« お盆と病院 | トップページ | 音楽の映像 »

2005.08.14

脳の機能分化と同定

 今日は日曜日。お盆の中日で入院患者さんも少し減り、ICU以外は平穏な感じ。早く帰って笛でも吹こう、と思っていたが、TB先の医学生のサイトにウェルニッケ野の事が書いてあったのですこし反応する。
 私が、そもそも、脳外科医を目指した理由の一つに、Wilder Penfield博士の存在がある。カナダのモントリオール神経科学研究所(MNI)を創立した脳外科医で、医学教科書以外にもよく書かれている、運動野や感覚野の対応する身体部位のhomonculusの絵の元になる研究をした一人として知られている。20世紀前半に活躍された方なので既に他界されているが、1954年発刊の名著「Epilepsy and the Functional Anatomy of the Human Brain」(てんかんとヒトの脳の機能的解剖)は私の宝物(約20年前に買った、すでに絶版となっている)である。
 内容は素人の方にはかなりショッキング。しかし、Penfield博士の仕事のお陰で脳の研究、理解が飛躍的に進んだ事は間違いない。現在の一つ前の世代くらいの大学教授達の中にはMNIに留学した脳外科医がたくさんいる。かいつまんで言うと、頭を開いて手術をしている最中に、脳の表面に小さな電極をおいて微弱な電流を流しながら、一時的にその部分の働きを麻痺させて、その際の患者さんの反応を調べる、という仕事である。「個人情報保護法」なんて存在しない、第一次と第二次の世界大戦の間の頃の話しなので、本を読むと『患者M.N. 52才、脳腫瘍、図で示した中心前回のXXの部分に電流を流すと、「先生、右の親指と唇がしびれました」と言った』という感じで、細かく手術中の患者とのやり取りや患者の発言、反応が記録されているので、その患者が誰なのか調べようと思えば簡単に特定できてしまいそうな内容ではある。
 こんな名著はもう出ないと思っていた。なぜなら、こんな手術は全身麻酔法が未確立でリスクの高かった、彼の時代だからこそ成り立った物である。全身麻酔と言っても、今のように閉鎖式循環麻酔器などはなく、麻酔医がエーテルをぽたぽたたらしたガーゼをかがせながら患者の自発呼吸のあるままで行っていたので、麻酔が浅いと患者は痛くて暴れだし、深すぎると呼吸が停まってしまって手術台の上で死亡する、という位リスクの高い時代である。ところが、以前にも書いたように、脳は「痛み」を感じない組織である。頭で痛いのは、皮膚、一部の硬膜(という脳を包む膜)位なので、鎮静(鎮痛ではない)させて頭皮にたっぷりと局所麻酔薬をうてば全身麻酔をしなくても開頭手術が可能であったのである。ただその当時の患者さんは、いくら「ムンテラ」されたとはいえすごい度胸と忍耐力だったな〜と感銘を受ける。
 20世紀の最後の最後、1992年だったかな、にプロポフォールという薬剤が発売され世界中に広まった。この薬剤は静脈に投与する注射薬であるが、鎮静効果に優れている上、非常に切れが良い。薬を切って10分もするとグーグー寝ていた人が喋れるようになる。それを用いて、無挿管の全身麻酔(酸素をかがせながら注射薬だけで麻酔の深さをコントロールする、これはパソコンなどを麻酔器の傍において、薬物投与量と積算量と麻酔の深度を計算しながら綿密に行われる)で脳外科の手術も行われるようになった。頭を開いて顕微鏡が術野に導入される頃合いを見て、プロポフォールを切る。患者が暴れたり騒いだりしない、静かな覚醒がこの薬の持ち味。
「○○さん、わかりますか?」
薬を切って10〜15分くらいして呼びかけるとうなずきながらうっすらと目を開ける。
それまでの間に周囲に用意していた様々な機器で脳表の電気刺激による検査を始める。
事前にMRIやMEGなどを用いて検討していた、病変と切除部位の関係をナビゲーション装置や様々な最先端機器を用いながら術野に応用する。そして特別に開発した細くて柔らかくしかししっかり持てる電極を脳の表面に当てて、0.5〜10mAという弱い電流を流しながら、患者さんにいろいろな質問をする。よくやるのは、刺激に対応すると思われる手の指を「動かせ」と命じたり、スライドを見せながら「これは何か?」と答えをいわせるものである。
容易に想像できるようにものすごく手間と人手がかかる。手術を直接担当する執刀医(主に教授)、助手2名、麻酔医2名、脳表の電気刺激とそのときの脳波の記録を担当する医師2名、スライドを見せたり質問しそれを記録する医師2、3名(言語療法士や言語学の研究者をまじえる事もある)、手術野の絵を描いたり記録を行う医師1、2名などなど。最低でも8名、多いときは12名くらいの人手がいる。これに手洗いをした器械出しナース、サポートナース、手術の様子の写真やビデオを取る技師などをいれると手術室に患者以外で15名くらいの人が必要になる。一般市中病院ではこのような人手は得られないので、一人がいくつかの仕事をかけもちしたり同時に行う事になるが、結構煩雑な仕事が多いので大変である。こんな高度な最先端な事を行っても、保険診療上は「覚醒下脳腫瘍摘出術」などという項目はないので、普通の脳腫瘍の手術と同じ点数約80000点で終わりである。
だからどうしても人手が集まり研究を行う大学病院で行う事が多い。
 こうして、昔だったら「切ってみなければ後遺症が残るかどうかわかりません」「出来るだけの事はやりますが、術後に失語症がでるかもしれません」なんて言っていた時代が、ペンフィールドの人の脳の地図を参考にしながら現実の患者の脳の地図を現場で作成する事によって、100%とはいなかいもののかなり高い確率で「手術後に失語症が生じないように切除できると思います」という「ムンテラ」が行える時代になって来てはいる。まだまだ発展途上の手術法ではあるが、これが必要な患者には必須のものとなる時代も来るかも知れない。ちょっと前に現場にかかわっていた(脳の電気刺激とその記録、脳波の計測など術中神経生理検査を担当)私ではあるが、必要な患者さんは大学病院に紹介して教授に執刀して頂くようにしている。
 よりよい医療を受けるチャンスがあるのなら、その事を知っていてそのように紹介したり勧めたりするのも医師の実力のうちだと思う。何でも自分で抱え込んだり、自分の病院だけで治療を完結させようとするのは正しくない事もあるのだということである。

