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2005.05.20

鼻からする脳外科手術

 下垂体腫瘍という病気がある。脳腫瘍(正確には頭蓋内腫瘍)の中で3番目に多い腫瘍である。
 下垂体というのは全身のホルモンを管理する役目を負った中枢機関であるが、視床下部という脳の一部からコントロールを受けて頭蓋内に、脳の「下」に「垂れて」いる女性の小指の先くらいの小さな機関で、発生学的に言うと「脳」ではない。「腺組織」である。つまり乳腺とか甲状腺とかと同じように「ホルモン」を分泌するのである。
 そのほとんどが良性ではあるが腫瘍が発生しやすい。1960年代頃までは、開頭するしかこの腫瘍を摘出する方法は無かった。1960年代から70年初め頃にかけて、カナダの脳外科医Dr. Hardyが鼻から手術する方法を確立させた。実は、20世紀初頭、1900年から1910年頃にかけて、アメリカの脳外科医Dr. Cushingとドイツの脳外科医(名前忘れたので思い出したら後で書きます)が全く別々にほぼ時を同じくして、唇の裏から鼻腔に入る方法と鼻の穴から鼻腔に入る方法を開発していた、しかし当時は手術顕微鏡もルーペ(眼鏡のようにかける拡大レンズ)もなく、光源も乏しく、鼻の奥深くの頭の底をそれこそ手探り手術して大出血したり、下垂体のすぐ上を走行する視神経を破壊して失明させたり、不潔領域である鼻から無菌領域である脳の中にばい菌を感染させたりして(抗生物質がない)、手術した1/3が死亡したり重篤な後遺症を残したため、まもなく忘れられた手術法となってしまった。
 1970年頃になって、手術顕微鏡が開発されCTが出現し優秀な抗生物質が開発されたという好条件がそろったため、ハーディ手術は瞬く間に医療先進国で普及した。下垂体腫瘍はよほど巨大なものでない限りほとんど全摘出可能となり、後遺症もほとんどなく、手術で命を落とす人もほとんどいなくなった。革命であった。
 脳の中に巨大に発育した下垂体腫瘍や、鼻から手術して取りきれないような固い腫瘍などは、今でも開頭して脳の底に到達し視神経と内頚動脈のすぐ傍で腫瘍に接近する方法を行っている。1990年頃から脳の中にも内視鏡を用いる脳外科医は現れてきた。内視鏡自体はもっと古くからあったので、有名なDr.福○も内視鏡を使った論文を、確か1970年代に発表しているし、私も1987年頃にファイバースコープを脳の中に入れて手術を試みた事があった。
 光源、高精細モニター、より細くて明るくきれいな内視鏡、内視鏡用の手術器具などが徐々に揃う事によって、ようやく1990年代中頃から脳外科領域に内視鏡が積極的に用いられるようになってきた。私も大学で1996年から内視鏡を使い始め、下垂体腫瘍には1999年に初応用した。これまでのハーディ法と決定的に違うのは、上唇の裏を切ったりせずに、耳鼻科医がやるように鼻の穴からまっすぐ鼻の奥に入っていくのである。そして奥の方で鼻中隔の粘膜を切ってドリルで骨を削って蝶形骨洞という、下垂体が存在する脳の底の一つ前の副鼻腔に到達し、そこから頭蓋の底の骨に径10〜20mmの穴を開けて、下垂体部に到達する。そしてすべてを内視鏡の映像下に(テレビ画面を見ながら)腫瘍摘出をすすめていくのである(実はこのブログのプロフィールのところにいつもある写真は、私が内視鏡で下垂体腫瘍を手術しているところなのである)。
 この方法だと、鼻中隔粘膜を切開する以外はどこも「切らない」手術であり、腫瘍摘出後、頭蓋の底の骨を糊などで固めた後は、鼻腔内に抗生物質をつけたガーゼを1〜5日くらい詰めておくだけでどこも縫わない。もちろん口の中は何も触らないし、頭を開けないので髪もそる必要が無い。だから経過が良ければ、患者さんは手術したその日のうちに水を口から飲み、翌日には食事をとってトイレに歩く。鼻の穴には綿球が詰められているがそれを除けば、「脳腫瘍」の手術をしたとは信じられない状態である。
 米国では、この方法で手術を受けた患者さんで経過良好の人は、平均術後2.4日で退院だと言う。「脳腫瘍」の摘出を受けた、次の次の日か、その次の日には退院しているという事になる(この辺りは保険制度の違いもあるので、米国の場合、多少は無理矢理退院になる事もあり、日本ではだらだら入院している事もある事は、以前「米国の医療事情」のところで書いた)。
 この「鼻からする手術」のことを正式には経鼻孔経蝶形骨洞手術 transnostril, trans-sphenoidal surgeryと呼んでいる。私の所属した大学病院脳神経外科は、この方法を日本に導入したパイオニア的脳神経外科の2、3カ所の一つとして認識されていると思う。今や内視鏡を使って手術をする施設は全国的にも徐々に増えてきており、手術手技そのものを学会で論じる機会は減った。もはや「当たり前の方法」として全国に普及し、脳腫瘍の術後の患者さんのQOLの上昇に貢献していると信じる。

