに入り、練習を聞かずに早々に会場を後にした。夜遅くなればなるほど帰り道が危険だからである。でも片付けをしてコンビニによってお茶などを買っていたら結局21時過ぎになった。そこからまた1時間半から2時間の冬道の帰路である。月山新道には途中で動けなくなった(おそらく)夏タイヤの車が数台乗り捨ててあった。23時前に自宅に着いた。
 なんだかすぐに眠る気にはなれず、買ったばかりの「ハウルの動く城」を見た。この主題曲の『世界の約束』は私の音ブログでもお気に入りの曲で、自分の演奏にもまあまあ満足していたが、残念ながら当然JASRAC管理楽曲であったために削除したものである。iTunesに入っているので、今、久しぶりに「世界の、、、」を聴きながら書いている。
『あ〜、いい演奏だ〜』(完全なる自己陶酔の世界、医学的には自己愛型人格障害と表現できよう)
映画自体は、有名タレントを吹き替えに起用したり宣伝にお金をかけた割には薄かったような気がする。原作があるのだから、なにも宮崎氏やジブリのせいではないだろうが脚本がどうだったのだろう?個人的には、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」のほうがもっとメッセージ性を感じるし内容が濃いというか観終わって興奮するような感じだった。絵はすごく綺麗である。あの草原や湖や山々などはまるでビデオで撮ったのではと思うくらいに質感の高い手のかかった映像であった。おかげで冷静に床につくことができた。
ーー
11/19(土)、いよいよ最終練習日。午後二時から客演指揮の工藤俊幸氏による最後のリハ。夕方にはソリストの巨匠福田進一さんも入られる。
 午前中はまず車にガソリンを満タンにし買物に出かける。明日の朝が早いので今晩練習終了後はオケの仲間の家に泊めてもらう事になっているのでささやかなお土産を選ぶ。実は、これには前々からの約束があって、そのオケ仲間の御家族を私が執刀した経緯があり、幸い後遺症もなく自宅退院されたその家族の方が私が来るのを楽しみにしている、という事であった(オケ仲間の人には迷惑だったかも?)。(^^
 今、来日中のチェコフィルのフルート奏者であるロマン・ノボトニーに9月待望の女の赤ちゃんが生まれた。来年の1月にスークホールでのコンサートに招待されている事であるし、是非赤ちゃんへのプレゼントを渡したいと考えた。11/7から来ていて、11/22が前橋、24が所沢で25日には帰国する。私も行きたかったが20日の定期演奏会直後にまた休みを取る事もできず、オケ仲間の数名が前橋に聴きに行くので彼らにプレゼントを託す事にしたのだ。ある人のアドバイスもあって、私の頭の中には生後3〜6ヶ月の女の赤ちゃんが着る『キティーちゃんのカバーオール』とイメージが出来上がっていた。ところが私が行ったデパートになかっただけなのかわからないが、サイズ100以上とか2,3才児用の可愛らしい子供服はあるが赤ちゃん服はなかった。世界に誇る『サンリオ』のキティーちゃんと思っていたのに残念である。余談であるが、日本でミッフィーちゃんと呼ばれているオランダ人ディック・ブルーナのウサギちゃん「(ク)ナインチェ」のアムステルダムのお店、つまりミッフィーちゃんの本店のような所に行ったとき(あくまで世界脳神経外科学会への参加のついでです、教授と一緒に行ったのです)、可愛いと思って手に取った食器や小物の半分はMade in Japanのサンリオ製品であった!
 売り場のお姉さんにアドバイスをもらいながら(なんせ女の赤ちゃんにプレゼントを買うなんて生まれて初めての経験だし)、4人で共同購入するという予算も考えて決めたのは、な〜んにもキャラクターの絵柄などが書かれていない、全く無地の真っ白なフワフワのクマさんのぬいぐるみのようなフード付きのコート(オーバー?)であった。サイズ90であるが、半年未満の赤ちゃんでも全体的に(?)包めるはず。それにチェコは3月、4月になってもコートがいるくらい寒いはず。青緑の目をした金髪の(勝手にそう思っている)食べちゃいたいくらい笑顔の愛くるしい(奥さんの顔は知らないが、イケメンロマンの子供だからそうだ!とこれも勝手に想像している)チェコ人の女の子の赤ちゃん(チャフラフスカが赤ちゃんだったら可愛いと思うでしょ?)が、ふわっふわっの真っ白なコートに包まれて両親にだっこされている姿を想像して我が事のように嬉しく顔がにやけてしまった。演奏旅行中のロマンが海外旅行用の鞄に詰めやすいようにと、箱にいれず、そのコートにキティーちゃんの(この際、どうしてもキティーちゃんにこだわってみた)ハンドタオルとちっさな手袋に入ったキティー人形(クリスマスのオーナメントになるかも?と考えて)をつけてラッピングしてもらった。
 私の本家サイトの写真にあるように、丁度一年前は彼らの演奏をサントリーホールとよこはまみなとみらいホールに連日聴きに行き、西麻布の権○(某国首相が某国大統領を連れて行った事で有名になった)で会食したものだった。今年は日本では会えないが、来年早々プラハで会える。とても楽しみだ。
 そうやって買物を終えて、高速道に乗った。途中の月山新道や山の高速道路は圧雪やシャーベット状の路面で、まだ夏タイヤの車が立ち往生していたり、昨日諦めて乗り捨てて行った車が数台停まっていてその屋根には20cm位の雪が積もっていた。極めて安全運転(?)で午後1時15分に高速道路インターを降り、まずはラーメン屋『味龍』を目指した。酒田には「月系」ラーメンといって、屋号に「月」の字の着いた店が有名である。自家製麺と煮干し系の和風だし汁的スープが酒田ラーメンの特徴らしい。でも、私にとってそれら超有名店は(もちろんまずくはないのだが)並んで待って食べようと思う程凄いとは思わなかった。しかし、町外れの住宅街の目立たないところにあるこの『味龍』という店がすごかった。初めて行った時、私は知らずに入ったのだが、結構お客さんが一杯いて「ほ〜、期待できるのかな?」と半信半疑。お店の水のサーバー(客がセルフでコップに水を注ぐ器械)の下に何かの記事の切り抜きのコピーがおかれていたのでそれを読むと、あの「ラーメンの鬼」としてテレビに良く出て来る佐○某氏が、酒田のラーメンを食べに来て『味龍』でスープ、麺、そしてチャーシューすべてに感動したというような話しが書いてあった。麺はやはり自家製面。スープは、酒田ラーメンからはかなり外れる、少しトロッとした「正調」醤油ラーメン。チャーシューは庄内が誇る豚、三元豚のバラを使っているのだ。一回しか食べた事がないが、手に入ったときは桃園豚でチャーシューを作る。こんなチャーシュー今まで食べた事ないよ、というくらい味がある。それ以来、私はこの店のファンになった。まずはそのお店で軽く「普通の」ラーメンを食べて(550円だったかな?)やおら会場を目指した。予定通り1350着。
 さすがに今日は集まりが良く、ほとんど揃っている。まずはブラームスから始まった。
 会場はもちろん全部空席であるが、今日は弦が多い。第一バイオリンで5プルト半いる。しかもトラに一部プロが混じっているため(地方のアマオケなんてこんなもんです、自前のメンバーだけで70〜80の大編成オケなど無理というもの)端(下手)の方から何とも言えないいい音色が聴こえてくる。純正のメンバーには悪いが、トラが加わって弦のパートの厚みと美しさと音程の正しさが出て来た。すると面白い事に、管も昨日とは変わったように音程が安定する。
 これは皆がホール2日目でホールの響きや空間に慣れて来た事もあると思うが、聴こえて来る弦の音が音程正しく美しいので管も寄り添いやすくなるのである。降り板のベルリオーズの練習の時には、会場のあちこち(一階の真ん中や後ろ、二回の真ん中や一番後ろやバルコニー席など)に移動して聴いてみた。オケの音の響きもわかる。自分でどういう吹き方をすれば綺麗に聴こえるだろうか、ということも少しは想像できた。午後2時から休憩を入れながらまずブラ4の練習を2時間半程。工藤さんからは弦への注文は多かったが、管には少なかったような(注意しても直らないと諦めていたのか、ある程度で我慢されていたのか)。もちろん手を抜かれている訳ではないが、本気で注文をすれば注文したいところはヤマほどあるはず。プロの指揮者なのだから、プロの演奏家にだって厳しいはず。アマオケの我々に対する指導も、噛んで含むようにていねいに指導して頂いた。ブラ4の4楽章の「大ソロ」として有名な、あのフルートのソロのところでは、トップを吹く奏者に(わたしではない)「ここは、ブラームスが、言うぞ、言うぞ、言いますよ、という所ではなく、『言わないよ、言わないよ、やっぱり言わない』という感じなんです。わかりますか?」「あなたの演奏は健康的すぎるのです」というような表現をされた。私にはこれがなぜかよくわかった。大人の男の哀愁が漂わないとブラ4の大ソロは吹けないのかもしれない。
 さて、相当長くなったので、前日最終リハの目玉、福田進一氏との初合わせの話しは明日に持ち越します。(^^;;;

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005.11.18

あと2日

 オケの定期演奏会は明後日11/20(日)です。
 今晩は、本番の大ホールで初のリハ、明日は最終リハでソリストの福田進一さん入りで初めての合わせ。そして
明後日の朝から、ゲネプロで午後2時開演の本番を迎えます。
 今となってはもう遅いですが、「あ〜、個人練習が足らなかったな〜」と少し後悔、「まあ、こういう仕事をしながら、転勤も加わってよくやった方なんじゃない?」とすぐ自分に甘い面が出て来る。
 ちょっとぐずついた天気模様で、月山越えは夜間雪まじりになる恐れもあるので、今日これからスタッドレスに交換する予定。上司にお願いして、今日の夜から日曜の夜まで完全にフリーにしていただいた(この代償はどこかで帰って来る訳であるが)。昨夜は当番で、夜中の2時に救急外来に呼ばれた急患は慢性硬膜下血腫だったので、先ほど一時間足らずで手術は無事終了。脳塞栓症で入院後一週間して別の場所に脳塞栓症がポンポンと起こったため具合が悪くなっている方が心配。脳塞栓症急性期では抗凝固療法や抗血小板療法は禁忌であり脳保護剤と抗脳浮腫剤と点滴で経過をみて良くなっていたのに、一昨日から別の血管の梗塞が増えている。
ーー
 というわけで、おそらく11/21(月)までこのブログは2日ちょっとお休みするかも、です(携帯からもアップできますが演奏会集中モードに自分を追い込みますので)。
 演奏会の報告は、結果が良かったら(笑)するかもしれません。

(再度今回のプログラムを)
開演11/20(日)、午後2時
1:ベルリオーズ作曲「ローマの謝肉祭」
2:ロドリーゴ作曲「アランフェス協奏曲」
    ギターソロ 福田進一
3:ブラームス作曲「交響曲第4番」
  指揮;工藤俊幸(山形交響楽団指揮者)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.11.17