|

« お盆と病院 | トップページ | 音楽の映像 »

コメント

 ペンフィールド博士の脳地図ってそんな風に作られたんですね。
脳の不思議を少しでも理解したくて読んだ入門書で目にしました。
 以前先生が「脳は人そのもの」と仰っていましたが、部位別の役割分担について知れば知るほど、新鮮な驚きに出会います。
 「覚醒下...」で手術する方法があるなんてホント凄いですね。

投稿: ムンテラ | 2005.08.14 15:29

覚醒下での手術は、痛みは感じなくても、精神的に強固じゃないと辛いのではないかと思うのですがいかがでしょうか?
以前、岩田隆信医師の「脳外科医が脳腫瘍になった時」(記憶があいまいで題名が少し違うかも)という本を読みました。
大学の助教授だった腕のいい医師の体験です。2冊出て、その後なくなりました。奥様の看病もすごくて、私は、読んだあと、なんだか怖くなりました。脳外科の世界は日進月歩で
進んでいると思いますが、それでも、もう望みが無くなってきたら、どこまで治療をうけようか・・・ こんなこと聞かれてもお答えにくいと思いますが。自分では答えを出しているのですが、いざ、その場になると、どうなるか。
生命学者で科学の本をたくさん書いている柳澤桂子さんが、辛くなって自分でもう治療をやめて欲しいと訴えた時、奇跡的に薬が効いて元気になりました。最近また体調が良くないようですが。
そんな経緯を知るにつけ、心は揺れてしまいます。ながくなってごめんなさい。

投稿: 侘び助 | 2005.08.14 17:23

あ、いつの間にこんな記事が!

そうですわ、僕が言うてたのはホムンクルスのあのことです。まさかそれがbalaine先生の脳外科医としてのスタートと関係していたとは・・・!
しめた!これから頭蓋内の疑問点はbalaine先生に頼れますね!また脳のことをブログで書くので、教えてください。(←横柄)

投稿: ユウ@来年研修医 | 2005.08.14 19:08

皆さん、コメントありがとうございます。
「覚醒下、、、」は確かに恐ろしそうな気がするでしょうが、逆に我々は術前から万全を期しています。手術のかなり前から病棟ナースはサポートチームを作り、術前日には手術室に当日とほぼ同様の器械をセッティングして患者さんを部屋にいれ、実際に手術台の上に横たわってもらい、どこか痛いところはないかとか、当たるところはないかとか、嫌なところはないか、と細かくチェックし対策をとります。そして書いたようにプロポフォールは静かな覚醒が特徴の鎮静剤で、手術中に完璧にぱっちり目が覚める訳ではなく、ややトローンとしてでも質問には答えられるくらいの意識状態が保たれます。小児には行っていませんが、大人なら老若男女問わず普通の精神状態の方なら大丈夫です。
 ユウさん、こっちも勉強になるので質問があったら何でも聞いてください。人に教えるという事は自分が勉強する事ですからね。

投稿: balaine | 2005.08.14 22:10

今年の3月、東京渋谷の東京電力、電力館、科学ゼミナールで
名古屋大学大学院医学系研究科教授、吉田純先生の
「脳画像と脳医療の最前線」という一般向け講演がありました。
その時、覚醒下脳腫瘍手術の映像を見せてもらい、本当にビックリしました。
患者と会話しながら、脳の手術をしているところは、まるで、中国の針麻酔手術のようでした。
言語野を傷つけないよう確認しながら手術をしているということでしたが、
今回balaine先生の細かい説明でよく分かりました。
医学の進歩ってスゴイですね。

投稿: mayako | 2005.08.15 16:39

mayakoさん、名古屋の吉田教授、日本の脳神経外科を牽引されている誇るべき方々のお一人ですが、私は吉田先生と一緒にゴルフやった事あります。接待ゴルフみたいなものですが。吉田先生は野球もお好きでスポーツ万能ですね。
 運動神経もよくないと人の脳なんか恐くて触れませんね。私の親なんか、未だにおっちょこちょいの息子の事を心配しています。「オマエ、大丈夫なのか?頭の中にメスを忘れたりしないのか?」と。「だいじょう〜ぶ!頭の中は狭いからメスとかハサミとか忘れてくるようなスペースがないんだよ」と答えていますけど。

投稿: balaine | 2005.08.15 17:15

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 脳の機能分化と同定:

« お盆と病院 | トップページ | 音楽の映像 »