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コメント

>今写真は、私が内視鏡で下垂体腫瘍を手術しているところなのである)。
そうだったの。

今日(20日)はじめて、下垂体腺腫という言葉を知り、このブログを読む前に、検索してみました。
きょうが、創立記念日のxxx病院の山xx三のHPがありました。
でも、その手術の歴史をこんなにくわしくは書かれていませんでした。
写真を参考にあとで、じっくりよませていただきます。

脳外科医のかたがたが寝る時間がないのがわかります。でも、そのおかげで、すごいスピードで進歩しているのですね。

yomiuri weeklyを見ていたら、新進ピアニスト小菅優の母親が突然昨年12月、くも膜下出血で亡くなったとか。51歳!

いつか、脳動脈瘤破裂のサインがわかり、安全に治療できる日がきますように。

投稿: iruka | 2005.05.21 00:10

この腫瘍はプロラクチン産生とか
そうでないとか、
いろいろなタイプがあるそうですね。

治療として薬を飲み続けるという方法もあるそうですが、
それをすると手術となったときに、腫瘍が硬くなって切除しにくいとか。。。

なにしろホルモンを分泌する脳下垂体にできた腫瘍なので末端肥大が出たり、生理が来なくなったりで他の脳腫瘍とは違った症状もでるそうですね。

私の髄膜腫は脳下垂体の近くに出来ていたので、視神経・脳下垂体両方、触ってあるそうです。
術後、尿崩症を心配して
尿量の測定をしていました。
(結局、上手に手術をしてもらって
視野狭窄も尿崩症もでませんでした♪)

脳下垂体腫瘍にはこんな後遺症もあるんですよね。

投稿: ふにゃ | 2005.05.21 07:47

数年前に亡くなられた日本一有名な巨人症患者は当時60台だと思いますが、若いときに脳外科手術を受けたという噂がありました。
若いころというと1960年代、当然手術は開頭術と思われます。
私は彼が大木金太郎とボボ・ブラジルとアブドーラ・ザ・ブッチャーから同時にヘッドバットをくらうのをテレビで見たことがあるので、そりゃ無茶でしょうと思っていたのですが、その後彼が日本人Hardy第一号症例といううわさを聞きました。
そういえば彼の出身地と先生の出身医局は地理的に近いような気もします。(想像)
いろいろ言及しにくい時節柄ですが、そのへんはいかがでしょうか?