地元紙のすすめ

 新聞を取らなくなってからしばらくになる。職場で新聞が読める上、ネットで情報はいくらでも入るし、結構テレビのニュースは(緊急手術で遅くでもならない限り)ほぼ毎日観ているので全く困らない。
 最近は、全国紙はパラパラっと目を通し、地元紙の朝刊だけでなく夕刊をわりときちんと見ている。全国紙のニュースは、インターネットで十分に取り上げられており重要なものはテレビで必ず報道する。一方、地元のニュースは地元対象のテレビニュースを見逃すとほとんどわからないが、地元紙を読めばおおよそわかる。インターネットがあれば辞書を使わずに言葉を調べる事も出来てしまうし、Googleなんかでは四則演算も「検索語」の枠に放り込むと結果が帰って来るのである。
 これだけネット社会が発達すると、田舎に住んでいても情報過多となり、氾濫する情報をどこまで信じていいのか、どのように取捨選択するのか、情報を受け取るそれぞれの情報処理能力が問われる訳で、まるでインターネットから知的能力や判断力を試されているようである。
ーー
 昨日の地元紙夕刊に、特別記事としてピアニストの中村紘子さんのことが書かれていた。昨年、デビュー45周年を迎え、ますます活躍されている既に巨匠の域にある人だ。私が高校生か浪人中の頃、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の著者庄司薫が中村紘子と結婚したと知って、どちらも好きだった私としてはなぜか凄く失望した覚えがある。余談だが、庄司薫氏は当時としては東大に一番入る高校で超名門の都立日比谷高校出身で、私の母校は「我が校は『東北の日比谷高校』との評判がある」というような文言がある『青葉繁れる』の舞台、その著者の井上ひさし氏と同じ高校である。そういう関係で、作家としてその文体が好きで憧れながら、勝手に「ライバル」として日比谷高校や庄司薫氏を意識していた面もある。
 その中村紘子さんの言葉のいくつかが非常にぐさりと来たのでここに勝手に引用させて頂く。曰く
・「コンクールの審査員などしていて感じる事は、世界的に逸材というのはそんなにいないものだ」
・「音楽高校や音楽大学にはいってから鍛えても『優秀な素人』を育てる程度」
・「ショパンコンクールを単なる憧れで受ける人が多い」 
・「苦労してピアニストになるより他に楽しい事がたくさんある、、、『先進国症候群』に陥っている」
 彼女はピアニストだからピアノの事を中心に話されているのだと思うが、確かに一つ一つ「そうだな〜」と思わされる。『優秀な素人』という言葉は、ズブの素人である私からは「そうだ!」なんて言いにくいけれど、確かに世界中の音楽家の中で何らかの楽器のプロの奏者として活動している人達がたくさんいるけれど、その中の何人にお金を払って時間を使って仕事を早く終わらせてでも生の演奏を聴きに行こう!という気にさせる人がいるだろうか。
 プロの奏者は上手い。ひとつフルートの事をとっても、プロの奏者は上手である。まあ、プロなのだからそれが当たり前である。ただ、上手なだけならアマチュアにもたくさんいる。凄く早いパッセージが苦もなく指が回り、スラスラ弾いて(吹いて)しまう素人はたくさんいる。『熊ん蜂の飛行』のフルート編は、素早く吹くと1分以内で吹けるらしい(私には無理である)。それができてしまう「素人」だっている。『優秀な素人』と『本物のプロ』の違いはどこにあるのだろう?
 古い時代の人間と言われてしまうのかも知れないが、彼女は、今の時代、いろんな情報に振り回されて「全身全霊を打ち込んで」音楽に、ピアノに向かう人が少ない、と嘆いているのかも知れない。『先進国症候群』の定義はわからないが言わんとする事は理解できる。その反対の状態はおそらく、幼少期から国家的またはある組織のプロジェクトとして英才教育で叩き込まれた上に、ハングリー精神を持って音楽を学び自分の人生や命をかけるくらいのつもりで教師と自分の長期的戦略にもとづいたヴィジョンでコンクールを選んでそこに焦点を絞って挑んで来る、というようなことだろうか?まだ物質的には豊かとは言えない東欧諸国や中国などは、こういった音楽家、狙いを定めたコンクールで優勝したり上位に入って来る音楽家が伸びて来ているであろう。
 逆に日本では、ホントにたっくさん音楽学校があり、子供の頃からの「お習い事」の延長で「まあ、音楽学校でも行くか」というようなノリで音楽を勉強して卒業して行く人も少なくないのかもしれない。医師の場合は、医学部を卒業しないと国家試験の受験資格がなく、ブラックジャックでもない限り、国家試験を通らないと「医師」とは認められない。しかし、音楽家は、必ずしも音大や音楽学校を卒業しなくてもいい。チャイコフスキー国際コンクールで初の女性優勝者、初の日本人優勝者に輝いたピアノの上原彩子さんや、今年の神戸国際フルートコンクールで、初の日本人優勝者になった慶応大学理工学部一年生の小山さんのように、日本国内でも音楽学校を出ていなくて名だたるコンクールで一位になる人は出て来ている。逆に「音楽大学は出たけれど、、、」というようなレベルの人は、これだけ学校が増えるとたくさん出て来る訳である。
 全ての音楽家が、世界的なコンクールで優勝を狙うような、全身全霊を打ち込んで命をかけて音楽に向かわなくてはならないとは、私は全く思わない。田舎の音楽教室で「3歳児のリトミック」だとか幼稚園でオルガンや電子ピアノが上手な先生として活躍しても何にも問題ないと思う。音楽が好きで、本人がそれで幸せであるのなら、音楽大学を出て『優秀な素人』であってもいいではないか。
 中村紘子さんが仰りたいのは、一流のプロの演奏家を目指そうとする「若者」の中に、考えが甘いというか長期的なヴィジョンも何もなく、ただ小さいときからやって来て人より上手だったから、というレベルのプロ音楽家予備軍がいる事を憂いているのではないかと思った。あ〜、私は早くに(中1くらいの段階で)自分の才能を見限って良かった。
 地元紙の記者がリサイタルの折かなにかにインタビューしたものであろうが、地元記者だからこそ顔は見えないまでも書く人の責任感が感じられるような書き方だったように感じた。
ーー
 本日の地元紙朝刊で目についた、全国紙では取り上げられないであろう記事。
 山形はフルーツ王国。中でも「さくらんぼ」はひと頃では全国の90%は山形で産出していたらしい。今は近隣はもちろん全国的に適合する土地で「佐藤錦」などの有名銘柄が栽培されている。その中で、「紅秀峰」という品種に対する農作物品種の権利保護を巡って、無許可でオーストラリアに芽の付いた枝を持ち出して接ぎ木増殖した事に対し、オーストラリア人と日本人を相手取って県が訴訟を起こしたらしい。
 長い時間と労力をかけて開発した「農産物の品種」が貴重な「知的財産」であるという点が興味深かった。そうだよな〜、と思う。サクランボの中では伝統的に美味しく有名な「佐藤錦」(東根市の佐藤さんが開発したから、その名がついたらしい、「佐藤」なんて一杯いるのに、、、)は「品種登録」はされていないらしく、どこでも作れるらしい。しかし、キロ当たりの値段では「佐藤錦」をしのぐ高値をつける「紅秀峰」は、 『旧県園芸試験場が十余年を費やして開発したものであり、産地間競争が海外にまで拡大する中、厳密な権利保護の必要性を関係者に再認識させることも狙ったもの』らしい。
 確かに、お米にしても有名銘柄の「コシヒカリ」や「ササニシキ」は全国どこでも生産される。その中で、「差」を明確にすべく、「魚沼産コシヒカリ」とか「庄内余目産ササニシキ」とか名前に更に冠をつけているのが現状。知的財産の権利保護は、農産物においても重要だとは思う。
 ただ、こういう問題が起きた背景に、「とっても高いサクランボ」という事実がある。我々地元に住むものは、八百屋さんやデパートに並ぶサクランボを「自分の口に運ぶために」買う事などほとんどない。親類、知人への贈り物とすることがほとんどである。食べる機会があるとすれば、たまたま執刀した患者さんがサクランボ農家で、退院後外来に「せんせ〜、これ、おらがつくったさくらんぼだ〜。たべてけろ!」と持って来てくれるか、昔からの友人のサクランボ農家の家に遊びに行って「これ、もってけ!」とただでもらうか、位である(それでも贅沢)。あのバブルの頃、銀座のたっか〜いクラブでは初物の「佐藤錦」が一粒千円で客に出されたらしい。百粒で10万でだ!そんなこともあって、ハウスの早稲栽培をして大儲けを狙う人もいる。1月にサクランボを出荷すると、6、7月の旬に出るものの何倍もの値段がつくらしい。オーストラリアは南半球。だから日本とは季節がほとんど真逆。蕎麦が一年で一番まずいとされる夏場でも、オーストラリアやタスマニア産の蕎麦粉が「新蕎麦!」と言って入って来る。同じように、冬に「南半球育ちの美味しい旬の『紅秀峰』」ということにする予定だったのだろう。知的財産の権利に対する法的手続きを行って対価を払っていれば問題なかったのかも知れない。
 地元ならではおもしろいニュースだった。
ーー
 もちろん、伝統ある全国紙にも、ネットではなくて紙上でしか読めないものもある。しかし、最近の大手全国紙のスポンサー大企業迎合型、庶民の味方的医師叩き的な「医療問題」の記事を読むのに辟易して来ているのは事実である。前にも書いたが、医療費を下げるには「薬剤」や「検査診断治療機器」の価格を下げれば、それに真面目に大幅に取り組めばかなり下げられるのではないかと思う。しかし、国も政府機関もマスコミも、高額納税者で政財界に発言権を持ち新聞やテレビの番組スポンサー常連である、製薬会社や電気通信機器開発販売会社に「薬を安くします」とか「器械をもっと安くしなさい」という事は言わないらしい。新聞の医療問題の記事の中に、「医療費の2/3は人件費」という言葉は出て来ても「クスリ代が諸外国に比べて大きな比率を占めている」というような文言を見た事がない。しかも日本製薬工業協会(製薬協)のサイトでは、「中医協が言っている日本の薬剤費比率29.5%は間違いである」「海外と比べるときの比率は20.8%である」と書いてある。ところが米国の薬剤費比率は11.3%、低めに計算しても日本のほぼ半分なのだ。米国の医療費は高い。GDP比は15%近く、日本の約倍になる。だから薬剤費比率は米国が日本の半分でも、GDP比にすればほぼ同じである。これはある意味、納得の行く数字である。
 日本に製薬会社はたくさんあるが、自社開発自社販売のブランドは非常に少ない。あるにはあるが、病院で使う薬はほとんどがスイス、ドイツ、アメリカなどの製薬会社で開発製造されたものである。だからその値段はおよそ海外での販売価格に大きく影響されるから、だいたい同じ値段になるはずである。GDP比で日本の2倍の医療費を使う米国において、薬剤費比率が日本の約半分なのは「ちょうどあってんじゃ〜ん」と納得する訳である。
たとえば、お薬代が今より5%安くなったと(昨日の厚生労働省試算のように単純に)計算すると、30兆円の20%を占める薬剤費=6兆円、の5%=3000億円、の医療費削減になるのではないでしょうか?厚生労働省の研究班員殿!貴殿達の「禁煙外来効果」の倍以上の削減が可能だと思うのですが、これは誤っていますか?
 地元紙の話しから脱線してしまった。つまり、大手全国紙では、記事を書く記者もその内容に責任を持つデスクやトップも、スポンサーの顔色を気にして記事を書かざるを得ないという事は決して否定できないと思う。そんな「眉唾」の記事よりも地元紙のやる気のある記者の書いた文章の方がおもしろい、と私は(勝手に)思う。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005.11.16

また医療費削減「策」?

 本日のニュース(Asahi.com)から一部引用。
『厚生労働省は8日、医師による禁煙指導を「治療」と位置づけ、公的医療保険の給付対象とする方針を固めた。禁煙指導の促進により、喫煙率は今後15年間で最大、男性26%(03年は47%)、女性9%(同11%)程度まで下がると同省研究班は試算。肺がんをはじめ、心筋梗塞(しんきんこうそく)や脳卒中などの生活習慣病を引き起こすとされる喫煙を減らすことで、15年後の医療費は少なくとも約1846億円抑制できるとみている。』

 こういう「試算」というのはどうやっているのか具体的数字がわからないが、データに基づいた計算、つまりは机上の(空)論である。禁煙治療の促進によって中長期的な医療費の伸びを抑制する(生活習慣病対策として)方針を打ち出したということらしい。
 「禁煙外来」は今のところ保険診療外であるため全額自己負担であるが、保険導入によって通常の外来と同じく3割負担(70才以上は1〜2割負担)ですむことになる。すると現在より受療率はあがるだろうし、積極的に禁煙外来にかかる人が増える可能性が高く、厚生労働省も短期的にはかえって医療費が増えると予想している。しかし(ここが大事!)、生活習慣病や肺がんが減ることに伴う減少で、8年目から減少に転じると研究班では試算している、ということである。
 問題は、試算通りに「禁煙」によって生活習慣病やそれに伴う脳卒中、心筋梗塞、更に肺がんが本当に減少するのか?ということである。病気の原因は単一ではない。いろいろな因子がかかわる。ことに、脳卒中や癌などは「加齢現象」という動物の一種である人間には避けられない因子が大きくかかわっている。厚生労働省の試算のように、生活習慣病の発症率や肺がんの発症率は下がるのかも知れない。しかし、人口に占める老齢者がどんどん増えて行くのだから、発症数はあまり減らないのではないかと心配になる。更に、15年後の医療費を現在の医療レベルで計算したのだろうが、15年間医療が進歩しないと考えているのだろうか?診断や治療の面において様々な進歩があると考えられる。医療レベルが進歩せず、薬代や検査料も今のままで、先日書いた勤務医が支える病院診療が崩壊していなければ「試算」は成り立つが、そのすべてが「今のまま」という可能性は非常に低い、というよりあり得ない、と思うのだ。そういったことも考えに入れて、15年後の医療費は「約1846億円抑制できる」と計算しているのであろうか。しかも30兆円と言われる日本の国民総医療費のうちの1800億は、0.6%に過ぎないのだが。
とにかく、何でもいいから、少しでもいいから、医療費を削減する方向に動く「策」というか方針を、おそらく優秀な官僚達が知恵を絞って考えていらっしゃるのであろう。何度も言うように、無駄は削るべきであるが「減らせばいいってもんじゃない」でしょう?!世界トップレベルの医療を維持し進歩させている中で、無理をして削るというのは、私にはかつての文部省が「ゆとり教育!」と声高らかに打ち出して、みるみる学力の低下した現代の日本人の子供達(今の大学生や既に卒業したばかりの年代もその犠牲者)を造り出し、世界の学力テストでも常に上位にいた日本がどんどん低落している事を思い起こさせる。
 「医療費を削減」「消費文化と同等に医療もデフレを」「医療にも構造改革を」と進めて行った結果、何年後かの日本の医療レベルが「世界のトップから低落して先進国の中で最低の方」とか「政府、方針転換。医療費の無理な削減はやめる。高度医療の推進を鼓舞」なんてニュースが新聞紙上を飾らない事を祈っています。アーメン

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005.11.15

一期無会

まず、本日は日本国民の慶事、紀宮様の御結婚おめでとうございます。
戸籍に入られて名字がつき、私の母と一文字違いになられました。我々は、ご夫婦の素顔など全く知らない訳ですが、伝え聞くお姿から一転自分や自分の周りを見たときに「もし、医師、看護師、そして患者さんもが皆お二人のような思慮深く思いやりのある優しい人達ばかりなら、そこはまるで天国のような病院だろうな〜」と思いました。
まあ、そんなことは、残念ながら無い訳で、患者さんはもちろん自分の事で頭が一杯だし、看護師も自分の勤務をきちんとこなす事で精一杯になりがちだし、医師も自分の責務を全うするために必死で余裕が無いし、更に最近は医療過誤やら電子カルテやら接遇やらの指導や規則や強制ばかりで結局、ゆとりを持って他人を慮る事の出来る人が世の中で一番少ない場所なのかもしれません。
ニュースで、学習院大学のオケでビオラを弾いていらっしゃる皇太子様が演奏会を聴きにいらした「サ〜ヤ』に結婚行進曲をプレゼントした、というところが流れていました。こういう時に、音楽が出来る事は素晴らしいと思います。
ーー
 さて、タイトルは、茶の湯の教えから一般に広まった「一期一会」のパロディのようなもので私の勝手な造語です。「一生のうちで、一度も会わない」ということです。
 「会う」という言葉を辞書で調べてみると、多くの意味を持ちますが、突き詰めると「人と人がコンタクトを持つ事」です。ただ見るだけ、ではなく、言葉を交わすことや結婚する事まで含むようです。「一期一会」の意味は皆さんご存知でしょうが、「一期無会」とは、つまり「人の一生など限られたもの。その短い一生の中では一度も会う事無く通り過ぎたり、知らない人や場所がたくさんある」という意味のつもりです。
 御成婚のお二人もこの世に生を受けて別々の人生があったにもかかわらず、縁があってお会いになって結ばれる事になった訳ですが、ちょっとしたことで全然会う事もなかったり、他の人と結婚する事になった可能性だって十分考えられる訳です。「会える」という縁というか運も必要ですし、それを自然に求める心や行動、それからそこへ導く見えない力、運というより神の力のようなものがなければ成り立たない事は、世の中にはたくさんあります。
 私が、『首突っ込みたがり』と昨日の本ブログで自分の事を自分で評したのは、こういう考えに基づいてのことなのです。「その時」を逃すともう会えないかもしれない、そういう事も世の中にはあると思うのです。私には今まで少なくとも二回程「あ〜、あの時に、、、」と思った人がいます。
 一人は俳優の故松田優作さん。優作さんの映画作成関係者の知人に誘われて日比谷公会堂での映画撮影を見に行った時、「ついでだからエキストラになる?」と言われてエキストラ(映画には映ってないと思う)になりました。その後、「挨拶する?」と言われて躊躇しました。一言二言言葉を交わすだけでも、人と人とのコンタクトですが、大俳優と喋る事なんかないんじゃ?と逡巡していると、「あ〜、なんか忙しそうだし、また今度ね」と言われ数十mの距離で姿を見ただけで終わりました。その後、病に倒れて帰らぬ人となられましたが、「あ〜、あの時、握手くらいしておけば、、、」とちょっと残念に思いました。まあ、ミーハーな気持ちがほとんどですが。
 もう一人は、故吉田雅夫先生。フルート界ではもちろん知らない人のいない方です。知人の親戚だったらしく、いつだったかかなり昔に「家に会いに行ってみるか?」という話しがあったのですが、その頃はよく考えもせずに断った訳でもなく、ただ積極的に「行きます!」「会います!」「会いたいです!」という気持ちが無かっただけでした。そして、一昨年亡くなられ昨年の芸大の奏楽堂での追悼コンサートに参加する事になったのです。吉田先生は(あえて先生と呼ばせて頂きます)、直接師事した先生ではありませんが、「フルートの心の師」と思っています。
 私がフルートを始めたのは確か11才になる少し前。教則本みたいなもので見よう見まねで吹いていただけです。その1年か2年後に教育テレビで「フルート教室」が始まり、吉田雅夫氏が先生でした。そこで初めてプロがフルートを吹いている姿を見たのです(それまではレコードで聴こえる音しか知らない)。だから私の初めての先生は、勝手に吉田雅夫先生だと思っているのです。数年前からフルート熱が再燃して、楽譜以外にいろいろ書物も読みました。その中に、アルソ出版でだしている「吉田雅夫『フルートの心』」という本があります。続編と二冊でています。もともとは日本フルート教会の会報に寄稿されていた文章を後に本にまとめ直したものです。かなり前に読んで放っておいたが、時に読み返してみると、「あ〜、なるほど〜」とか「そうだよね〜」とか「うむ、、、」と納得させられたり教えられたり考えさせられたり、非常に示唆に富む文章がたくさんあるのであります。例をあげると、ある文には、
「幸福というのは本能を満足させることだけにあると考えるのは間違いでしょう。ちょっとだけ努力する事です。」
とあります。読み進んで行くと、まるでフルーティストにとっての「聖書」みたいな本なのです。
 フルートを愛する一人として、最初の師と思っている吉田雅夫先生にはお会いしておきたかったと思います。会ったから何があったということもないでしょう。会わなかったから何が変わったということも無いかもしれません。しかし、「会わなければ」何も生まれるはずがありません。
『一期無会』。一生のうちに一度も会わずに終わる事の方が多い事を考えた場合、会えるチャンスがあるのなら会ってみよう、出来るチャンスがあるのならやってみよう、行けるチャンスがあるのなら行ってみよう、というのが私の基本的な考え方です。そのために例えば睡眠が削られるとか、忙しくなるとか、疲れるとか、遠いとか、無駄だとか、全く考えません。「自分がそうしたい」と思っているからです。「無会」を「一会」もしかしたら「多会」に変える事が出来るのかも知れないのですから迷わず一歩足を踏み出すべきだと思っています。
 このブログしかり、音ブログしかり。アマオケしかり。そうやって、いろいろな人に出会って人生を豊かにして行きたいと思っています。
ーー
 先日触れた本田美奈子.さんの件。
 週刊誌では死後の遺産か権利か何かを巡る争いが起こっているのか、起こりそうなのか。そういうくだらない、悲しい話しからは目を遠ざけたいと思い、彼女のサイトを見てみました。サイトのトップには逝去の報告が書かれていますが、中身は変わっていません。彼女のサイトを無くさないでというファンの多数の声があると聞きます。彼女を育て一緒に仕事をしてきた人達も同じ気持ちなのでしょう。
本田美奈子.オフィシャルサイト
本田美奈子.
(〜はチルダで、〜ではないのですがうまく表記されないのでURLを書き直してください)

 先日の「題名の、、、」の追悼番組はご覧になりましたか?
『♪わたし、つばさがあるの♪、、、、』
と歌っている彼女は、まるで天使か天女のようで死後の世界からブラウン管の中に再生して来たのかと思う位でしたし、あの超超超なが〜〜〜〜〜いロングトーンは度肝を抜きますよね。彼女のサイトでは、なんとアルバムの中から何曲も一部が試聴できるようになっています。10月にリリースされた最後のアルバムが、何十年ぶりかにオリコン上位に入ったというニュースもありましたが、初アルバムから計14枚も出していたんですね。
 私の音ブログで「復活Amazing Grace」と書いたのが10/31。それからまもなく、最後のアルバムAmazing Graceの大ヒットを見る事無く、彼女は逝ってしまいました。私の所属するアマオケと、ちょうど10年前のトヨタコミュニティコンサートで共演したのだそうです。まだ、ファルセットの超ソプラノの声を最近のようにはコントロールできていなかった時代の様で、苦労していたそうです。ステージで歌う彼女のすぐ脇でバイオリンを弾いていたある団員は、先日、松尾俊介さんを囲んでいた時にその話しが出た際、「足なんかこ〜んなに細かった!」と親指と人差し指でOKサインのように丸を作ってみせてくれました。誇張があるとしても(笑)、会った人にしか出来ない話しです。本当に御冥福をお祈りします。
 彼女とは『一期無会』でしたが、CDや先日のテレビなどのように音楽を通してお会いする事が出来ます。演奏会に来てくださった方には、言葉を交わさないけれども「会っている」んだと思います。私はレベルの低いアマチュア音楽家ではありますが、音楽を通して人に会いたいと思います。
(松尾さんとの会食時に撮った写真を本家サイトの「自慢の写真」に追加しました。)
☆ I love flutes & piccolos☆