投稿: いのげ | 2005.05.21 13:26

いのげさん、その方はおそらく巨人症は間違いないのでしょうが、手術のことは知りません。

ふにゃさん、Prolactinomaの場合、アメリカなどでは薬物療法が第一選択になっています。でも「治癒」するかどうかは不確かです。手術にはそれなりのリスクが伴いますが、「治癒」の確立は薬よりず〜〜っと高いです。

irukaさん、余分な分は消します。
小菅優、注目していたピアニストです。お母様の事は知りませんでした。

投稿: balaine | 2005.05.22 12:25

治癒するか、どうか不確かな治療法(薬物療法)をアメリカではどうして第一選択にしているのでしょう?
医療費の問題からでしょうか、それともリスクを伴う手術は避ける傾向にあるからでしょうか?

投稿: ふにゃ | 2005.05.22 15:55

ふにゃさん、プロラクチノーマは下垂体から分泌されるプロラクチンというホルモンが高くなるため、妊娠可能年齢の女性では生理がとまりおっぱいが張ってお乳が出たりする事もあります。患者さんはほとんど場合、最初に産婦人科を受診します。プロラクチンが高いと、下垂体腺腫を疑って脳外科に紹介される事が多いですが、なかには産婦人科の先生が抗プロラクチン薬(3種類程あります)を処方してしまう事もあります。
 CB-154などの抗プ薬によって、血中プ値は下がり、生理が戻りおっぱいも出なくなります。症状が消えればあとは特に困る事もないので、「手術」と聞いて尻込みする人も出ます。また。、何年か(5年なのか10年なのか20年なのか、不明)薬を続けると、下垂体腺腫が消失すると主張する人もいます。確かに薬を飲むとMRI上、腺腫は小さくなります。ほとんど画像上消える事もあります。しかし薬をやめるとまた増大する事があることも知られています。よって「治癒するわけではない」ということになります。
 「小さなプロラクチノーマは手術せずに薬で良い」、という人と、「小さいからこそ手術で完治の可能性が高いのだから手術だ」という人に分かれています。前者は当然内科医(内分泌内科医)です。後者は当然脳外科医です。
 手術のリスクは0ではないので、「薬が第一選択」という考え方に決定的な反論はありません。薬で治療していても大きくなったり手術が必要となった場合、腫瘍が繊維化して取りにくい事がある、というのが唯一の反論です。
 私は、ですから、薬によって治癒はしないと思われるが症状はほとんどの場合改善する(薬の副作用=吐き気など、がなければ)ので、まず薬の治療を始めるのもお勧めできますが、手術で完全治癒を目指す事もできます、と説明しICを取る事にしています。日本でも、下垂体腺腫の中で、最も多かったはずのプロラクチノーマは、手術症例に占める割合では減少しています。薬の治療が第一選択になってきているのでしょう。
 ある医師が、抗プ薬を10年飲み続けた場合と、一回の手術で治療が終わった場合の医療費を比較したりして、手術の方がいい、などと言っているのも見た事あります。はっきりしていない事は、何年飲み続けたら終わりなのかがわからない、ということです。

投稿: balaine | 2005.05.23 00:43

ご迷惑かけてすみません。どうでもいいこと書くのをやめようと思ってのですが、でも、このブログを読むと、なぜか、拙い文でも、書き込みたくなってしまいます。

いつか、知人が、「15年前の3?歳のとき、アメリカ帰りの先生に、上唇をべろっとめくって脳腫瘍をとってもらったの。それから、わたしは、毎年七月には、ひこ星に会いに行く織姫になるのよ。」と言われたことを思い出しました。彼女も下垂体腫瘍だったのですね。

いろいろ、わかるとうれしい気分です。

投稿: iruka | 2005.05.23 01:35

脳下垂体腫瘍の治療について
詳しい説明ありがとうございました。
よくわかりました。

科によって勧める治療法が違うと
患者はきっと迷うでしょうね。

でも、急を要さない病気の場合
あれこれ調べた結果、最後は直感ですね。
医師が信頼できるかどうかにつきると思います。

いろんな情報よりも、決め手は目の前の医師というような感じがします。
あまりに単純かもしれませんが。。。

投稿: ふにゃ | 2005.05.23 22:43

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