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.11.14

贅沢な練習

 いよいよ、我がアマオケの第33回定期演奏会は、今度の日曜、11/20である。
http://sound.jp/sakaphil/
午後2時の開演です。これをご覧になったお近くのあなた!またはあまり近くなくても興味のあるあなた!是非、演奏会においで下さい。たったの1500円ですし、がっかり、はさせない、、、と思います(のはず)。。。もしかすると、感動して頂けるのではないか、と思い(希望し)ます。
ーー
machan_thumb
 というわけで、昨日は最後の追い込み。ステージリハを除くと、最後の指揮者練習でもあった。そして、なによりもギタリストの松尾俊介さんとの初の(そして最後の?)合わせであった。
 「競演」「共演」といってもホールではなく、観客もなく、練習室で2時間弱(いや実質1時間半もない)あわせただけ。ただそれだけのために、松尾さんには東京から「日帰り」でおいでいただいた。誰だ!?こんな日程組んだのは。。。いや、松尾さんのスケジュールによるのでしょうけど。よって表題のように「贅沢な、、、」となるのである。
 11/7の本ブログで松尾さんのことついて少し触れたらTBを頂いた。なのでこの記事も逆TBすることにする。
曲は、ロドリーゴ作曲「アランフェス協奏曲」。
 ギターの世界に限らず、あまりにも有名なコンチェルト。ギターの協奏曲はこの他にもテデスコの協奏曲や、アーノルドの「ギターと弦楽のためのセレナード」を始めたくさんあるのだが、一般に認知されている曲はほとんどアランフェスだけといっても差し支えないだろう。特に2楽章はポップス(ムード音楽???)に編曲されて用いられる事も多い位、物悲しく美しいメロディで有名である(この部分はコールアングレのソロをギターが伴奏するような感じ)。ギターのソロの部分やカデンツァが結構長いので、オケの練習ではそのあたりは、「はい、じゃ、飛ばして次練習番号の11から」とか言う感じで今までやって来た。クラシックギターは大ホールでソロでやるような大音量の楽器ではないし、オケをバックにすると音がかき消されがちになるのでマイクを通してスピーカーで音を流す事になる。オケとの音量のバランスやマイク、アンプ、スピーカーのテストも兼ねていたし、実際ソロのカデンツァからオケがウワッと入るところなどは、一緒に演奏しなければオケもつかみにくいし指揮者も分かりにくい(だから協奏曲なのだが)。第3楽章などは、3/4拍子と2/4拍子が一見不規則に(本当は規則的だが)交互に出て来て、一度楽譜から目を離してしまうと、今どこをやっているのかつかめなくなることがある。だから、自分が演奏していない時でも必死で楽譜を見ていなければならない。ギターの演奏が入るとこれが凄くわかりやすい。
 管楽器というのは、弦と違って結構「休み」の部分があるので、協奏曲ではソリストの演奏に注目したりそのスタイルや服装に(特に女性のソリストだと、、、おっと失言!)注目してしまうことがある。長いお休みがある楽器や、一楽章まるまる休み(tacet、タチェット)の場合、寝ている人もいるらしい(いや、ホント、プロでも(だから?)眠ったりするそうですよ)。2楽章のカデンツァなどでは松尾さんのギターを弾く姿をよく拝見できた。特に、練習なので、指揮者の横で、オケの方を向いて(通常と逆向き)で弾いてくださったので指の動きや表情もよく観察できた。その音色は豊かで繊細で、練習を忘れて引き込まれるようであった。実際、私は聞き惚れたあまり一回、入りを落としてしまった。(^^;;;;
 しかし、3楽章はそうはいかない。ソリストを見ている余裕なんて「ない」。ひたすら、音符が書かれていない「休み」の部分を見つめているのだ。練習を始めた頃は、「1、2、3、1、2、1、2、1、2、1、2、3、、、」なんて管楽器の方からつぶやく声が複数聞こえて来て、皆苦笑していたものだった。(足踏みしたりして)音をたててカウントする訳にはいかないから、見えないように指を折りながら心の中でカウントし、指揮者が3/4拍子を振るところを確認しながら、楽譜を見続けていくのである。でも繰り返し練習するうちに、松尾さんの音を聴く余裕も少しは出て来た。すごく勉強になった。もっと「共演」していたかった。一時間半なんてあっというまで、本当に「勿体ない」感じであった。
 私は、フルートとピッコロの持ち替えであるが、ロドリーゴは何を考えて作曲したのか、1楽章の中盤に、フルートからピッコロへ、たった1小節の休みの間に持ち替えなければならない部分がある。そのすぐ後に6小節休んだら1小節だけフルートを吹いてすぐ2小節休みがあるだけでピッコロに持ちかえる部分がある。とっても慌ただしいし、楽器は膝の上においたままササッと持ち替えて演奏しなければならない(通常は、前横に椅子をおいてそこに持ち替える楽器を載せておいたり、専用の楽器立てがあってそこに持ち替える楽器を突き刺し立てているものだがそんな事をしている時間的余裕がまったくないのだ)。そんな忙しい持ち替えをしながら焦っている私の心も、松尾さんのギターの音色によって癒されるようであった。本当に、もっと聴いていたかった。
 練習の後、羽田までの帰りの飛行機に時間のある松尾さんを囲んで、何人かで近くの我がオケの溜まり場の喫茶店にくりだした。そこでしばらく楽しく話しに華を咲かせた。プロのギタリストで初アルバムを出したばかり(写真参照)、これから売れっ子になるであろう松尾さんが、我々アマオケのために、ただ練習のためにわざわざ来てくださったのは、もちろん巨匠で師匠の福田進一さんからの依頼(命令?)によるものである。演奏会ほか様々なイベントで超多忙の福田さんからある日松尾さんの携帯に電話が入った。
福:「おい、松尾、11月13日、空いてるか?」
松:「あ、先生、はい、空いてます!」
福:「よし、酒○でアランフェスの本番前の練習があるんだけど、弾いてみるか?」
松:「はい、行きます!喜んで!」
という感じで(会話の語句は私の想像です)決まったそうである。松尾さんはパリのコンセルヴァトワールを首席で卒業されている。「アランフェス」はもちろん試験課題などでも何度か弾いた事はあるけれど、いつもピアノ伴奏で、生のオーケストラをバックに弾く事は松尾さんですら初めての経験だったとのこと。「とても勉強になりました。」と仰ってくださった。我々としては、いくらニューフェースとはいえ、すでにCDを発売しリサイタルも開いている「プロ」を練習台にさせていただいて、その有り難さは言葉では尽くせない。
 つい2、3ヶ月まえに庄内国際ギターフェスティバルを運営した人も交え、『首突っ込みたがり』の私もいれてその後、寿司を食べに行った。短時間ではあったがいろんな話しを聞けた。年齢と経歴からすると、高校を卒業するとともにギターを究めるためパリに渡ったのだと思っていたら、普通の大学にも行きたくてある大学の法学部に進んだそうである。もしかしたら、今頃「司法試験!」とか言っていたのかもしれないが、やはりギターを本格的にやる事を決意して、大学をやめてパリに渡ったそうである(実は、パリでの危険?なお話しもあったがここでは書けません!)。京都人っぽい物腰や口調の柔らかさに加えてなんとなく坊ちゃんぽいというかホンワカしているところがあるので、村○香○さんみたいに音楽一家の出なのかと思ったら違うのだそうである。これは私の想像に過ぎないのだが、キチンとしつけられる普通のご両親と福田進一さんのような暖かく厳しい師匠に恵まれて育った方なのかな?と思った。別れ際には、こちらがお礼を言うのは当然であるのに、私如きを使って頂いて、とか、本当に勉強になりました、と逆に礼を述べられて帰られた(いい人だ〜)。

「庄内国際ギターフェスティバル」で、日本にもそしてマーティン・フォーゲルやアタナス・ウルグズノフやその他にもたくさんの才能があることを改めて知った。スポーツのように争って点を取ったり勝ち負けをつける世界ではない。しかし、プロである以上、音楽で人に夢や幸せを与える「義務」ともいえるものがあるだろうし、何よりもギターでご飯を食べて行かなければならない訳である。遊びで、趣味で楽器をやっている私なんかとは、才能はもちろんの事、「心」が違う。けれど、音楽を愛している、演奏が楽しい、幸せだ、という所は共通している部分もあると思う。松尾俊介さん、このギタリストに「も」注目して行きたい。そして、みんな素敵な音楽家になって活躍して頂きたいと切に願う。
ーー
p.s. いつの間にか、このブログも、知らないはずの知人にも知られて来て、「読んでるよ。」な〜んて言われる。ますますアホな事は書けなくなって来た。
「よく、あんな、長い文章がかけるもんだ」と仰ってくださった方。(^^)
けっして暇で暇で仕方がない訳ではないですよ。空いた時間を見つけ、少しずつ書きためるのですよ、一日の中で。携帯電話からもアップできるようになってますし。それから、私はパソコン歴26年、ネット歴16年、インターネット歴13年なんですよ〜。v(^^

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.11.12

宿直明け

 昨日は宿直だった。そういえば先の日曜も宿直だったので6日間で2回泊まった事になる。私の年齢でも月に2、3回、若い先生だと3、4回は宿直や日直が回って来る。名簿を見ると常勤医は76名もいるのだが、院長、副院長、救命救急センターの医師、その他の一部の医師(病理医など)は当直体制から外れているので、結構頻回に回って来るのである。以前は年齢による優遇措置(たとえば50才以上の医師は当直から外すとか、45才以上は日直だけにするとか)を行っていたけれど、今ではそうも言っておられず若い先生に比べて外科系救急宿直を免除されている以外は同じ条件である。
 比較的新しい病院なので、前に書いたように外来棟にエスカレーターがあったり結構凝ったデザインである。しかし、医局は狭く、医師一人当たりに本棚一つしかなく、当直室のベッドは小さく硬くて寝心地が悪い。まあ、医局でのんびり寛いだり、ベッドでゆったり寝たりせず、働きなさい!ということなのだろう。
ーー
 深夜にICUで呼ばれてその後テレビを観ていたら、BS2でN響音楽祭のシリーズの中で、マエストロ小沢征爾が指揮して、子供を対象の音楽会をやっていた。「運命」の解説もマーカス・ロバーツトリオとのJazz競演のガーシュインも面白かったが、千住明さん作・編曲の世界初演「日本交響詩」に注目した。
日本人なら誰もがどこかで必ず一度は聴いた事のある旋律の曲をメドレーよろしく並べてオケ用に編曲しただけ、と言ってしまえばそれまで。「うさぎお〜いし」の『故郷』から始まって最後は『さくら』で締め。メドレーの2曲目が『最上川舟歌』で3曲目が『花笠音頭』だった。その他に北海道の『ソーラン節』とか香川の『金比羅船』などがあったが、一つの県で2曲入っているのは山形だけだった。まんざらでもない気分。千住さん、7/22の本ブログで書いたように山形とは縁がある。そういうことからの選曲からなのか、単に千住さんの心に「日本の旋律」としてこの2曲が残っていたのか。いつか聞いてみたいなあ。
(実は、花笠音頭は戦後に作られた比較的新しいものなんですが、まるで江戸時代から存在していたかのようななじみ深い曲ですよね。私、将来山形に住む事になるなんて露程も思っていなかった九州時代から花笠音頭は知ってましたから)
ーー
 久しぶりに医療の話し。
 昨日の新聞に、政府が医療制度改革の一案として検討していた「保険免責制導入」を見送ることになったと書いてあった。外来受診に際し一定額を保険対象外として負担する制度で、当然国民の医療費自己負担が増すとともに外来受診抑制を来すものである。「公的医療保険制度の基本に反する」「患者負担は3割にとどめるとした2002年改革の趣旨に反する」などの異論が噴出したため、今回は見送る事になったらしい。その結果、医療費抑制は、高齢者負担の増加、診療報酬引き下げなどを中心にを図っていく方針だと書いてあった。
 確かに「公的医療制度」の方針から外れる考え方ではある。しかし、これは憲法9条問題と同じよう(私は、護憲派でも違憲派でも何派でもありませんが)、時代の流れに応じて「基本」とされている考えを見直す必要がある問題だと思う。
 更に、医師会などが「患者の受診機会を抑制する」と反対しているらしい。もちろん、必要な医療サービスを受けることが抑制されるのは好ましくないが、過剰/不要な医療サービスは抑制してもいいのではないだろうか?「感冒」で医者にかかったら診察料と薬代で1万円請求されるようなら、ほとんどの人は薬屋さんで市販の風邪薬を内服して家でおとなしくしているのではないだろうか?39度の高熱であるとか、肺炎症状の場合は、医療機関にかかればもちろんいいのであるが、「風邪気味で鼻水が止まらない」「37度の熱で頭痛がある」位で必ずしも医療機関を、しかも救急外来などを受診する必要はない場合もあるのである。これを抑制する方向に持って行ってもいいのではないかと個人的には思う。ただでさえ高齢化社会で医療費が高騰している。医療水準が高くて提供するサービスも高度であるため(諸外国に比べての話しです)医療費が嵩む傾向にある。医療レベルを低下させずに医療費を抑制するためには、無駄または無駄な傾向を減らすしかない。
 しかし、これは一部の考えかも知れないが、既得権の喪失を恐れてなのか、医師会が大反対しているらしい。受診機会が減るということは、開業医にとっては大打撃であるからである。一方、同じ医師でありながら病院に勤務する勤務医の立場として私は、外来患者数が減る事、過剰な受診が抑制される事は大変いい事だと思う。
 かつて書いたように、「2ヶ月前から時々頭が重苦しいのだが、脳卒中になるのではないかと心配で診てもらいたい」というような患者さんが、本来は脳神経外科の外来を受診する必要性はない。念のために、スクリーニング的に検査するのであれば「健康診断」なのだから、本来は全額自己負担でなければならないのだが、そんなことを言えば患者さんは「あの医者は意地悪だ」「もう診てもらわなくていい」という感じになるので「はいはい〜、じゃあ、CT撮ってみましょうね〜。MRIも予約しますか〜。」という感じで「過剰」な保険診療が行われるのである。
 これが本当に「患者中心の医療」「患者の視点での医療」なのだろうか?と前々から疑問には思うが、こんな事を一般の患者さんに説明してみたところで、「CTを撮ってみて欲しい」と思って来ている患者さんの前ではただ理屈っぽく自分には不利に行動する嫌な医者、ということになってしまう。病院で働く医師は、患者受けが良く病院の評判をあげることが要求され、正論を述べても無駄、黙って働きなさい、という感じは皆感じながら辛抱して働いているような気がする。
 だから、外来受診料金の一定額保険対象外は方法論さえ誤らなければ導入してもいいのではないかと思う。この案がポシャった代わりに、高齢者負担の増加、診療報酬引き下げを行うとしたらこちらの方が問題だ。高齢者負担の増加はある程度はやむを得ないところもあろう。だって世界一の長寿国となったため高齢者比率も高いのであるから、「高齢者」という定義すら変えなくては行けないくらいなのだ。しかし、診療報酬の引き下げ、これは昨年既に全面マイナス改定を行ったばかり。それを更に推進するというのだ。もし、これまでにその医療水準に比較して高く取りすぎている医療技術や診断法があるのならマイナスになってもやむを得まい。しかし、進歩している世界一高水準の医療技術が、『国全体がデフレ傾向にあるのに医療だけ価格引き下げがないのはおかしい』という他の消費文化と同等のものとして論じられるのはいかがなものなんだろう?
 日本医師会という団体がある。私も加入しているが、公立病院勤務医である私に、一年間で10万円以上の「会費」を払っているメリットは、はっきりいって「何も感じられない」。日本医師会雑誌とか県の医師会報などが送られて来るが、病院勤務の脳神経外科医が読むべき内容は多くない。「何でも勉強になる」と言ってしまえばそれまでだが、脳外科関係の学術雑誌でさえ隅から隅まで目を通している訳でもないのに、あまり役に立たない医師会の記事まで見る時間はない。その医師会雑誌に添付されて小冊子が配布された。
「世界トップレベルの医療を提供するためにー日本の医療の現状と将来」と題され、なかなか面白い内容の図表が載っていた。「あれ?これは医師会会員に配っているんだよね?」と私は思った。政府、医療改革協議会や一般市民を対象に、「日本の医療は水準が高い。高い水準の医療には金がかかるんだ」と説いているような内容なのだが、こんな冊子、一般市民が手に取る機会なんてあるんだろうか?
 よく、医師は高給取りのように言われる。決して低いとは言わない。しかし、たくさん稼いでいらっしゃるのは開業医の先生方である。日本の制度ではそうなるのである。たくさん稼ぐ事が悪いとは言わない。個人事業主として頑張って働いてたくさんお金を稼いでどこが悪い!である。病院勤務医は歩合制で給料をもらう事はまずないので、いわゆるサラリーマンである。給与体系はある形式の契約である。だからたくさん手術しても少ししか手術しなくても、たくさん急患を診ても少ししか診なくても、その契約通りのサラリーを頂く。そして、(独立法人化したとはいえ)国立大学の研究職にある医師は、極端にそのサラリーが低い。大学だけのサラリーで年収1000万を超える人が、病院の中に一体何人いるのだろうか?勤務医になると1000万を越す人が少しは多くなる。ところが、開業医の先生方は納める税金が私の年収の何倍もあったりするのだ。軽く一億円以上稼いでいらっしゃる先生も大変たくさんいらっしゃる。
 同じ日本医師会に属しながらも、大学病院勤務医、一般病院勤務医、開業医では、立場も稼ぎもあまりに違いがある。そして、日本医師会の中心の意見になって行くのは、数も多く力を持ち政治的活動に時間を作る事が可能な開業の先生方がどうしても多くなる。勤務医の意見は、聞いて頂いているようだが「医師会」としての中心的な意見にはなりにくい。だから勤務医は医師会になかなか入りたがらない。入ってもメリットが少ないからである。結果、日本医師会は「開業医」中心に運営され、「開業医」のための政治的圧力団体のようにすら見える事がある。一般の人にとっては、我々勤務医も同じ医師会のメンバーだと思っているのだろうがほとんどの人は入会していないのが現状である。
 そして、保険診療のマイナス改定に話しが戻る。たとえば、脳動脈瘤のクリッピング手術。クリップも改良に改良を重ね、MRI対応の細身のものが主流になっている。開いた頭蓋骨を元に戻すのに昔はステンレスのワイヤや絹糸で縛っていたのを、今はチタン製のプレートでがっちり固定している。手術してから何年か経つと絹糸が切れたりして外した骨の部分に段差が出来たり、皮膚表面からあきらかにわかるよなポッコリした凹みができることが多かった「昔」に比べ、現代の手術ではそのような事はまず起こらない。髪の毛が伸びた後は、知人から「お前、本当に頭の手術受けたのか?」と言われる程目立たない。頭蓋骨を削るドリルだって、その機能は向上しているし、動脈瘤を露出したりクリップをかける際にも脳の機能や血流をモニタリングしながら、また術中血管撮影装置を用いてすぐに血管の形を調べたりできる。脳腫瘍の手術中に、手術室にMRIがあって腫瘍の取り残しの有無をチェックしたり、大事な機能部位との距離を探索したりする事がリアルタイムに出来る。このように進化、進歩している手術に対し、マイナス改定を行うという考えがまず解せないのである。「回りがみんなそうだから」という論理らしい。勤務医は開業医より遥かに少ない収入で頑張っているのは自分たちの技術、自分たちの努力が日本の医療を支えているから、という自負もあると私は考える。
 何も、開業医と敵対するつもりはない。開業の先生方にも苦労はたくさんあり、最初に書いたように努力に見合った収入を得る事はいい事だと思う。しかし、開業医と勤務医にこれだけ格差のあるのは、おそらく先進国では日本だけだと思う。アメリカなどでは、クリニック開業医より病院勤務医の方が収入が多いケースがたくさんある。頑張って医療水準を世界一にしている勤務医が、「な〜んだ、また下げんのかよ!俺たち(私たち)の努力は政府や経済界には評価されない訳ね。」ということにならないだろうか。
 そこで結局出て来るのは「精神論」なのか。「欲しがりません、勝つまでは」と同じでは困るのだ。
 でも、他の誰から助けられる訳でもなく、医師としてのプライド、自己犠牲の精神によって勤務医自身が日本の勤務医医療の崩壊をきっと支え救ってくれるだろう。医療改革協議会はそういう「高潔な精神」に期待しているのだろう。。。。(sigh)

| | コメント (3) | トラックバック (4)

2005.11.11

歴史と人(まとめ?)

歴史の話しを書き始める前に、一つ情報を。
今度の日曜日に「題名のない音楽会21」で故本田美奈子さんの追悼特集番組を放送するようです。
http://www.tv-asahi.co.jp/daimei/
本田さんの凄さを知っていた人も知らなかった人も是非ご覧ください。m(_)m

ーー
 さて、何故に歴史の話しを書き始めたのか。その理由の一つは、私が歴史が好きだからであるが、新しく住む事になった土地の歴史を学び直したかったからである。これまで、なんとなくは聞いて知っていたけれど、改めて調べ直してみると、「ホォウ〜!」(フォー!ではありませぬ)という事がたくさんあった。
 で、続けます。
 前任地の庄内は庄内で、最近密かな藤沢周平ブームがあるようだが、徳川300年の間、変わらず知行を続けた酒井家というのがある。酒井家は、徳川家康の四天王の一人、酒井忠次の流れをくむ譜代名門の家柄である。それが故か、会津松平が京都守護職なら、鶴岡酒井は江戸市中見廻組を務め、江戸時代末期に薩摩藩邸焼き討ちに加担し、この事件が逆に官軍の江戸総攻撃の口実を与えたと言われている。
 酒井家が庄内に入る前は、昨日書いた最上氏が、関ヶ原で東軍についたため山形県のほぼ全部を納めていた。一時120万石とも言われていたのだが、しかし最上氏が3代で改易となって山形が4藩に分けられ、庄内に酒井家が入って来た訳である。鶴ヶ岡城(現鶴岡市)に藩庁を置き、酒田亀ケ崎城を枝城とした。庄内平野は今も昔も米どころであり肥沃な土地が広がっていた。更に、酒田は北前船で栄え、「日本永代蔵」にも描かれた豪商「鐙屋」や「本間様には及びもせねど、、、」で有名な日本一の大地主「本間家」をバックに比較的豊かな藩であった。
 川越松平家が将軍の子供を養子にもらったことをきっかけに、財政逼迫を改善させるために豊かな庄内に目を付け、「三方領地替え」を企んだ事は有名な話し。先日、たまたま見た教育テレビ「高校日本史」でこの「三方領地替え」をやっていた。敬愛する藩主が変わる事を避けたいと談合した結果、庄内藩領民は生命をかけて江戸へ出向き幕府に領地替え取り下げを直訴することになる。江戸城の周辺で幕閣の籠に向かって嘆願している庄内領民の絵がテレビで紹介されていたが、暴動を起こさずその動きは統制がとれていたと賞賛されていた。しかし、幕府の命を拒否し農民が一揆的な行動を起こしたのであるから、本来ならば死罪である。従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛され、幕府はこの命令を撤回したのであった。 当時の酒井家と領民の良好な関係が伺い知れる。それが今の世の「だだちゃ豆」に繋がっているのかも知れない(一説には、酒井の殿様が枝豆が大好きで「今日はどこのだだちゃ(お父さんまたは主人)の枝豆か?」と楽しみにしていたことからついた名らしい)。
 江戸末期、戊辰戦争の際、庄内藩酒井家は、会津藩松平家とともに「奥羽越列藩同盟」の中心的存在となった。ご存知のように、戊辰戦争と言えば、薩長土肥を中心とする官軍が連戦連勝をあげたようなイメージがあるが、実は負け戦の多かった中において庄内藩だけは「無敗」であったらしい。本間家の財力をバックに新式銃を大量に揃え新政府軍を圧倒していたということである。それでも諸藩が降伏する中、無敗のまま、恭順降伏をせざるを得なかった。この際、新政府軍の先鋒であった黒田清隆に対し、庄内藩家老をはじめとする家来が「我々全員腹を切るので藩主だけは助けてくれ」と命乞いしたと言われている。これを伝え聞いた西郷隆盛が感激し全員を許し、更にやはり本間家を中心に莫大な献金(加えて敬愛する殿様を呼び戻すために領民が多額の献金を行ったらしい)を新政府に行った結果、(会津藩は取り潰されたのに対し)庄内藩は取り潰しにならず藩主も復権した(今でも酒井の殿様は鶴岡に住んでいて、先年亡くなられた第17代当主酒井忠明(ただあきら)さんは私も一時主治医になった事があるが、地元民からは「殿様」と呼ばれていたらしい)。酒井家が存続した事を恩義に感じた旧庄内藩士は、西郷隆盛が野に下り西南戦争が起きると遠く九州まで参戦して西郷軍に入り討ち死にした。鶴岡の市庁舎の横に大きな横置きの石碑がある。それには「敬天愛人」と大きく彫られている。西郷に感服し学んだ旧庄内藩士が西郷の教えを残した書物に「南洲翁遺訓」というのがあるが、その中に出て来る中心的な言葉である。さらに、驚く事に、鶴岡や酒田には「南洲神社」といって西郷隆盛を祀る神社まであるのである。
戊辰戦争の引き金になった、江戸薩摩藩邸焼討ちに中心的な役割を果たした江戸市中見廻組の庄内藩と官軍総本山薩摩の西郷の人と人の交流が今の世に続き、鹿児島と庄内の小中学生が今でも交流を続けているそうである。
ーー
 さて、ほろりとするような「いい話し」で終わりたいが、「私」のブログとしてはその目的を果たしていない。
 私が山形県内でいろいろな土地(村山地区、新庄最上地区、庄内地区、そして今の置賜地区)で仕事をするようになって、当然土地の事を知らない訳にはいかない。それは単に好奇心とか知的興味というだけではなく、その土地に暮らす「ひと」を知るために重要な事である。脳神経外科医はメスで頭を開く(野蛮な?)外科医であるが、一医師として一患者に向き合うためには、その人の社会的・家庭的・教育的環境を知っていた方がよい。「人を見ずして病気を診る」の愚に陥るを避けるがためである。そういった背景には、やはり「歴史」が大きくものを言うであろう事には頷首されるはずである。
 どこの地方にも歴史と人がある。山形県が「一つの県」としてまとまりがない、というのは昔から良く言われている。冬季長野オリンピックの前に日本で候補地が4つあがった際にも、山形の人は「どうせ、山形でオリンピックなんてできるわけねぇべ〜」と冷ややかに見ていたらしいし、実際に投票の際「山形蔵王」には一票も入らなかったそうである。候補地としてのアピールに力を入れなかっただけでなく、自分たちが自分たちに票を入れなかったということになる。なんでこうなるのか?と私も県外出身者ながら「住めば都」であり口惜しく思っていた事がある。だんだんわかって来たのは、明治維新、廃藩置県の時、現山形県はもともと4つに分かれていたということである。庄内県(酒田県→鶴岡県)、最上(新庄)県、山形県、置賜県であるが、維新に際し混迷に混迷、混乱に混乱を重ねて、現在の山形県になったらしい。その当時は、やはり上杉米沢と酒井鶴岡が名門であり、それに大地主本間の酒田があり、その昔は最上家のいた現在の県庁所在地である村山地方山形市はむしろ力のない土地であった。米沢(置賜)が福島に、庄内が新潟と秋田に分断されるという話しもあったらしいが、結局当時は小藩の寄せ集めになっていた現山形市周辺地区が、政府の威令も届きやすく、鶴岡と米沢の中間に位置するという事もあって、県庁所在地に決められたらしい。初代県令三島通庸は鶴岡県令から抜擢された旧薩摩藩士であった。
 そういう訳だから、山形県内の4地区の中、特に庄内、置賜の2地方には「山形なにするものぞ」というか「俺たちは山形じゃない。庄内だ!/米沢だ!」みたいなところが感じられる。独自の文化があり独自の言葉がある。県内の地域差で方言が違うところは他にもあるだろうが、こんなに違いのある県は珍しいのではないだろうか?
「ありがとう」は、庄内では「もっけだのぉ」、置賜では「おしょしなっす」、村山(山形)地方では「ありがどさま(ありがとさまっす)」、
その場を去る際の「それじゃあね」は庄内では「しぇばの」、村山では「んだば」とか、置賜では「?(知りません、誰か教えて)」、
「私の家にお出でください(来てください)(いらっしゃい)」は置賜では「うちさござっとごやぃん〜」、村山では「おらいんぢさきてけらっしぇ」、庄内では「?(なんて言うかな?)」、
とにかく、同じ県内なのに、語尾だけでなく使う単語まで違ったりする土地柄なのである。言葉は文化であるから、それを使う人々もやはり違う。それを理解しないで接しないと困る事もある。人間と人間だから、真心を持って正面から相対すれば結局は理解してもらえるのであるが、「初対面」の時などはお互い余り良くない第一印象を持ってしまう事もある。文化はその土地に長くしみ込んでいる歴史に基づく。だから歴史を知り、言葉を理解しなければ、その土地で医師として人に相対することが表面的なものになってしまうおそれがある、と考えている。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005.11.09

置賜の歴史編その2

(その2を書く気になっている自分に感動。。。)
 前回は、米沢と上杉が中心だったので、それ以外のことに少しずつ触れる。
 そもそも、なぜ「置賜地方」なのか。すでに続日本紀や延喜式には「ヲイタミ」という言葉が出ているらしい。元々は陸奥の国に属していたこの地方を、西暦712年に置賜と最上の二郡を出羽の国に付加したことになっている。京都の朝廷から陸路で見れば、今は太平洋側で(死語の表日本で)ある陸奥の国は「みちのおく」で、出羽の国より更に遠い奥の国、奥州であったのだ。
 出羽(でわ)の国とは、古来朝廷に鳥の立派な羽を貢ぎ物としていた事からついたらしい。白鳥が昔から渡って来たであろう事は11/7に書いたように想像に難くないし、鷹などの野鳥も豊富であったろう。「イズハノクニ」と本来は呼ばれていたらしい。930年代に書かれた和名類聚には、出羽を以天波(イテハ)、置賜を於伊太三(オイタミ)と訓じてある。
(しかし、オイタミ、置賜の言葉の由来は今日の時点ではわかりません)
 時は鎌倉に移り、源頼朝は奥州征伐に功績のあった頼朝の参謀ともいうべき鎌倉幕府官僚大江廣元(NHKの「義経」では松尾貴史さんが扮してます)に、現山形県の寒河江と長井の庄を与えた。廣元の子時廣が長井庄の地頭になり大江氏は以後長井姓を名乗った(私の仮のアパートがある長井市はこの長井の庄からついた名称でしょう)。
 室町時代になり、西暦1380年、伊達郡の領主(伊達家も元は頼朝の御家人で奥州征伐の功で伊達郡をもらったため伊達と名乗った)伊達宗遠が長井庄を侵略し長井氏は滅亡した。伊達氏は高畠城(米沢の北隣の町、今も高畠町という。ワイナリーがあり、「泣いた赤鬼」などで日本のアンデルセンと呼ばれている浜田広介の出身地、新幹線の駅もあります、そうSwing Girlsの舞台になった高校は旧高畠高校校舎でした)を本拠として置賜を鎮撫し、以後十七代(独眼竜)政宗まで十代、210年にわたって置賜地方を領した。伊達家十五代晴宗から米沢城を本拠とし、幼名梵天丸の伊達政宗貞山は米沢で生まれた。政宗は家督を継いだ後、華々しい活躍で領土を広げて行ったが、豊臣秀吉はその威力を恐れて岩出山移封とし、政宗は天正十九年(1591)米沢を離れる事になった。
 代わりに米沢に入ったのは蒲生氏郷(豊臣秀吉の家来、妻は織田信長の娘冬姫)の配下蒲生郷安であった。蒲生氏郷は伊勢12万石の城主から様々な戦功によって奥羽鎮護として会津92万石の大領を与えられ、米沢城三万八千石を蒲生郷安に支配させたのである。しかし、蒲生氏も御家騒動で1598年に秀吉から宇都宮移封を命ぜられ、その後に入ったのは蒲生氏郷の死後会津城主になっていた上杉景勝の執政直江兼続であった。今日の米沢の町づくりの基礎は、この兼続の手によってなされたとされている。そして、関ヶ原の戦いで西軍についた上杉は米沢に転封となり、昨日の上杉米沢に続く事になる。(フーッ!)
ーー
 ということで、有史以来徳川幕府滅亡までの米沢を中心とする置賜の歴史を概観した。
 日本全国どこにでもある事だと思うが、時の政権の思惑や身内の争いなどで領主がいろいろ変わるのである。山形県の中心、村山地方は元は14世紀から足利氏の一族斯波氏が羽州探題として山形城に入り、最上と名を変えた。一時伊達配下となって衰退したが、最上義光(よしあき)が57万石の大名として秀吉に使え山形を支配していた。義光の娘駒姫は絶世の美女と言われ、秀吉の子関白秀次が駒姫を側女にしたが、秀次が秀吉により切腹させられるとその家族、側女も全員打ち首に処された。最上義光は秀吉に駒姫の命乞いをしたが聞き入れられなかった。後に関ヶ原の戦いで義光は東軍について(当時会津の)上杉と闘ったのはこの時の恨みも一因と言われている。最上義光の死後、様々な御家騒動などを経て改易され最上家は大名から交代寄合に格下げとなった。山形城には一時、昨日の上杉の話しにも出て来た、徳川義光の異母兄弟である保科正之が入り納めたが、上杉が会津から米沢に移った際に、保科氏は会津に入り、その後松平と名を変え親藩としてその後徳川幕府滅亡まで会津を納めた。
 会津の白虎隊など、会津藩が江戸時代末期の様々なシーンに出て来る(蛤御門の変とか新撰組とか)理由は、山形から会津に移った保科正之に始まる、徳川家直系の血筋としての誇り、立場が大きく関わっている。であるから、米沢以上に福島県の会津地方は、未だに「薩長憎し」のような風土が根底に無言に流れている土地柄のように感じる(あくまで、薩長に近かった九州生まれの私の独断ですが、喜多方に住んでいた時に感じた事であり外れていないと思います)。余談に継ぐ余談ですが、私の母の話しによると母の曾祖父は日向高鍋藩のどこかの城の家老として薩摩藩と共に蛤御門の変に参戦し、宮崎県内に残る最も古いとされる写真を1864年に帰路の廣島で撮影したということです。
ーー
 ということで、無理矢理ですが、日向高鍋藩出身の名君上杉鷹山公と、現在置賜で働く高鍋藩縁の私が、ここで結びつく訳です。チャンチャン!
 こんな歴史の話しを何故書き始めたのか、それは明日以降のお楽しみ〜!

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005.11.08

置賜の歴史編その1

 日本は、戦後60年、明治維新後140年という今でもなお江戸時代を引きずっている。江戸時代はご存知のように大政奉還まで270年近く徳川幕府によって納められた。地方から見れば江戸によって強硬な支配が300年近く続いた訳で、100年やそこらでその名残は消えないのである。そこで、私の住む土地の歴史について少し整理してそのことによって、今の私を振り返りたいと思う。
 ーー
 今日は、現在私が勤務する地域の総称である「置賜」の歴史その1について語る。
 置賜地方最大の街は、米沢市。上杉の城下町として知られている。上杉氏は元をたどれば藤原氏、足利氏に繋がる由緒ある家柄で、本来は「関東」が地盤であった。しかし(詳細は省略しないと長くなる)、「越後の虎」と呼ばれた、当時長尾景虎を頼って関東から落ち延び、景虎を養子にとって上杉とし、景虎は上杉の名と家宝、関東管領職名を継いで名を政虎、更に輝虎と改めた後、出家して「上杉謙信」を名乗る事になる。
「米沢上杉家藩祖」の誕生である。謙信と信玄の「川中島の戦い」はつとに有名であるが、場所は長野県にある。しかし、現代、「川中島の戦い」は米沢で再現されている。
信玄が亡くなった後、反織田信長勢力の筆頭と目されていた謙信は、しかし、伝文によると「脳出血」で48才で亡くなっている。「人間50年、、、」の時代だからそんなに早死にでもなかろう。力を持っていたものが消えると残ったもの同士で骨肉の争いが起こるのは世の常。生涯独身で子のなかった謙信の養子の二人、景勝と景虎が争って景勝が勝利するものの越後を二分する戦いの中、勢力を失い、会津120万石の城主となるものの、「関ヶ原の戦い」で西軍についたため(米沢生まれでそこを所領にしていた伊達政宗が岩出山に転封された後に)、上杉景勝が「米沢30万石」に転封される事になった.
 更に、江戸時代に家督相続の失敗で15万石に減らされ、越後ー会津と100万石以上の守護代であった名残の一族郎党家来職人を引き連れて転封された先の米沢では困窮生活がすぐに始まった。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは ひとの 為さぬ成りけり」
で有名で江戸時代屈指の名君、藩政改革の祖、とされている上杉治憲(後の鷹山)は謙信を藩祖とし第一代景勝から数えて第9代藩主である。JFKやクリントン元大統領も「歴史上最も尊敬する日本人の一人」に挙げた程、世界的に有名な鷹山(ようざん)であるが、出身は宮崎の高鍋藩からの養子であった。
 ここで、また複雑で、きわどい江戸時代の血縁関係が出て来る。
 まず、30万石から15万石に減封されたのは、3代綱勝が嗣子を定めないまま急死したためで、本来なら「御家断絶御取潰し」となるところだったのを、綱勝の舅である会津藩主保科正之(実は徳川家光の実弟)の尽力によって綱勝の妹と高家の吉良義央の間に生まれた子綱憲が末期養子に認められ、存続したのである。
 吉良義央とは、年末には毎年のように「忠義の志士」赤穂浪士の討ち入りで打ち取られる「敵役」「憎まれ役」の人である。そう、吉良上野介は、第4代米沢藩主の父にあたることになる。そのため、赤穂浪士の討ち入りの際にも綱憲は必ず出てくるのである。「父である吉良義央を見殺しにはできない。浪士の討ち入りから守るか、否か」という決断を迫られるシーンで有名であろう。
そして、宮崎の鷹山。これがまた数奇な縁というか、母方の祖母、つまり高鍋藩主秋月種美の妻の母が、米沢藩4代藩主綱憲の娘であったのである。つまり鷹山にとって、吉良上野介は母方の祖母の父の父に当たる事に成る訳である。
 なんでこんな面倒くさい事を書いているかと言うと、最初に書いた通り、日本は未だに江戸時代を引きずっているという事を説明するためである。昭和も終わり平成の世、21世紀になっても米沢およびその周辺では、赤穂浪士の討ち入りを快く思わない人達がたくさんいるのだそうだ。12月になると必ずどこかのチャンネルで全国ネットで「忠義四十七士討入り」は「忠臣蔵」として全国ネットでドラマ化され放送されるが、米沢ではその番組は見ない人が多いというのだ。だって、米沢藩第4代藩主綱憲の父で、名君鷹山のおばあちゃんのおじいちゃんに当たる人が悪役にされているのだから。
 家臣6000人という100万石の体制を30万石、15万石となっても崩さず、それがために領地を返上しようとまでしていた米沢藩を復興させた鷹山公への置賜地方の人々の尊敬の念は今なお強く、越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって上杉への愛着は強く、平成の御代になってもその名残は感じる。
 藩祖謙信の遺骸を納めた甕は越後春日山(新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置され、現在では上杉廟所といって謙信以来代々の藩主のお墓が米沢にあり、米沢の人々の「上杉」に対する想いは強いものがあると感じる。その原因の一つに、こういった歴史を元にした学校教育がある。
 米沢市内の小学校では、教室や体育館の正面向かって左に藩祖謙信の絵、右に名君鷹山の絵が飾れている。鷹山が創設した藩校興譲館は、今は山形県立米沢興譲館高等学校として残り、この地域屈指の進学校である。そういった子供達に対する長年の教育が、この地方に暮らす人達に「米沢は、最上山形ではない。上杉である。」という、良く言えば誇り高い、悪く言えば排他的で自尊心の強い気風を残しているのかも知れない。
ーー 
 今回は、米沢と上杉の話しでした。次回は、あるのか???(^^;;;

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.11.07

Le Cygne 白鳥

 昨晩の管理宿直では、陽が暮れてから0時までの間に宿直医に3人の患者を診察を求められ、2名を入院させたが、その後は朝まで起こされる事なく平和に過ぎた。宿直室のベッドが安っぽくマットが硬いので腰と首が痛い。「寄る年波」か、、、
ーー
 音ブログの背景を変えてみた。最新の演奏はサン・サーンスの「白鳥」Le Cygneである。
 酒田市から日本海に注いでいる最上川。その河口近くは、日本有数の、そして本州最大の白鳥飛来地である。10月になるとシベリアなどから渡ってくる。絵に描いたように綺麗な二等辺三角形の二辺を保って編隊飛行して来る。そのバックに夕陽を浴びた鳥海山などが見えると、それはもう素晴らしい絵画の世界。
「スワンパーク」という白鳥に餌付けできる場所もある(餌をやると数倍以上いると思われる鴨が寄って来るのが難点だが)。
http://www.city.sakata.yamagata.jp/sakata_tmp/swan/

 白鳥は、近くに広がる庄内平野に群れで移動して、田んぼや畑で虫などを食べているらしい。スワンパークと田んぼの中間地点に建っている前任地の病院の隣にある官舎の前の駐車場に車を停めておくと、よく「白い爆撃」に晒されていたことを懐かしき思い出す。もうあの爆撃に晒される心配はない。
 今や、日没も早くなり、夕方5時には暗い。7時からのオケの練習に出かけて行っても白鳥の姿は見れなかった。
ーー
  あと13日で本番。今度の日曜には、ギターのソロをやる福田進一氏の代役で、このブログでも何度か紹介した「庄内国際ギターフェスティバル」のマスタークラス受講生最優秀賞とオスカー・ギリア賞を獲得した、松尾俊介さんがソリストとして来られる。松尾さんはパリのコンセルヴァトワールを一位で卒業され、既にいくつものリサイタルをこなしている、れっきとしたプロである。Picc.の私は、pで第2、第3レジスター間の跳躍の多い、この曲に今から緊張している。練習してもなかなかうまくならない(ただ練習量が足りないだけだが)。
 かすれて音が出ないくらいなら、fになってもキチンと音程のとれた音を響かせた方がいいと思う。村治佳織さんの美しいDVDを見ながら指揮やギターにあわせて、アランフェスを全曲通してみるがどうも上手く行かない。一人でリラックスした状態で上手く行かないのに本番はどうなるんだろう?とドキドキ、というか不安がある。
「何とかなるだろう」という、いつもの良く言えば楽天的、悪く言えばいい加減な気持ちもある。
今度の日曜の松尾さんソロ、工藤さん指揮の疑似本番でどうなるか?自信を持つか、落ち込むか。
とにかく集団のオケの中でもピッコロは一人しかいないし音が目立つし(目立つように作曲されている事が多い)、失敗は最小限にとどめたい。
 N響のピッコロ奏者である、菅原潤さんの"Dedication for Piccolo"というCDを買った。とても美しく感動する演奏である。これを聴きながらピッコロの音像を頭に焼き付けている。ピッコロ演奏のお守りとして聴きながら、今度の疑似本番に向かおう。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2005.11.06

今日も宿直、そしていろいろな話題

宿直。決して多い訳ではなく、普通のペースで月に2、3回はあたる管理宿直です。
ーー
今日は悲しいニュースから。
歌手の本田美奈子さんが白血病との闘病むなしく今朝方お亡くなりになられたそうです。歌手としての復帰を夢見て辛い治療に耐えていらしたとの事。可愛そうです。不憫ですね。
アイドル歌手から、クラシックそしてミュージカルの歌手として再起(?)して見事に成功を収め始めていた矢先でした。これからまだたくさんやりたいことがあっただろうな〜と思うと悲しいというかむなしいというか。。。
「題名のない音楽会21」とかいろいろなTV番組でファルセットの発声を披露されていました。僕には、『マリッリ〜ン〜!』とホットパンツ(っていうのか?)で踊りながら歌っていたアイドル時代の彼女が、まだまだ不十分ながらもソプラノ歌手を目指し飛躍して行こうとする姿を見て、かなりの努力をしているだろうな〜と思いました。ただ、歌手は「太れ!」と言われるのだそうで、あんな細い身体ではクラシックの歌曲を歌うのは厳しいんじゃないかな〜と感じた事がありました。
御冥福をお祈り申し上げます。
ーー
今日も朝から12時間ぐらいの間に脳外科だけで4名入院させました。病棟で朝方一人お亡くなりになられました。80才超の方ではありましたしほぼ寝たきりだったんですが、35分間心マなど蘇生を試みました。家族が到着して5分ぐらいやったんですが、全く心電図はフラットのままだったので死亡宣告致しました。
またまた、午後昼食を摂る時間を含めて3時間程アパートに戻ったのみで、その他はず〜っと病院内にいます。
ーー
昨日は、アマオケの練習に行きました。3曲のうち、序曲のベルリオーズ「ローマの謝肉祭」には乗らないので、その曲を重点的に練習した最初の50分位は椅子に座ってただ聴いているだけでした。ただ昨日はスコアを持参したので、それを眺めながら練習を聴いているといろいろ面白かった。打楽器がスコアでは真ん中のほうに書いてあるのですがそこを見ながら、Vnと同じ旋律を吹くフルートは一番上なのでそれを見て、一番下のコンバスはやはり基礎の基礎、ベースですから参考にします。指揮者はスコアのどこを見て棒を振ってるんだろう?全部を視野に入れているのかな〜?私のノリ番の「アランフェス」と「ブラ4」も実質は1時間くらいで終わりました。なんか不完全燃焼でした。
本宅と練習場は車で片道1時間半、往復3時間かかります。今の病院の官舎である別宅からだと往復4時間強かかります。途中、「出羽三山」と呼ばれる月山、羽黒山、湯殿山の間を縫うように走る「月山新道」に高速道路がないため115kmくらいの距離ですが1時間半以上かかるのです。練習後、オケ仲間と行きつけの喫茶店「山茶花」によってお茶をしました。帰る途中、23時頃月山新道の途中で余りにも星空が綺麗なので車を停めて3分程夜空を眺めました。
 先日も書いたように、(少し小さくなったような気はしますが)赤い火星が天頂近くに見え、そのすぐ東側に昴が、そして東南方向にオリオンが見えました。空気が澄んでいて山奥で暗いため、「小三ツ星」も綺麗に肉眼で見えましたし、久しぶりに「天の川」を観ました。
流れ星も2個確認。何をお祈りしたかは内緒!
ーー
tPA(組織プラスミノーゲンアクチベータ)が「脳梗塞の治療薬として」厚生労働省から認可された。
脳梗塞は血管が詰まる病気なので、詰まったところを溶かしたり開いたりして、再開通すれば治りそうな気がするかも知れない。しかし、再開通すれば血が行ってなかったところに急にまた血が流れて来るので、ダムを造るために木々を伐採して裸にした土地に急に洪水が起こるような感じで、血が溢れて出血を起こしてしまう。血栓を溶かす事によって溶かす前よりも具合が悪くなって死に至る人もいる。故小渕総理がそうである。
だから時間との勝負。Time is money!である。tPA以外にも血栓を溶かす薬はある。代表的なものはウロキナーゼ。心筋梗塞の時に、血栓の詰まった心臓の血管をこの薬で再開通させ、心筋が壊死を起こすのを防ぐ事が出来る。脳梗塞でも、症状がひどくなく(つまり広い範囲に程度の強い梗塞が起こっていない)発症から短時間(短ければ短い程いい、一般的には3時間以内)であれば、血管内治療と言ってカテーテルを詰まった脳の血管のところまで到達させてそこから直接ウロキナーゼを流す血栓溶解療法が行われて来た。ただ、これが可能になるのはそれなりの設備とマンパワーがありしかも発症後すぐに救急に来てすぐに諸検査が滞りなくできる体制のできた脳卒中対応型の病院でなければならない。必ずしも救命救急センターなどなくても、脳卒中センターでなくても、大病院でなくてもやる気があればできることではある。
 tPAは10年以上前に日本でも臨床で使われていた。切れ味が鋭く、ウロキナーゼよりも動脈注入(カテーテルによる)で血栓を溶かす力が強い印象を私自身感じた。しかし、いつの頃から臨床での使用が難しくなった。一つは、厚生労働省に認可されているのは「心筋梗塞」だけで、「脳梗塞」には保険が通っていなかったこと。もう一つは、薬の特許を巡って日米企業間で訴訟紛争が起きて日本では使用が一般的には中止となり、日本は世界の常識的脳梗塞治療の流れから取り残されていたのである。
(YOMIURI Onlineより)
『脳梗塞には従来、血栓を溶かす効果的な方法がなく、脳梗塞が広がるのを防ぐ薬などが投与されてきた。そこに登場したのがtPA。血栓に吸着して効率よく血栓を溶かし、脳の血流を速やかに再開させる。この薬は心筋梗塞治療としては既に承認されていたが、今回ようやく脳梗塞についても追加承認された。欧米に約10年遅れだった。国内の治験では、脳梗塞の発症後3時間以内にtPA治療を行うと、3か月後に、ほとんど後遺症なく社会復帰できた割合は37%だった。米国での治験もほぼ同じで、社会復帰の割合は処置しない場合より5割高かった。』
 けっして夢の薬ではない。効果が強いということは副作用も強いのだ。適応を誤って使用すると、または適応であっても場合によっては、脳梗塞に陥った脳から出血を起こし強い脳腫脹(腫れ)を来たし後遺症どころか命に関わってしまう危険性が高くなる。今回承認されるにあたって、日本脳卒中学会は自主的にtPAを使用するであろう、全国の脳外科医、神経内科医、脳卒中治療に当たる医師に、tPA適正使用の講義を受講するよう義務付けて全国でこの講演会が行われているらしい。私も金曜日に受けた。
 脳梗塞に対する正しい知識と意識を持った医師で、それ相応の設備のある病院に勤務していれば、使用は可能である。このような講演会が行われている背景に、もちろん近年の医療訴訟の増加は影響を与えている。しかし、問題は国や厚労省が音頭をとったり講演会を開いたりするのではなく、法人ではあるが学会が行っている点である。つまり、医者が自らきちんとやろうと医者を教育啓蒙して「正しい医療」を行おうと努力を見せていることである。こんなことはこのブログに書かない限り一般市民は誰も知らないだろう。
 何故、こんな講習会があるかというと、端的に言えば「良い薬を誤った使い方によって悪い結果をたくさん起こして、世間の信用や医学会の評価を落とすことを避けたい」ということになる。
 上記に書かれているように、適応のある患者に正しく使えば従来よりも結果が良いのは明らか。それを誤って使用することで後遺症が悪化したり死亡が増えたりする事を避けるために医師の組織する学会が、医師を指導するという形をとっている訳である。詳しくは知らないが世界中でこんなきめ細かな対応、悪く言えばプロに対しておせっかいな口出し(?)をしているのは日本くらいではないだろうか。プロ中のプロの学会中枢の医師達が、末端の医師をプロとは認めていないという証でもありそうだ。 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005.11.04

Just to remind

ネタがないわけではないが。
ーー
明日11/5は、夜、Swing Girlsの映画がTVで放送されるはずです。
お忘れなく!!!

お弁当を運ぶために、地元コンクールに出るために、彼女達が乗った一両編成単線のローカル線「フラワー長井線」とその沿線の景色を御堪能ください。v(^^
私の勤務先が、いかに田舎がよ〜〜くわかりますよ。
http://swinggirls.jan.jp/

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2005.11.02

「火垂る」と火星

 昨日、野坂昭如氏原作でスタジオジブリのアニメ版映画にもなった「火垂るの墓」のドラマが放映された。
ドラマが始まる直前に私は急患で呼ばれたので、録画にして病院に向かった。患者を一名入院させ、帰宅したのはドラマがクライマックスを迎える頃であった。車を降り駐車場で空を見上げると、満点の星空だった。この辺りは、明かりも少なく更に昨日は新月の一日前で寒くて空気も澄み渡り星空が綺麗に見えた。
 最近地球に最接近した火星が、オレンジ色に天頂近くに見えた。肉眼でも縞模様が見えそうだった(見えるわけないが)。火星のやや東南方向に、ボワ〜ッと「昴星団」が見え、その下(東南)には冬の星座「オリオン」が綺麗に見えた。
「あ〜、もう冬が来るんだな〜」
昴とオリオンを見てそう思った。

白く輝く美しい星々と火星の異様な程の赤さを目にした後、部屋に戻ってドラマを見た。
内容についてはあえて触れない。「節子」役の少女の演技は見事だった。ホタルの灯りが不自然ではあったが、幻想的な映像ではあった。ホタルの多く生息する土地に行った事があるが、同じように黄緑色の光だった。確か赤い光を点滅させるホタルもいたはず。火星のオレンジの暗い光からドラマを見る前にホタルの光のことが思い出されたのだった。
ドラマをご覧になった方もご覧にならなかった方も、日テレのサイトにある原作者野坂氏の「ドラマ化によせて」という一文を読んで見られる事をお薦めする。
考えさせられる。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005.11.01

地元枠の意義

11月になりましたね〜。私も急な移動でバタバタして、ようやく落ち着いて来たところです(まだ未開封の段ボールがたくさんですが、、、)。
ーー
昨日予告済みの国立大学「地元枠」のお話しをします。
(朝日新聞、Asahi.comより一部引用)
『06年度入試では一気に12大学が導入し、計16大学になる。すべて教師や医師を養成する教育学部と医学部だ。背景には、急速に進む大都市近郊の教員や、過疎地を中心とする医師の不足がある。これまで受験機会の平等という原則から、実現しにくかったが、法人化で地域重視の方針も実現しやすくなり、導入が加速した。』

教育学部の話しは飛ばす。

『国立大で先に地元枠を設けたのは医学部だ。中でも学生の地元への定着が悪かった滋賀医大が法人化前に、目立たない形で98年度に先行した。05年度は信州大と佐賀大が導入、06年度は秋田大や三重大、鹿児島大など9大学が新たに導入し、計12大学で実施される。』 

 「過疎地」の定義についてはここでは不問とするが、別に過疎地でなくても地方では「医師は不足」している。しかし、なぜここまで「国立大学の医学部」が、言ってみればなりふり構わずするようになったのか、よく考える必要がある。県立医大や私立医大ならば、建学の理念とか意義、目的の中に「地域住民に貢献する医師を養成」ということがあってもよい。しかし、国立大学はその財源は国民の税金であり県民税や市民税ではない。国が建てて運営しているのだから、国民に広く平等にその利益を還元しなくてはならない。それなのにこの制度は、受験生の立場から言えば、「地元が有利」なのである。地元の高校生を優先して入学させるという制度である。そうしてまでも、地元に医師を確保したい、という「地方国立大学」の切実な願いが具体的な策として現れたものである。
 「一県一医大」構想の下、昭和40年代後半から50年代前半にかけて全国で医学部が増えた。「新設医大」と呼ばれていた。私もその「新設医大」卒業の口である。今のようなセンター試験とか共通一次試験とかが出来る前の、「一期校」「二期校」の世代である。同級生には、東大理IIIやいわゆる旧帝大系医学部受験に失敗してきた「凄く出来る奴」が大勢いた。当時、医師不足、特に地方、過疎地での不足が大きな問題で、簡単に言えばもっと医学部を作って医師を増やそう、という計画であった。私の母校が昭和48年に第一期生を迎え入れた時、県の関係者は大きな衝撃を受けた。100名の新入生のうち、地元の高校出身者はたった一人。99人は、他県、特に東京を中心とする都市部出身者で占められていた。
「田舎の大学で医学を学んで、卒業したらみんな東京に帰るんじゃないか?」
多くの人がそのように危惧していた。しかし、実際には半分以上の卒業生が地元に残った。その人達は、今や卒後27年目の中堅ベテラン医師。私が6期生で、卒後22年目。多くの卒業生が県内各地域病院勤務医や地元開業医として、また出身大学はもちろん全国の教授、助教授として大活躍をしている。私を含めて、何が彼らをそうさせたか。東京出身者6割、関東出身者8割を超えた同級生の4割近くが卒業大学またはその関連に残った我々や先輩方は何を考えてそうしたのか?
「あまり深く考えず、自然にそうなった」という人もいるだろう。
「6年暮らして、住めば都。愛着がわいた」、「先輩の姿を見て、自分もここに残る気持ちになった」
など様々な意見があるだろうが、一言で言うと私は「医師となるにあたっての志」ではなかったか、と思う。
しかし、最近は事情が変わって来た。
大学の医局制度が批判されている(確かに良くない面もあるが、凄くいい面もある)。2年前から「初期研修医制度」が必修義務化された。出身大学に残るよりも、自分の出身地近くの「有名な」研修病院で学ぼうという考えをする医学生が増えて来た。うまくせつめいできないが、地方の魅力も認めながら「都会」に憧れ「都会」での生活を優先する気風が医学生の中にある(都会への憧れは若者に限らず誰にでもあると思うが)。「地方」で、「田舎」で、医師をして人の役に立とう、という志が少なくなって来た、ような気がする。

 私の母校でも、地元枠ではないが、かなり前から「推薦枠」を増やした。その結果、地元進学校の入学は確かに増え、明らかに増えたのは「女性」であった。地元出身者が増えた分だけ地元に残る医師が増えたのかどうか、具体的な数字はわからない。お隣りの秋田では、8割弱を占める県外出身者が県内の医療機関に就職するのは3割程度なのに対し、学年の2割強の県内出身社の7割が地元に就職する、ということで、地元枠の拡大、設置に期待しているらしい。確かに地元の出身者を増やせば増やすだけ確率的には地元に定着する医師が増えるような気はする。
 数年前の事、地元出身の学生と話しをした事がある。
「地元の大学に残って勉強し地元の住民に学んだ知識技術を還元する」ことを説こうとすると、「小、中、高そして大学と地元で親元から通ったので、卒業したら他所の土地に行って一人暮らしをしたい」と答える医学生が一人や二人ではなかった事に衝撃を受けた。
親元から離れたい。その気持ちはわかる。成人して親と一緒に暮らすのは楽な反面、「大人」としての独立性が乏しい。一方、卒業して医師になり地元に残るとすれば親元から通勤するのが楽ではあろう。経済的な事もあるが、親と暮らせば食事や洗濯の心配も少ない。親と一緒に暮らし地元で医学の勉強を続ける事と、親元を離れ少々苦労はするものの自由を手にし故郷から巣立って都会や魅力ある他所の土地に暮らすことを比較すれば、多くの若者は後者を選択するのではないだろうか。地元定着率が増えるから地元出身の学生を優先して入学させる、というのは一面では正しいとしても、残る方を選択する者は、中には「自分の生まれ故郷のために働きたい」という志の高い者もいるかもしれないが、楽な生活、安易な生き方、を選ぶようなより志の低い医師を養成する事にならないだろうか。杞憂に終わればいいのだが。。。
ーー
『「県内では、お産ができない、麻酔医がいなくて手術ができない、といった話が珍しくない」と話すのは、秋田大の飯島俊彦医学部長。同大では、95人の定員のうち5人を地元枠とする。』(同じく朝日新聞の記事から) 

 志だとか地元への貢献だとか言っていられない、背に腹は代えられない事情が、地方の医学部にはすでに起こっている。「一県一医大」政策は実行され、もはや30年を過ぎて「新設」医大という言葉は消えた。毎年、8000人以上の医学部卒業生はどこに行っているのだろう?


| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »